第7話 覚悟その2
「それで、何の用」
巧の声は、明日香の心を一瞬で凍らせるほど冷たかった。
暖かかった彼の声を、そうしてしまったのは、明日香自身だ。悲しくて、辛くて涙が出そうだった。
「謝りたかったの」
「なにを、君が俺に何かした? 俺たちは婚約してるわけでも、まして結婚してるわけじゃない。君がどこでどんな男と何をしようが、それは君の勝手で、俺の知ったことじゃない」
まるで刃のような冷たく鋭い言葉を、今までの人生で投げつけられた経験はなかった。
「ごめんなさい」
明日香はそれ以上何も言えなかった。
「だから謝らなくていいから、はい話は、おしまい、降りて」
「もうだめなの? 本当に終わりなの」
「終わりも何も、始まってないし、拒否したのは君だ」
「拒否なんてしてない」
「そうだよね、相手にされてなかっただけだよね。お笑いさ、一人で熱上げて、君は笑って他の男とやってたんだろ」
「やめて、笑ってなんていない」
「いいよもう。俺には関係がない。降りてよ」
降りれない、降りたらもう二度と会えない、そんなのは嫌だった、悲しすぎた。
「この一週間、寂しかった、悲しかった。後悔した。だから」
巧は無言で、車のエンジンをかけた。そしていきなり車を発進させた。アクセルを一気に踏み込む。エンジンが咆哮し、体がシートに押し付けられる。巧はガンガンとシフトアップを重ねる。車はあっという間に時速百キロを超えた。高速道路ではない、普通の町道だ。車が出てきたら、人が飛び出したら、巧がこんな運転をすることは今までなかった、減速することなく、ちょうど青信号だったの交差点に突っ込む。タイヤが鳴るほどの勢いで国道五号線に入った。
「巧、怖い、やだ、やめて」
明日香が叫ぶが巧は無表情だ、百二十キロは越えていた。先を行くトラックを追い越していく。
中ノ沢の海岸が近づく。不倫相手の上司と逢っていた海岸だ。巧は車の速度を落とし、海岸近くの空き地で車を止めた。
「ここは嫌」
「どうして、何かこの海岸であったの、車の中でとか」
「やめて、言わないで。どうして」
「なんとなく、わかった。ここらあたりラブホないし。ここなら車を止めても他人にわからない」
「うん」
明日かは消え入りそうな声で答えた。
学校の外で車に乗り、この海岸に来て抱かれていた。楽しかった。けれど今は消し去りたい過去だった。
巧が車の外に出た。
「バカヤロー」
巧が大声で叫んだ。その声に明日香は身がすくんだ。
「みんなのところに飲みに行こうか」
車の中に戻って来た巧はいつも通りの優しい声でいた。
え、っと思った。
「飲まなきゃ話ができそうにないから」
いつも通りのおとなしい運転。巧のアパートに車を置き、ふたりは歩き出した。
彼はいつも左を歩く。突然肩を抱かれた。誰かに見られたら、そう思うとちょっと恥ずかしい。
そういえば前の彼とは、こうやって歩いたことはなかった。よその街でもホテル以外で逢ったことはなかった。巧の身体は暖かい。
「お、お二人さん、まってたよ、ほらこっちこっち」
居酒屋の扉を開けたとたんみんなから声がかかった。
「なにがあったか知らんし、聞かない、でもまあ二人で戻って来たことだし、乾杯だな」
団長さんが笑ってビールのジョッキを注文し、ふたりに手渡した・
「はい、皆さん、ご心配をかけました」
「ほんとだよ、ひどい顔してたし、なんか話しかけるのもためらわれたぞ」
指揮の佐々木先生が言った。多分彼も子細を知っていると思う。顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
「すんませんでした、お詫びといっては何ですが、酒の肴に余興を一つ」
大ジョッキを一息で飲み干すと巧は立ち上がった。
「はい、みんな注目してもらえますか」
周囲が静かになった。
「私、氏家巧は、佐野明日香にこの場でプロポーズします」
おおーっという声が上がった。
なに、何言ってんの、私……。そんな資格。
「明日香、結婚しよ」
「ほら、明日香ちゃん」
尚美先生が、手を引き巧の前に明日香を立たせた。
「こんな、私でいいですか、いいなら、お受けします」
涙があふれだした。
「婚約のキス」
誰かが、声をあげた。
巧が、体を抱き寄せると、唇を重ねてきた。
周りの歓声、明日香はそれも聞こえなかった。巧の背にまわした腕に力を込めた。
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