第9話 小さな変化
自宅に戻り、ちょっと友達の相談にのっていて遅れたという本当ではないが嘘でもない言い訳で母親の追及をかわした俺は夕食をかきこむように食べるとそのまま自室にこもった。
もちろん今日のミトの切り抜き動画を作るためだ。
後半部分は把握しているので、前半の『闇夜にヨル者』の実況を確認しながらどこを使えばより面白くなるか考えながらノートに時間を記していく。
「ふふっ、琴音はお化けとか駄目だったもんな」
オープニングでは余裕を見せていたミトだったが、しだいに言葉が少なくなっていき、扉が急にバタンと閉まる演出に「ヒッ!」と短い悲鳴をあげたのが仮面のはがれていく皮切りだった。
なんでもない通路の物の影に怯えて小さく悲鳴をあげて何度も戻ったり、ゴトンと倒れた瓶に硬直したまま動けなくなったりしていた。
それでもなんとか進んでいたのだが、天井からぶら下がるように初めて姿を現した化け物を見て悲鳴をあげた後はもう駄目で、まともに操作すらできていなかった。
すぐ横にある扉に戻るだけで逃げることが出来るのだが、意味なくぐるぐると回ったり、なぜかライトを振りかざしてみたりと手に取るようにわかる混乱っぷりだ。
ボトリと地面に落ちてじりじりと近寄ってくる化け物にミトの悲鳴が大きくなっていき、そこで突然扉を開く音が聞こえ、「大丈夫か、コト……」という男の声が響く。
「俺の声ってこんな感じで聞こえるんだな」
モニター越しに聞こえる自分の声に違和感を覚えながら少し安堵する。あのときは必死だったから名前を全部言ってしまったんじゃないかと心配していたのだ。
琴音という名前は決して珍しいものじゃない。学年に1人くらいはいるかな程度のありふれた名前だ。
現状の『コト』までであれば琴音以外にも琴美や琴葉などの名前もありえるし、兄妹間の呼び名だから名前の一部を抜き出していると考えることもできる。それなら月乃ミトかもしれない女の子の対象はさらに広がる。
月乃ミトとして活動しているときの琴音の声は普段よりも高いし、教室で一緒に過ごしている俺でさえ気づかなかったくらいに雰囲気も口調も違う。
「きっと大丈夫だ、って思うしかないよな」
独り言を呟いて大きく息を吐き、椅子の背もたれに体重をかけて天井を見上げる。
生まれてから17年見続けた若干色あせた白い天井は、当然のことながら同意を返してくることなどなかった。
気を取り直して編集作業を続け、それが一段落した頃にはもう11時を回っていた。
字幕の文字に誤りがないか、タイミングがずれていないかを2倍速で見直して確認し、見つけた誤字を修正して動画を完成させる。
内容を誤解なく伝えるためにあまり省略できなかったため、今回の切り抜き動画はいつもより長めの27分だ。
再生回数を稼ぐならもっと面白い編集も出来ただろうし、もっと時間をかければもう少し時間を削ることもできるかもしれない。でも今回の目的を思えばこれが最適だろう。
「これが少しでも後押しになってくれればいいけどな」
動画サイトに作った切り抜き動画をアップロードしていき、考えておいた題名を入力すると、いつもどおりのテンプレートをコピーして概要欄を埋めていく。
アーカイブに残っているミトのホラー実況、そして釈明動画のリンクを貼り付けてしばらく待っていると動画のアップロードが完了した。
切り抜き動画広報用のSNSを使って動画をあげる告知をし、それを拡散してくれる同志たちに感謝しながら俺は切り抜き動画を投稿した。
少しずつ数が増えていく再生回数を気にしながら、書かれるコメントにマークをつけて反応を返しておく。
手間ではあるが、このわずかばかりの反応で好意を持ってくれる人は少なくない。少しでも味方を増やしたい今、それを惜しむことなどしない。
さすがにすぐに見に来るのは常連ばかりなのでコメント欄も平和なものだったが、しばらくするとやはり荒らしのコメントが散見されるようになった。
全て消したい衝動を抑え、明らかな誹謗中傷や事実無根の嘘情報のものだけを丁寧に削除していく。
あまりにしつこい者はブロックするが、抜け道はいくらでもある。結局はいたちごっこになるのだが、今日くらいはとことん付き合ってやろう。
「長い夜になりそうだ」
今日は色々ありすぎたし、動画編集もかなり集中してやったので正直に言えば疲れはかなりある。ベッドに飛び込めば、すぐにでも眠れそうだ。
でも今はその時じゃない。月乃ミトを守るために出来ることは全部やる。そう決めたんだ。
それが、琴音のそばにいることの出来ない俺に出来る、わずかばかりの罪滅ぼしになると信じて。
そう考えた瞬間、ずきりとした痛みに思わず右手で胸を押さえる。しかし心臓の鼓動は落ち着くどころかその速度を増していく。
目を閉じて深呼吸を繰り返しなんとか落ち着こうと思ったが、脳裏に浮かんだ光景に心臓の音は耳まで聞こえるほど大きくなってしまう。
病院の白いベッドの上で頭に包帯を巻いた琴音が呆然と座っている。
どう声をかければいいかわからず、ただ一歩だけ近づいた俺に気づいた琴音が、油の切れた機械のようにぎこちない動きでこちらを見た。
その深く黒い瞳は絶望を映しているかのようであり、そこに映る俺もまた、その絶望の一部のように思えた。
感情を失ってしまったかのように表情をピクリともさせず、ただ口だけを琴音が動かす。か細く、まるで消えてしまいそうなその声が、俺の心臓を握りつぶした。
立っていられず、ぺたりと地面に腰を落とした俺は自分の両手を眺める。着ていた赤いユニフォームから液体が流れて腕を伝い、両手を赤く染めていく。
俺が、俺がいなければ……
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
思いっきり自分の頬を張り、それ以上考えることを無理矢理止める。強すぎたのかじんじんとした痛みだけじゃなくて頬が熱を持ち始めているが大したことじゃない。
机に頬をつけてそれを冷やしながら息を整える。いつの間にか全身が汗でぐっしょりと濡れてしまっており、張り付いたシャツが少し気持ち悪かった。
目の前の左手を眺める。もちろんその手が赤く染まっているようなことはない。それを確認した俺はゆっくりと体を起こした。
「大丈夫。俺は忘れていないから」
届かない相手に伝わるように願いを込めてそう呟き、一度大きく息を吐く。
心臓の音はもう聞こえない。
ディスプレイに視線をやり、更新ボタンをクリックするとかなりの勢いで再生回数が増えていた。そしてそれに比例するように未読のコメントも続々と増えている。
「さて、続きをするか」
あえて口に出して自分を鼓舞し、俺は作業を再開する。
少しでもこの行為が、琴音のためになるように願いながら。
翌朝、徹夜で回らない頭で重い体を引きずりながらなんとか登校を終えた俺は、机に突っ伏してだらけていた。
自分の切り抜き動画のコメント欄に関しては、反応を返し続けた影響も多少あったかもしれないが今回の出来事を面白がる方向に進んでいた。世間も同じようになってくれればいいんだが、こればっかりはなんとも言えない。
俺は出来る限りのことはした。後は新美さんたちの手腕に期待しよう。
少しでも涼を求めて机に頬をべたっとつけたままうつらうつらしていると、隣に人が来た気配を感じゆっくりと体を起こす。
広がった視界に、鞄から筆記用具を出している琴音の姿が映る。黒髪に隠れてはいるがそのまぶたは少し腫れているようだった。
それに気づかないふりをしながら俺が口を開こうとしたその時、琴音の唇が小さく動く。
「おはよう」
「あぁ、うん。おはよう、小早川」
驚く俺とは対照的に、琴音は何事もなかったかのように本を取り出して読み始めた。話しかけるなというオーラがにじみ出るその姿に、俺も再び机に顔をうずめて寝たふりを始める。
きっと俺の顔はにやけてしまっている。なにせ数年ぶりに琴音から声をかけてくれたのだ。嬉しくないわけがない。
そんなこともあって安心したせいか、顔を隠していた俺はいつの間にか本当に眠ってしまっており、ホームルームの途中で担任に起こされるという赤っ恥をかくことになった。
そんな俺の姿を琴音は呆れた視線で見つめてきたが、その表情は以前よりもどこか柔らかいように俺には感じられた。
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