第23話 立ち向かう勇気

「琴音」


 運動不足なのに無理矢理動かし続けたせいでぶるぶると震える足を止め、荒い息を整えながらその小さな背中に近づいていく。

 琴音は振り返らない。それは俺を拒絶していることを示しているようだった。


「琴音、風邪ひくぞ」


 どしゃぶりの雨の中走り続けてきたせいで、俺も琴音もずぶぬれだ。今は息があがって苦しいくらいに体が熱をもっているから気にならないが、雨に容赦なく体の熱を奪われていけば風邪くらいひくだろう。

 それに落ち込んでいるときに雨にうたれたら、さらに気持ちが落ち込むだけだ。


「こないで」


 さらに近づいていった俺に、ようやく琴音の声が届く。

 小さく、しかしはっきりとしたその拒絶の言葉に一瞬止まりそうになったが、俺は歩くのをやめない。

 表面上はどうあれ、本当に琴音がそれを望んでいるとは思えないから。


「とりあえず戻ろうぜ。新美さんも心配してる」

「来ないでって言ってるでしょ!」


 かつて聞いたことのないほどの大声をあげながら、琴音がこちらを振り向く。その鋭い視線はさきほどの雄一おじさんそっくりで、まるで憎しみそのものをぶつけられているように感じられた。

 両手をぎゅっと握り締めながら、琴音が体を震わせる。


「全部リク兄のせいだ。リク兄が私の家に来たから、お父さんは月乃ミトを辞めろって。お母さんも、せっかくできた私の大切な場所もリク兄のせいで全部全部消えていくんだ」


 うつむきがちになりながらも、琴音は俺を言葉のナイフで刺していく。その言葉や表情は琴音の怒りを如実にあらわしていたが、俺にはどうしても琴音が泣いているようにしか見えなかった。


「琴音……」

「近づかないでって言ってるでしょ。リク兄は私のことなんか忘れて、どっかに消えちゃえばいいんだ!」


 キッと睨みつける琴音から視線を外すことなく、俺は一歩一歩近づいていく。俺はちゃんとここにいる、琴音のそばにいると示すように。

 動揺を見せない俺の態度に琴音の瞳が揺れる。そして琴音が何かを言おうと口を開いたそのとき、俺の隣を一陣の風が吹き抜けていった。


「小早川、てめぇふざけんなよ。なに一人で悲劇のヒロインを気取ってやがるんだ。陸斗がなにしたっていうんだよ。こいつはお前のために人生を棒に振ろうとするようなお人好しだぞ」

「おい、司。まて!」

「いいや、待たないね。こっちはどんだけこいつのせいで我慢してきたと思ってんだ。俺は馬鹿だし事情なんてちっともわかんねえけど、陸斗が小早川を傷つけるはずがないってことはわかるぞ。こいつは見たくない事実から目をそらして陸斗のせいにして、ただ自分が逃げるためだけの理由にしてるだけだ。そんなくだらねえことに俺の親友を使うんじゃねえ!」


 琴音の服を力いっぱい握り上げ、無理矢理顔を上げさせながら司が荒い息を吐く。空気がビリビリと震えるようなその声は、琴音だけでなく俺の心にも響いていた。

 戸惑い、申し訳なさ、悔しさ、そんな様々な感情が俺の心には渦巻いている。しかし最後に残ったのは純粋な嬉しさだった。


 俺のためにここまで追ってきてくれたことに、こんな俺を未だに親友と言ってくれることに、涙があふれそうになる。

 別に我慢する必要はないか。どちらにせよ雨でわからないだろう。

 雨のせいか、涙のせいかわからないが潤む視界の中で司に近づき、その肩に手を置く。そして怒りに染まったその顔に、微笑みを返す。


「ありがとな、司。でもここから先は俺に任せてくれるか。親友だろ?」

「陸斗?」


 司がくしゃりと顔を歪ませ、掴んでいた琴音の服を離す。司の肩をぽんぽんと叩いて感謝を伝え、地面に座り込んでしまった琴音の前で膝をつき視線を合わせる。

 目を合わせた琴音はすぐにうつむいてしまった。そこに先ほどまでの怒りや憎しみなど一切感じられず、なにかに怯えるような弱弱しい姿は本当に同一人物かと疑いたくなるほどの変わりようだった。

 でも琴音の本来の姿はこちらなのだ。今までは虚勢を張っていただけ。それを俺は知っている。


「ほらっ、風邪ひく前に帰るぞ。乗れ」


 琴音に背中を見せて乗るように促したが、琴音が動く様子はない。じっと俺の背中を見続けているだけだ。

 しばらく待ってみたがダメだったので強引に琴音をおんぶしようかとしたとき、琴音が聞き逃してしまいかねないほど小さな声をもらした。


「なんで、なんでリク兄は怒らないの?」

「なにがだ?」

「だってリク兄は全然悪くない。悪いのは全部、全部私なのに。私はそれを認められなくって、優しいリク兄に全部押し付けて。私がいたらリク兄が不幸になるってわかってるのに、でもそばにいて欲しくて嘘をついて、見栄を張って。消えて欲しいのはリク兄じゃない、こんなくだらない私のほうなのに。私が消えればいいのに……」


 両手を地面についたまま泣き叫ぶように琴音が心を吐露していく。歪んでぐちゃぐちゃになったその顔からはとめどなく涙があふれており、琴音の両手を雨から涙へと塗り替えていく。

 そんな琴音に体を向き直らせ、俺は静かに告げた。


「怒らないのは当たり前だろ。俺はずっと逃げてたんだから」

「逃げてた?」

「あぁ、俺はずっと琴音と向き合えていなかった。怖かったんだ、お前になにか言われることが。一番苦しい思いをしているのは琴音だって知っていたのに、俺は手を差し伸べることもできなかった。ははっ、お兄ちゃん失格だよな」


 そう俺は逃げ続けてきた。正面からぶつかることも、手助けすることもなく、ただ遠くから見守り続けることで贖罪をしていると自分を納得させてきた卑怯者だ。

 そんな俺が琴音を怒れるはずがない。そんな勇気、俺は持っていなかったから。


「このあいまいな関係でいいと思ってた。自分から動かず、琴音が困っていれば助ける。卑怯だよな。自分は安全な甲羅にこもって、ウサギが弱みを見せるまで待つんだ。それでさもいいことをしているかのように振舞うんだぜ」

「違う。お母さんが死んじゃったのだって事故のせいで、リク兄が気にする必要なんて本当は……」

「それは違う」


 琴音が言葉を言い終わる前にそれを止める。涙を溜めた瞳でこちらを見る琴音に手を伸ばし、その頭にゆっくりと手を置く。


「俺のサッカーの試合がなければ、琴音も、美琴おばさんも事故にはあわなかった。それはまぎれもない事実だ」

「でもリク兄の責任じゃあない……」

「それでもだよ。俺だって心のどこかでそう思ってた。信号無視してきた奴が悪くて、俺は悪くないって。でも、そういう話じゃないって気づいたんだ。その事実をちゃんと認めなければ、先に進めないって」


 俺のサッカークラブの決勝戦を応援に行こうとした、琴音とその母親である美琴おばさんは、その途中で交通事故にあった。信号を無視して暴走してきた車に側面からぶつけられたのだ。


 その結果、琴音は重傷を負い、運転をしていた美琴おばさんは意識不明の重体となった。

 それを俺が知ったのは前半が終了したハーフタイムのときで、慌てて病院に駆けつけた俺に突きつけられたのは、まるで自分の子どもであるかのようによくしてくれた美琴おばさんが死んだという事実と、うつろな目で俺を責め立てる琴音の姿だった。


 正直、その後のことは覚えていない。駆けつけた雄一おじさんに平手で叩かれたらしいが、その記憶さえ全くなかった。

 あんなに輝いていた琴音の瞳が空虚な闇のようになり、俺を睨み続けている。それを俺は受け入れられなかった。認めたくなかった。


 だから逃げた。それを思い出さないためにサッカーもやめた。頭をからっぽにしたくて、ひたすらにネットで動画を見続けた。

 そこで見つけたのだ。慣れない実況にとまどいながら、さして上手くもない腕でゲームを攻略し続け、少しずつ、本当に少しずつ成長していくミトというゲーム実況者を。

 そんなミトに、俺は昔の琴音を重ね、そしてどっぷりとはまったのだ。

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