第5話 ウサギとカメ
掃除に使ったタオルをきれいにゆすいで絞り、洗濯かごの中に入れた俺は琴音の部屋に戻った。椅子に座って不安そうな表情でスマホを見つめていた琴音が、俺が入ってきたことに気づき鋭い視線を向けてくる。
その様子を見るにまだ会社としてどうするべきか結論は出ていないのだろう。そんな10分弱で結論を出せるような事態でもないだろうが。
部屋の真ん中にベージュ色のクッションが敷かれている。ここに座れってことか、という意味を込めて指差すと、琴音はこくりと小さくうなずいた。
相変わらず、怒っていてもこういうところは律儀な奴だ。
俺がクッションに座ったことを確認した琴音が俺を見下ろす。
「上田君のせいで大変なことになりました」
「そうだな。状況的に仕方ない部分があったと自分では思うが、大変なことになった一因は俺にもある」
「なに? 私が悪いとでも言いたいの?」
むっとした顔の琴音に、首を横に振って答える。
「そんなことは言ってない。閉まらないように細工された玄関。家の奥から聞こえる助けを求める悲鳴。それらの状況から強盗かなにかに小早川が襲われていると
俺の話を聞き、琴音は気まずそうな表情で視線を逸らす。うすうす自分にも責任があることはわかっていたのだろうが、他人視点で状況を説明されそれがはっきりしたのだろう。琴音は黙り込んでしまった。
そんな琴音を視界に入れながら、軽く部屋の様子を見回す。
琴音のいる机には配信に使っているのであろうパソコンや周辺機器が並び、それらを繋ぐ配線もかなり多いのだが思いのほかすっきりと片付いている。
先ほど部屋に入ったときも思ったが、琴音の部屋には物があまりなかった。生活感がないとまでは言わないが、昔のぬいぐるみで埋め尽くされそうになっていた部屋を知っている身としてはどこか寂しく感じてしまう。
「人の部屋をじろじろ見ないでくれる?」
「悪い。久しぶりだったんでな」
「ふんっ」
琴音の冷たい声が昔に飛びかけていた俺の思考を現実に引き戻す。感傷に浸るのは後でもできる。
話し合いの結果を待つ今の状況ではあるが、待つだけしかない、ということもないのだから。
「小早川が月乃ミトだったとは驚いたよ」
「やっぱり知ってるんだ。てっきり上田君は勉強してばっかりで、こういうのに興味がないかと思ってた。そうだよ、私が月乃ミト。こんばんわー、はじめましてだピョン」
いきなり声色を変え、月乃ミトそのものの声で挨拶してきた琴音を見ながら苦笑する。フレンドリーなその言葉とは裏腹に、私が月乃ミトだけど、悪い!? という感情が透けて見えていた。
そんな俺の反応が気に食わなかったのだろう。琴音の視線が鋭くなるのを察した俺は、事態が悪化する前に、と口を開く。
「こんばんわーだピョン! でもはじめましてじゃないピョン」
「……なに言ってるの上田君。正直ひくんだけど」
嫌そうに、俺から離れるために体をそらし冷ややかな視線を琴音が向けてくる。トーンを落としたその言いようは、かなりの鋭さで俺の心に突きささった。
たしかに今の琴音にしてみたら、突然そんなことを言い出した俺は頭がおかしいと思われても仕方ないかもしれない。いちおう個人的には意図があったのだが。
「そもそも上田君とはじめましてなわけないじゃない。あくまで月乃ミトとしてよ。そういうとこ、ほんと馬鹿よね」
「なんか最近馬鹿ってよく言われるな。だけど今回は間違ってない」
「えっ?」
俺の言葉が意外だったのか、疑問の声を琴音が漏らす。その反応に少しニヤリと笑いながら俺は言葉を続けた。
「今日はアポロ・ソユーズテスト計画に基づいてアメリカとソ連の宇宙船がドッキングを成功させた歴史的な日ですね」
1975年7月17日に行われたアポロ・ソユーズテスト計画の成功は、アメリカとソ連という二つの超大国による宇宙開発競争に終わりを告げる鐘となった歴史的な出来事だ。
またこの計画はアポロ宇宙船を使用した最後の打ち上げであり、これ以降スペースシャトルが登場することになるのだが……まあ、今はどうでもいいだろう。
琴音は目を見開き、俺を指差しながら声にならない声を発している。
月乃ミトがマギスタからデビューして1年3か月と少し。何度となく交わした挨拶代わりの応酬をミトが見抜けないはずがない。
油の切れた機械のように、ぎこちなく琴音が口を動かす。
「リ、リクガメ、さん?」
「こんばんわー、だピョン」
肯定を示すために満面の笑顔で返した俺の挨拶に、琴音は目を見開き、すぐに肩をがっくりとさげる。
少しは空気が変わるかと思ってあえてふざけてみたのだが、案外琴音の乗りが悪い。まあ現状を考えれば仕方ないか。
うなだれた琴音はぶつぶつとなにかを呟いていた。それに耳を済ませてみると思いもかけない言葉が俺に届いた。
「リクお兄ちゃんがリクガメ。嘘、そんなこと……」
リクお兄ちゃん。その呼び名は、まだ俺たちが小学生だった頃のものだ。家が近い俺たちは本当の兄妹のように過ごしていた。
一緒に遊んで笑い、ときには喧嘩して泣き、一緒にご飯を食べ、庭に寝転んで空を見上げた。
懐かしいその呼び名に開きかけた思い出の蓋を、俺は静かに閉じる。蓋が完全に開ききってしまえば、きっと俺はまた動けなくなってしまうだろうから。
気持ちを落ち着かせるために息を深く吐き、小さくうなずく。そして未だに頭の整理がついていなさそうな琴音に向けて、わざとらしく咳をしてみせた。
ビクッと体を震わせた琴音がこちらを向く。眉根を下げ、複雑そうに俺を見つめてくる琴音に、ただ一度首を縦に振るだけで俺は答えた。
「そういうわけで俺がリクガメだ」
「そうなんだ。えっと、あの……」
「まあ色々思うところはあるだろうが、今は置いておいて、これからの話をしよう」
「これから?」
「月乃ミトのそばに突然現れた謎の男の存在についてどうするか、って話だ」
一瞬その目を吊り上げた琴音だったが、その角度はすぐに下がっていった。引き結ばれたその唇をゆっくりと開け、琴音が一度大きく息を吐く。
「どうするもなにするもないよ。ライブだったから見てた皆には知られちゃってる。さっきからDMがいっぱいきてるし、SNSの通知も止まらない。マネちゃんたちが一生懸命考えてくれているけど、きっと良い方法なんてない。説明して、謝ったとしても、きっとその頃には……」
表情をどんどんと暗くしながら琴音が口をつぐむ。握り締められたスマホは絶えず通知の光を発しており、バイブレーション機能は切っているようなのに細かく震え続けている。
スマホを握り締めた琴音の手は白くなってしまっており、どれだけの思いがそこにこもっているかを示しているようだった。
琴音の予想はたぶん正しい。
今、この時にも無責任で、悪意を持った誰かが、ありもしない事実をあたかも真実のように装って噂を広めているだろう。ただ自らの虚栄心を満たすために。
それはいつしか真実を塗り替え、事実として周知されてしまう。本人がいくら説明を尽くそうとも、それはただの言い訳に成り果ててしまうほどに。
そんな毒が、今まさに広がっている最中なのだ。本当に反吐が出る。
そこまで進んでしまえばVチューバー、月乃ミトは終わりだ。
一時的には面白おかしく取り上げられるかもしれない。だが確実にファンの心は離れていく。それでも信じてくれる者はいるかもしれないが、数が力ともいえるこの世界は残酷で、それを奪い合うのが常識なのだ。
魅力的な存在は、他にも数え切れないほどいる。傷を負った月乃ミトは食い物にされ消えてしまうだろう。
だから今やるべきことは一つ。
料理に盛られた毒が広がる前に机ごとひっくり返す。
それをできる材料が俺たちにはある。
クッションから立ち上がり、ハンガーにかけられたフードにウサギ耳のついた服を取り外すと、琴音に向けて放り投げる。
きっとそれが琴音の、月乃ミトの戦闘服。
膝にのった服の感触に顔を上げた琴音の瞳は涙で潤んでいた。しかしまだ一滴たりともそれは零れ落ちていない。
琴音は月乃ミトを続けたいと思っている。そのために戦う覚悟があるからこそ、涙を流さないのだ。
俺にできるのは、それを助け、背中を押してやること。
「琴音。いや、月乃ミト。緊急ライブ配信を始めるぞ」
「なにを言っているの? 今判断を待っているんだよ。そんなの無理に決まっている……」
「待って状況が良くなるのか? 待っていればこの状況を解決できる魔法のような方法を誰かが教えてくれると本気で思っているのか?」
「ないよ、そんなことわかってる! じゃあなに。陸斗がそんな魔法を使ってくれるってわけ!?」
「ああ」
断言した俺を驚き見つめ、先ほどまでの怒りを霧散させた琴音が息を飲む。迷うように揺れ動く琴音の瞳を真っ直ぐに見返し、俺は歯を見せて笑ってみせる。
正直にいえば自信なんてない。そもそも俺は配信については素人だ。そんなもんあるはずがないだろ。
それでも俺は一番大切なことを知っている。
「琴音、知ってるか。ウサギにカメは勝つんだぜ。大丈夫だ。俺を信じろ」
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