第11話 お願いと提案
琴音の返事が意外だったのか、頼んだ長野自身が驚きに目を見開く。窓から響くセミの音が妙に大きく感じられるほどの静けさが俺たちを包んでいた。
じっと見つめられるのが恥ずかしかったのか顔をうつむかせた琴音の姿に、正気を取り戻した長野は柔らかい笑みを浮かべる。
「ありがとう小早川さん。とりあえずは出席として報告しておくわね」
「うん」
「あっ、ついでに上田も出席って報告しておくから。あんたもなんとか都合つけなさい。暇なのに断るなら部室に連れて行って説得しようかと思っていたけど……手間が省けたわ。先生には私から伝えておくから。じゃあ、また明日」
「おい、俺の予定は……って無視かよ」
ひらひらと手を振って軽い足取りで去っていく長野を見送り、大きなため息を吐く。なぜかなし崩し的に合宿に参加させられることになってしまったようだ。
別になにか予定があったわけでもないし、合宿に参加すること自体に問題があるわけではない。ただ琴音が参加するのであれば、俺はやめるべきじゃないかと悩んでいるだけだ。
もちろんこれは俺自身の問題であり、長野に責任がある訳じゃないのはわかっている。しかしそれでも気が重いのは確かだった。
「帰るか」
気持ちを切り替える意味も込めて、そう呟く。その言葉にそれ以上の意味はない、そのはずだったのだが……
「……うん」
琴音から聞こえた、小さな、でもはっきりとしたその返事と、鞄に荷物を詰め始めたその姿に、俺は混乱したままそれが終わるのを待つことしかできなかった。
容赦なく照りつける太陽と地面の熱にサンドイッチされながら帰り道をただ歩いていく。額から流れた汗が、ツーっと頬からあごへ流れていくのを感じながら、どうしてこうなったのか、と答えの出そうにない問題を俺は考えていた。
俺の隣では琴音が何も言わずに歩いている。家が近所なので帰り道が一緒になるのは当然なのだが、俺たちの間に会話はなかった。
いや、正確にいえば最初の頃は当たり障りのない会話をしようと話を振ってみたりしたのだが、それに対する琴音の返事は完全に上の空だった。
当然そんな会話が続くはずもなく、幾度かの挑戦が不発に終わったことで、俺は黙って帰ることに決めたのだ。
一緒に歩いているはずなのに、どこまでも遠くに感じるこの状況はかなり心にくるものがあったが。
不揃いな足音だけを響かせて俺たちは進み、そしてついに見覚えのあるレンガとベージュの外壁が特徴的な家にたどり着いた。
自宅の玄関先で足を止めた琴音を眺めながら、俺は軽く右手を上げ、歩を緩めながらもそれを止めずに別れの挨拶をする。
「じゃあな」
「うん」
物憂げな表情で俺を見返す琴音の姿に後ろ髪を引かれながら、俺は視線を前に戻して自宅に向けて歩き始めた。
今日はたまたま偶然一緒に帰っただけ。いつもどおりの日常が戻ってくるだけ。そんなことを思い浮かべながら去ろうとしたそのとき、俺のシャツの背中がわずかに引っ張られる。
振り返ると小さな手を俺のシャツに伸ばした琴音が、視線をあさってに向けて立っていた。
「暑いし、お茶でも飲んでいく? 熱中症にでもなったら大変でしょ」
「いや、家はすぐ……なんでもない。ありがたくいただくことにする」
とっさに出そうになった断りの言葉を飲み込み、柔らかく微笑んで返す。わずかに震える琴音の腕から伝わる不安が、少しでも和らぐように願いながら。
そんな俺の気遣いなど無用とでもいうように、琴音はあっさりとその手を離すとくるりと振り返って家に向かって歩き出した。その頬がわずかに赤くなったように見えたのは、きっと俺の勘違いだろう。
琴音の小さな背中を追って家の中に入る。琴音の靴だけが並んだ玄関からして、琴音のお父さんはまだまだ仕事中ということか。
ほっと胸をなでおろした俺を、廊下の奥にあるリビングの扉を開けた琴音が振り返った。
「お茶を用意するから先に私の部屋に行って。変なことをしたら、わかってるわよね?」
「大人しく座ってるよ」
「よろしい」
わずかな微笑を残して琴音がリビングの奥に去っていく。脱いだ靴をそろえて、2階へと進もうとする俺の耳に、冷蔵庫を開ける音や食器をとりだす小さな音が届く。
昔は2人で聞いていたその音に、懐かしさと寂しさを感じながら階段を昇り、俺は2階にある琴音の部屋に入るとそのまま床に座った。
家族が不在の家で、女の子の部屋に一人きり。言葉だけみればなんとも甘美な響きなのだが、いかんせんここは琴音の部屋だ。
小さなころ通いなれた部屋であり、さらに言えばついこの間もやってきている。琴音相手にそういった空気になるわけもないので、多少の緊張はあれど浮かれてはいなかった。
壁にかかったパジャマのフード部分から垂れるウサギ耳をなんとなく眺めていると、お盆に2人分のお茶とお菓子を載せて琴音が部屋に入ってくる。
だらけた姿勢から背を伸ばし居住まいを正した俺に少し呆れた視線を送った琴音はお盆を机の上に置くと、折りたたみ式の小さなテーブルを取り出して脚を伸ばし、それを俺の前に置く。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
氷のたっぷりと入った麦茶を受け取り、自分の分と大袋に入ったクッキーを持って対面に座る琴音を見つめる。
1階から2階に上がる少しの間だけでコップの外側には水滴がついていた。それが俺の手を伝い、ぽとりとテーブルの木目に小さな泉を作る。
「飲めば?」
「ああ」
琴音に促され、キンキンに冷えた麦茶に口をつける。炎天下を歩いて失われた水分が、体に染み渡っていくようでとても心地よく、半分近くまで一気に飲み干した俺はコップをテーブルの上に置いた。
そんな俺の様子を琴音はじっと見つめていた。自分の麦茶を飲もうともせず、ただじっと。
「やっぱ夏は麦茶だよな。サンキュー、生き返ったよ。ところで小早川は飲まないのか?」
「……飲む」
ちびちびとコップの麦茶に口をつけながら、琴音がちらちらと上目づかいでこちらの様子をうかがう。
その姿を見て思わず苦笑してしまった俺は、それに気づいて覚悟を決める。
「で、俺になにを頼みたいんだ?」
「別に上田君に頼むことなんて……」
反射的に否定しようとする琴音を手で制し、柔らかく微笑む。
「だって琴音は昔からそうだろ。なにか俺に頼みごとがしたくて、でもそれが難しいかもってときは、そうやって俺の様子をうかがうんだ」
「なっ、そんなことしてない」
「いやいや、やってるからな。こんな感じで」
先ほどまでの琴音の姿を真似して、お茶を飲みながら視線をちらちらと向けて琴音の様子をうかがう。
その顔がどんどんと赤く、そして目つきが鋭くなっていくことに危機感を覚え始めた俺は、あっさりと真似をやめるとコップをテーブルに置いて琴音に向き直った。
「俺にできることなら手伝ってやるから安心して頼め。だって俺はお前のお兄ちゃんなんだろ?」
任せろ、と伝えるようにうなずいてみせた俺の目の前で、琴音が顔を伏せ、じっと自分の膝を見つめる。
幸いにして今日は配信もないことだし、時間はたっぷりある。琴音が決断をくだすまでゆっくりと待てばいい。
そんなことを考えながら、手持ち無沙汰をごまかすようにお菓子の袋に俺は手を伸ばす。視界の端で小さく琴音の唇が動くのが見えた。
「ずるいよ、リク兄。でも本当に……」
小さなその呟きを俺は聞き取ることができなかった。かろうじて自分の名前が呼ばれたことだけはわかったが、それが良い意味なのか悪い意味なのかすらわからなかった。
首を傾げる俺の目の前で、バッと顔を上げた琴音がコップを手に取ると、キンキンに冷えた麦茶を一気に飲み干していく。小さな琴音の喉がこくこくと動き、氷だけの残ったコップを琴音はテーブルの上に強めに置いた。
氷とカップがぶつかる少し甲高い音が部屋に響く。
「私に数学を教えて欲しいの」
一世一代の覚悟、と言わんばかりの真剣な表情で見つめてくる琴音の視線を受け止め、俺はごそごそと自分の鞄を漁りだす。
俺が帰るつもりだと思ったのか、焦った琴音が身を乗り出した。
「赤点はまずいの。勉強したんだけどどうしても数学だけは苦手で。悪いのは私だってわかってる。でも赤点をとったなんてお父さんに知られたら、月乃ミトとしての活動も出来なくなっちゃう。それに、ほら天文部の合宿にも……」
「もしかしてその理由作りのために合宿に参加するって言ったのか?」
「いや、それだけじゃないけど……」
思わず俺が聞き返すと、琴音は気まずそうに視線をそらした。半分本当、半分嘘といったところか。
真剣に活動しようとしている長野に比べてこいつは……、そんな、自分を棚に上げたことを考えながら俺は鞄から1冊のノートを取り出した。
「とりあえずこのノートを貸すから頑張ってみろ」
「えっ、でも私だってノートくらいちゃんととってるよ」
そう反論する琴音の目の前で俺はパラパラとノートをめくっていく。そして授業の内容に雑多なメモが書かれたいつものページを通り過ぎ、綺麗に整理され、読みやすく書かれたページを指差して琴音に見せる。
「今回の数学のテストで出た問題の解き方をなるべくわかりやすいようにまとめておいた。あとはひたすらに問題を解けば再テストは何とかなると思う」
「本当だ。いつの間に?」
「復習も兼ねて授業中にな」
ノートから目を離さないその態度から、どれだけ琴音が思いつめていたのかが伝わってくる。半分以上嘘のその言い訳はなんとか通じたようだ。
本当は数学のテストのまとめなどする必要はない。テスト範囲は理解できているし、自分の書いたノートを見れば事足りるからだ。
琴音が今見ているのは、もしかしたら少しは琴音の役に立つかもしれないと考えて数学以外の授業中にまとめたものだ。だから授業中というのもまんざら嘘ではない。
しばらくノートを見つめていた琴音が顔をあげる。その表情は先ほどまでよりも少しだけ明るいものになっていた。
「これなら大丈夫かも」
「それだけ暗記しても一時しのぎにしかならないけどな。やっぱり数学が苦手なのか?」
「うん。中学2年くらいまではそうでもなかったんだけどね」
琴音の話を聞きながら、大口を開けて袋から取り出したクッキーを頬張る。一つ一つ個包装されたちょっとお高めのクッキーだけあってなかなかの味だ。個人的にはもうちょっと塩がきいていた方が好きなんだが。
赤点回避の目処が立ったからか、琴音もクッキーの袋を開けると食べ始める。ときおり頬をほころばせながら、ちまちまとついばむように食べる様子はさながら小動物に見える。
そんな琴音の姿を眺めながら、俺の頭には一つの考えが浮かんでいた。
「試験までノートは貸すから、一つ俺も頼んでいいか?」
「えっ?」
「別に難しいことじゃないし、琴音にとってもいい提案だと思うぞ。まあ赤点をとった罰って意味も少しはあるけどな」
「なにをしろって言うの?」
苦しげな表情で聞き返してきた琴音に俺は一つの提案をし、琴音はかなりしぶりながらもそれを受け入れることになった。
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