第13話 担当マネージャー 新美春香
全4回に及ぶ数学の勉強配信は、なんだかんだ好評のうちに終わった。
琴音は中学2年の学習内容である多項式と連立方程式の理解があいまいであり、そこを暗記でどうにかしたことから数学が苦手になったようだった。
そういえば琴音は中学2年の時に何回か病気で1週間くらい休んだことがあったな、と思い出しつつ教えた結果、ご褒美のお菓子や、おだん子やこめ子の仲間たちの協力と応援のかいもあって琴音の数学の苦手意識は少し改善したようだった。
ミトは永遠の16歳であるため勉強した内容は中学3年までの範囲になるが、それ以降については琴音の努力次第でなんとかなるだろう。
まあ短時間で教え込んでいったせいで内容が濃すぎて、毎回毎回へろへろになりつつもやりとげた琴音のことだ。夏休み中には自分でなんとかする、よな?
「はぁー。とりあえずこれをアップロードすれば終わりだな」
座っていた椅子の背もたれに体重を預けて伸びをし、固まった背中をほぐすと、編集し再確認を終えた切り抜きを動画サイトにそれをアップロードしていく。
今回の勉強動画の切り抜きはちょっと特殊だったので、そこまで編集に力を入れてはいない。皆でミトに勉強を教えているという内容なので、学習内容が飛んだりすると意味不明なやり取りになってしまうことが多かったからだ。
仕方がないので学習内容の区切りごとに切り抜き、無駄な部分を省いて投稿したのだがこれが意外と好評だった。しかしその好評の理由はいつもと多少違っていた。
いつもならミトちゃん可愛いとか、面白いとか、ミトの魅力についてのコメントが多いのだが、今回は勉強の内容についてのコメントが多かったのだ。
昔を懐かしむ声や、ミトと同じように数学が苦手な人がその内容を見てわかったと喜んでいたりと、思わぬ方向ではあったが教えた俺としてその反応は嬉しいものだった。
「意外と数学が苦手な人って多いんだな」
切り抜き動画のコメントを流し読みしながら、氷をたっぷり入れてきんきんに冷やした麦茶を飲む。
とうとう始まった夏休みだが、具体的な予定は天文部の合宿くらいで他にはこれといった予定はない。宿題の半分以上は夏休みに入る前に終わらせているのでそれに追われることもない。
コップの底の形に残った水溜りをなんとなくもてあそびながら、これで勉強配信も終わったしなにして過ごそう、などと考えていたその時だった。
ブブブブ、ブブブブ、と机の上に置いておいたスマホが振動を始める。誰だろうと視線をそちらに向けると、そこには知らない番号が表示されていた。
「間違い電話か詐欺電話か。まあどっちでもいいか?」
多少の暇つぶしにはなるだろうと画面をスワイプさせスマホを耳に当てる。
「もしもし」
「こんにちは、こちらはリクガメさんのお電話でよろしかったでしょうか?」
「……」
聞こえてきた若い声の女性から発せられた思わぬ呼び名に一瞬固まってしまったが、俺をそんな名前で呼ぶ人は一人しかいないとすぐに気づく。
「新美さん、でしたね。ミトのマネージャーの」
「はい、マギスタ3期生のマネージャーの新美です。繋がってよかった」
ほっとした新美さんの様子に、そういえば前に電話番号を口頭で伝えただけで、それ以降なにもなかったなと思い出す。
例のミトの身バレ事件は円満に収束していったし、もう電話がかかってくることはないだろうと思っていたのだが、なにかあったか?
「それで、なにかご用ですか? あっ、もしかして勉強配信のせいですか。ミトの配信に俺はもう出ちゃだめだったとか」
いまさらながらその可能性に思い至り、背中から嫌な汗が流れ始める。
琴音にしっかりと勉強させること、そしてミトの魅力の一つになる可能性を考えて数学の勉強配信を考えたのだが、そういえば俺が出ていいのかどうかは新美さんには確認をしていなかった。
おだん子の仲間たちがリクガメがミトのお兄ちゃんだと発覚した後、面白がって受け入れてくれていたから大丈夫だと考えていたがマギスタに許可を得たわけではない。
琴音に提案したときも勉強を嫌がるような反応はあったが、動画に俺が出ることについては特に何も言わなかったから問題ないと勝手に思いこんでいたのだ。
そもそも新美さんの電話番号を俺は知らないので連絡のとりようはなかったんだが、ちゃんとそこまで許可をとっておくべきだったか、と反省する俺に新美さんは苦笑しながら言葉を返した。
「いえ、それについては大丈夫です。ミトから事前に連絡をもらっていましたし視聴させていただいた内容にも問題はありませんでしたから」
「そうでしたか。じゃあなんで?」
ナイス、琴音! と胸の内で叫びながら、平静をよそおってそう聞き返すと、新美さんから返ってきたのは思わぬ言葉だった。
「明後日、ミトの案件の打ち合わせでそちらに行く予定があるのですが、会うことはできませんか?」
いよいよ今日は新美さんに会う日だ。
詳細は会ってから話したい。悪い話ではないと思う。とは新美さんに伝えられたが、正直に言えばさっさと用件を言って欲しかった。おかげでもやもやとしたまま二日間を過ごすことになってしまったし。
だらだらと涼んでいようかと思っていたが、家に居ても落ち着かないので約束の時間より少し早いがいつものボディバッグに財布などを詰めて外に出る。
天気予報では曇りで雨は降らないといっていたものの、ドアを開けた先に見えた空はどんよりと黒かった。
「先行きを暗示していた……なんてナレーションが入りそうだな」
そんな馬鹿馬鹿しいことを呟きながら、駐車場に停めてあるマイ自転車にまたがり走り出す。
雲が出ているおかげで、14時半という時間の割に気温はそこまで高くない。風が吹いているのでむしろ涼しく感じられるくらいだ。
いつもどおりの周囲の風景を眺めながらゆっくりと走る。どうせ自転車で5分程度の道のりだ。約束の15時にはまだまだ時間があるのだから。
通りがかった公園で屋根のついたベンチでゲームを持ち寄って遊ぶ子供たちの姿に、昔の自分たちを重ねて苦笑したりしながら走り続け、10分ほどで駅近くにある目的の喫茶店にたどり着く。
「純喫茶メイカ、か。こんなところあったんだな」
駅前の大通りから2本外れたわき道に待ち合わせの純喫茶メイカはぽつんと佇んでいた。
少し昭和臭を感じる古ぼけた看板にまるでタイムスリップしてきたみたいだな、などと思いながら扉を開けると、カランカランというベルの音が店内に響く。
「マジで昭和だ」
「そうね、いい音でしょ。私こういうの好きなの」
まさか独り言に返事があると思わず驚きながら声のした方を振り向くと、黒いパンツスーツに白のブラウスといういでたちの女性がそこにはいた。
彼女は淡く茶に染めた髪を頭の後ろで花のように纏めており、上目づかいのにこりとした笑顔と共にそれが揺れる。
「リクガメさんよね。初めまして、新美です」
「ええっと、初めまして」
はきはきと挨拶をしてくる新美さんに比べ、俺はどうしても戸惑ってしまっていた。電話で話してみて若いだろうなとは思っていたのだが、正直これは想定外だ。
少し考えた結果、俺は背中のショルダーバッグを前に持ってきてごそごそと探り出す。新美さんもそれを見て自分のポケットから小さな濃い茶色の革のなにかを取り出していた。
バッグに残っていた目的の物を見つけ出した俺がそれを取り出し視線を下に向けるのと、新美さんが革のなにかを開けて白い紙取り出すのはほぼ同時だった。
「食べる?」
「マギスタ3期生のマネージャーの……えっ?」
目の前に差し出された黄色のぺろぺろキャンディを見つめ、新美さんがその目を大きく見開いて固まる。
新美さんの145センチあるかないかといった程度の身長と、くりくりっとした瞳の幼い顔は、どう見ても同年代かそれ以下にしか見えない。
親睦を深めるにはまずお菓子からと思ったのだが、これは少し外してしまったようだ。勉強のご褒美としてあげた琴音は結構喜んでいたのでいけると踏んだんだがお気に召さなかったか。
赤く頬を染め、ぷるぷると震え始めた新美さんの姿に覚悟を決めながら、新美さんが両手で差し出し続けているものに目をやる。
そこにはマギスタのマークと四隅に3期生それぞれのトレードマークの入った可愛らしいデザインの名刺に『3期生担当マネージャー 新美春香』と書かれていた。
「えっとピンク色もありますよ?」
「いりません!」
2本目のぺろぺろキャンディを取り出した俺に、新美さんは目を吊り上げて断言したのだった。
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