第24話 前に

「月乃ミトが琴音だってわかったとき、確かに驚いたんだがそれ以上に俺は嬉しかったんだ。おだん子として、切り抜き動画配信者として、少しでも琴音の役に立てていたんだってわかって。月乃ミトを通して少しずつ接点が増えて、このままうまくいけばなんて淡い希望を抱いていた。琴音自身から目を逸らし続けているのに、調子いいよな」

「……」

「でも、それじゃあダメだって綾に、長野に教えられたんだ。どんなに怖くても、傷つくとわかっていても、未来を望むなら前に進むしかないって」


 ぺたっと張り付いた琴音の前髪をあげ、その瞳をしっかりと見つめる。琴音の目は悲しそうに歪んでいるものの、あの空虚さはもうどこにもない。


「俺は、琴音がもう俺を責めていないってことにさえ気づいていなかった。目を逸らし続けていたんだから当然かもしれないが」

「それは……」

「今回だってそうだ。最初は思わず怒りを俺にぶつけたけど、琴音の本心は違っただろ。だって本当に責めてるだけの奴が、私のことなんか忘れて、って言わないだろ」

「……」


 黙り込んだ琴音に微笑を浮かべ、ゆっくりとした口調で語りかける。


「俺がいなければ美琴おばさんは死ななかった。俺がいなければ月乃ミトとしての活動を辞めるように言われなかった。それがわかった上で言わせてくれ。俺は琴音のそばにいたい。おだん子でも、兄としてでもなく、恋人として琴音と先に進んで行きたいんだ」


 琴音が目を見開き、地面についていた両手で口元を覆う。そして視線をキョロキョロ動かし、言葉にならない声をしばらく漏らした後、うかがうような目で俺を見てきた。


「リク兄、でも長野さんと恋人になったんじゃあ?」

「なんで、俺と綾が恋人になるんだ?」

「だ、だって、合宿の時に抱き合っていたし、それに、その、綾って呼び捨てにしてるし」


 しどろもどろになりながら理由を話す琴音を見て、やっぱりそういうことかと確信する。

 そして俺はズボンのポケットに手を入れると、古ぼけた髪留めを取り出して琴音の前髪をパチンと止めた。


「あっ、これ」

「キャンプ場で拾ったんだ。やっぱり琴音は合宿に来ていたんだな」

「うん。そこでリク兄と長野さんが抱き合っているのを見ちゃって、思わず帰っちゃった」

「あー、そりゃあ誤解するよな。抱き合っていたのは、まあ、いろいろ事情があったんだよ。名前は、昔から琴音だって呼び捨てにしているだろ?」

「それはそうだけど」


 なおも納得を見せない琴音の強情さに昔を思い出して苦笑いしつつ、改めて琴音に背中を向ける。


「俺が好きなのは今も昔も琴音だけだ。負けん気が強くて、意地っ張りで、素直じゃなくて、不器用で、でもいつも頑張っていて、俺に元気をくれる琴音が好きなんだ」

「私、欠点ばっかりだね」

「俺だってそうだ。でもそれでいいだろ、それが俺たちなんだから。さて、本当に風邪をひくからそろそろ乗れ」


 面と向かって言うのには恥ずかしすぎるセリフを吐く俺の背中に、おそるおそるというのがわかるくらいにゆっくりと琴音が体を預けていく。

 急かすことなく俺はじっとそれを待ち、そしておずおずと琴音が俺の首に手を絡ませたところで琴音の両太ももを持って立ち上がった。

 雨に濡れているのに、あまりにも軽いその重みに少し心配になりながら歩き始める。


「ごめんね、本当に今までごめんなさい」


 耳元で聞こえるそんな懺悔の声に、俺は首を横に振って応えた。


「悪かったのは俺も同じだから謝らなくていいんだ。でも、きっと新美さんは心配しているだろうからちゃんと謝るんだぞ」

「うん、わかった。ありがとう、りくに……陸斗」


 ぎゅっと琴音が俺の背中に体を押し付ける。びしょびしょの服越しに伝わる体温はとても心地よくて、やっと琴音と向き合えたという実感を俺に与えてくれた。


「あー、2人だけの世界に浸っているところ悪いんだが、俺がいること忘れてないか?」


 気まずそうな声に視線を向けると、ぽりぽりと頬をかきながら司がこちらを見ていた。

 正直に言って完全に忘れていた。というか琴音に向き合うのに必死で考えている余裕がなかった。

 自分の顔が熱くなっていくのを感じる俺の背中では、琴音も同じなのか顔を必死に隠している様子がうかがえる。

 そんな俺たちを見て司は苦笑いすると、俺たちに背を向けて歩き出した。


「とりあえず落ち着いたみたいだし、俺は先に帰るわ。また今度、事情を説明してくれ」

「わかった。司、ありがとな」

「おう。良かったな、陸斗。じゃあ、また遊ぼうぜ」

「ああ、またな」


 去っていく親友の背中に最大限の感謝を心の中で送り、俺も歩き出す。

 せっかくの司の気遣いを無駄にしないためにも、嬉しい報告ができるようにするためにも、これから頑張らないといけない。そんな決意を胸に秘めて。





 滅茶苦茶に走り回ったせいで、いまいち現在位置がわからなかったのだが、少し歩いてたどり着いた見覚えのある場所はさして駅から離れていないところだった。

 自宅に帰るか、新美さんが待つ純喫茶メイカに戻るか少し悩んだが、あまり雨に打たれ続けるのも体に悪いだろうと、純喫茶メイカに足を向ける。


 ずぶ濡れのまま琴音をおんぶして歩く俺に、傘を差した人々から奇異の目がとんでくるが、それはそこまで気にならなかった。

 ぽつり、ぽつりと琴音とお互いの心情を話すことのほうが、今の俺にはよほど大事だったから。


 歩き続け、大通りから横道に入り見えてきた純喫茶メイカの店の前では、新美さんがスマホを片手にせわしなく視線を左右に振っていた。

 そして俺たちの姿を見つけた新美さんが傘も差さずに駆け寄ってくる。


「琴音ちゃん、リクガメ君!」

「心配おかけしてすみません」

「ごめんね、新美さん」

「そんなのいいから、早く2人とも入って。ずぶ濡れじゃない」


 新美さんに背中を押され、純喫茶メイカの扉を開ける。その扉には『CLOSE』の看板がかかっていた。

 大丈夫なのか、と心配する俺をよそに、マスターは穏やかな顔で俺たちを迎え入れてくれた。


「お帰り。大変だったみたいだね、リクガメ君」

「あの、マスター。いいんですか、CLOSEってなってましたけど」

「いいの、いいの。どうせ午後からは道楽みたいなものだから。バイトの子が着替える控え室があるから2人とも着替えておいで」


 そう言って「STAFF ONLY」と書かれた扉を指差したマスターに頭を下げ、琴音をおぶったままそちらに向かって歩いていく。

 ぼたぼたと落ちる水滴や靴跡のせいで、俺たちが歩いた床には、水が尾のように広がっていた。


「はい、これタオルと着替え。マスターが買ってきてくれたんから後で感謝するように」

「あの、お金は?」

「そこは経費でなんとかなるといいなぁ。まあならなかったら私からのプレゼントってことで」


 笑いながらタオルと着替えを棚に置き、新美さんが手を振って出て行く。控え室は鍵のかかるロッカーと棚が並んだだけのシンプルな部屋で、パイプ椅子が2脚並んでいるところを見ると、ちょっとした休憩室のような使われ方をしているんだろう。

 そんなことを考えながら張り付いたTシャツを脱ぎ捨てタオルで体を拭いていると、背後から視線を感じた。


「どうした?」

「えっと、陸斗が出て行ってくれないと着替えられないんだけど」

「後ろを向いているから大丈夫だろ? 俺は見ないぞ」

「でも陸斗だって男の子だし、誘惑に負けてチラッと見ちゃうかもしれないじゃない?」


 そう言って恥ずかしそうに琴音が頬を赤らめる。その姿は間違いなく可愛い。

 ずぶ濡れでぴたりと体に張り付き、そのすらりとしたボディラインをさらした姿を眺めていると、琴音が腕で胸やお腹を隠した。


「陸斗のエッチ! じろじろ見ないでよ」


 さらに顔を赤くして怒るその姿が可愛かったせいだろう。俺が不用意なセリフを漏らしてしまったのは。


「そういうセリフは、綾くらい胸が大きくなってから言おうな」

「なんで陸斗が長野さんの胸の大きさを知ってるのかな?」

「あっ!」


 自分の失言に気づいたときには既に琴音の平手は振るわれており、俺の頬に大きなもみじを残すことになった。

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