七夕には風邪を引く
裃境
七夕には風邪を引く
なにがキスをすれば風邪が移るだ。そんなもので移るというのなら今すぐ辻キスをかましてくれるわ。所かまわずちゅっちゅして回ってあっちゅあちゅなのろけ熱にふわふわと浮かれる夫婦候補の皆々様方を阿鼻叫喚の大混乱に、いや咳と鼻水と発熱の大嵐に陥れ、みごと勇者として朝昼夕夜果ては号外に至るまで一面を飾ってやろうではないか。覚悟するがいい浮かれ色ボケ堕落者どもが、積年の逆恨みを思い知れ! 流言を流布しおってからに!
「げほっ、けほっ。ぅう~……な、なんで今年もぉ~……」
威勢がいいのは頭の中だけ、それもぷしゅうと音を立てて空気が抜けていき萎んでいくようだった。
力が入り張っていた背中の筋肉にはもう何の気力も注ぎ込めない。持ち上げていた身体がベッドに沈むと、すっかりぬるくなった濡れタオルが額で跳ね、毎度の事で印象付いた天井が視界に入り込んでくる。
祭囃子が遠くで聞こえる。数年前に市内で募集したという歌詞の音頭が流れている。がやがやとすぐ近くで鳴っているような喧騒は、それ以上大きく聞こえた事は無かった。ぞろぞろと並び歩いて楽しんでいるのだろう人々とは、まるで何の縁も無い一室。
代り映えのない、わたしの部屋だ。
「呪われてる……? そろそろ呪いを疑っても、けほっ。いいよねこれ? なんで毎年、こうなるの……!」
ベッドは部屋の奥の方にある。そこから未だに現役の学習机、我ながら可愛げのない白いだけの壁紙を辿っていくと、そこだけ女子力を辛うじて注ぎ込んだようにマステやらなにやらで飾られたボードが紐でぶら下がっていた。
ボードの上から、画鋲で固定されているのはカレンダー。ぐるぐると円で囲って、今年こそは! という毎度の惨敗にも懲りない意気込みが掛かれた日付はちょうど今日。
七月七日。七夕の日だった。
ついでに言えば、お祭りの日でもあった。
はぁ、とため息を一つ吐いて、わたしは服を少しはだける。そうして空いた隙間に突っ込むのは、つい十分前にも音を鳴らした体温計。
脇に挟んで、しばらく待つ。安っぽい電子音と共に抜き出して確認すれば、三十八度二分を示している。
「高くなってるし……あーもー」
体温計を放り出して、掛け布団を被る。口元まで覆えば蒸発した汗と身体から発せられる熱でまるで夏の正午、それも外の空気みたいになってしまっているが、はだけて体を冷やせばより悪化すると知っている以上我慢するほかなかった。
毎年の事なのだ。もうすっかり慣れた。いやほんとは慣れちゃいけないんだけど。
わたしは七夕に風邪を引く。
前日までがどれだけ健康体であったとしても必ずだ。咳と鼻水、高熱に節々の痛み。残る三百六十四日は縁が無い代わりに、その日に集約したのではと勘ぐってしまうぐらいには酷い風邪が訪れる。
聞けば、物心つく前からそうであるらしい。我が母君と父君は最初はもう大慌てで病院をはしごして回ったとの事だが、年々同じ日に同じように風邪を引く姿を見続ければ初志貫徹はどこへやらだ。それでも一応は家にいてくれるだけありがたいが、過剰な心配もしなくなっていた。
それは別に構わない。十六歳にもなって風邪の一つや二つかかったぐらいで親に泣きつくようでは、むしろそっちの方が心配をかける。互いに慣れてしまった方が、余計な心労を掛けない分まだマシだとわたしは思う。
だが、だからといってわたしが完全に納得尽くめかと言えばそうではない。いやその逆だ。毎度毎度こうでは苛立ちも積もろうというもの、長年の蓄積はわたしの心に山を作った。ことわざの方が泣いて逃げる曰く付きの霊峰だ。なにせ呪いじみている。ほんといい加減にして欲しい。
抗うために色々した。やたらと健康的に朝は七時、夜は十一時に寝る生活を一か月続けたり、苦手な野菜でも一生懸命食べて栄養を取り込んだり。街中の神社という神社、寺という寺を駆けずり回って神でも仏でもとにかく多ければいいという単純な思考回路で味方に付けようとしたり、むにゃむにゃとオリジナルの祝詞めいた言葉をことある毎に呟いたりもしていた。夏休み前に訪れる、わたしの青春そのものであった。
でも特に印象的だったのは神社にお参りした帰りに鳥の糞と足踏み外してドブにインと自転車パンクという三連をかまされた事なんだけど。なんでそうなるの? ドミノ気分で不幸を雪崩込ませないでよ! おばか!
「はぁ、んもー……」
いつもそんな感じで、毎度手を尽くしては負けているけど。それでも諦められない理由がわたしにはあった。この原因不明な風邪で巻き込んでしまうのは。わたし一人ではないのだから。
「……あ、来た」
ぼんやりと天井を眺めていると、扉の向こうから小さく聞こえてくるのは階段を上る足音。それはすぐさま廊下を歩き出し、段々とわたしの部屋に近づいて来る。
ドアノブが捻られ、扉が開かれた。
「……来ましたよ、美穂。今年も駄目みたいですね」
「奏ぇ~! そうだよ駄目だったんだよぉ、リベンジふたっせ……ゲホ、ゲホッ!」
「無茶しないで下さい、病人さん。腕伸ばしてないで寝てなさい」
「あーいぃ……」
顔を覗かせるのは、艶やかな黒髪。肩で切りそろえられたそれは笹の葉のように涼やかに揺れて、あまり感情の起伏の無い目を彩っていた。
でも、肩掛け鞄をぶら下げてわたしを見下ろすその瞳には、心なしか呆れが混じって見える。
勝手知ったる足取りで部屋に入り、枕元まで寄っては腰を下ろす。その立ち振る舞いは指先まで洗練されていて、よくこんな綺麗な子と知り合えたなと今でも不思議に思うぐらいだ。
森口奏。僭越ながらわたしは、彼女の親友をやらせて貰っている。この幼馴染はありがたい事に、知り合った当初からこうして風邪をひいたわたしのお世話をしてくれていた。神様仏様、そして奏様だ。後光が差してる。ありがたや。
「いつものでいいですか?」
「うん。ありがとうね、毎度毎度」
「もう習慣みたいなものですから。外、だいぶ暑かったですよ。持ってくるまでにぬるくなるかと思うぐらいでした」
「隣なんだしそれは盛り過ぎでしょー? それにまだまだ甘いよ奏。そんなぐらいで根を上げてちゃあいけないなぁ」
「……何がですか?」
「だって! わたしの方が熱いからねっ!」
「そうですね。安静にしてましょうね」
「あー! スルーした!」
「大声出さないで下さい。響きますよ」
わたしの渾身の訴えを軽く退け、奏は鞄の中から次々と物を取り出していく。ひん、ちょっと冷たい。
しかしまあ、自分でもちょっと無いかなって感じの冗談だったし仕方ない。なにせ純粋につまらなかった。悪寒とは別の肌寒さ。思わず震えてしまう。冬かな?
はしゃいでしまったからか喉に痛みが走り始めたので、大人しく枕に頭を預ける。そうしたわたしを一瞥しながらも、奏は淡々とテーブルの上に並べ揃えていく。水滴の垂れるペットボトル。ゼリー飲料に貼って冷やすシート。タッパに入っているのは切ったリンゴとバナナ。二股に分かれたフルーツフォーク。他にもタオルやら保冷剤やら、色々だ。
その内のペットボトルに奏は手を伸ばし、音を立てて開封する。そうして体を伸ばし、わたしの口元まで飲み口を運んでくれた。
「ほら、飲めますか?」
「大丈夫ー……んく、んくっ」
しっかりと冷やされたスポーツドリンクの爽やかな甘さが喉を通り抜け、食道から胃に流れていく感覚がはっきりと伝わってくる。それだけわたしの体に熱がこもっているのだと分かる。じんわりと、中心から冷気が全身に行き渡っていくようだ。
こうしてわざわざ飲ませてくれたり、そもそも物資を届けてくれたりと奏は見た目の物静かさに反して、世話好きな一面があった。だからこうして甲斐甲斐しくペットボトルを飲みやすい角度に傾けてくれもして、弱った体の持ち主としては大変楽でありがたい。
の、だけど。
「……」
「……どうかしましたか?」
「ううん。んぐ、んぐ……」
なんだか赤ちゃんみたいな感じになっているのが一つ。そして、飲ませてくれるあいだ奏はじっとわたしの目を見つめてくる。それはもうしっかりと。一体何がそんなに見るものがあるんだというぐらいに、奏の瞳はぶれもしない。傍目に見てもわたしの体勢というか、させてもらってる姿は情けないものであるのだし、妙にむず痒いのが一つ。
つまり、恥ずかしい。
毎年こうなのだけど、それでもやっぱり慣れないものは慣れない。一度自分で飲もうとした事はあるけど、頑なに自分が飲ませるのだという態度で反抗してくるので諦め、大人しくこうしている。
お世話をされている身で何様なんだと思わなくも無いが、それはそれだ。だって恥ずかしいものは恥ずかしいし。この羞恥を感じなくなったら、すっかり堕落し切ってしまいそうで恐ろしいというのもある。それだけ、奏は献身的だったりするのだ。
「……ぷはっ。ありがと、もう大丈夫」
「はい、お疲れさまでした。タオル替えますね」
「よろしくー……」
濡れタオルの重みが無くなり、ぴらりとおでこが御開帳。透明なシートを剥がすと、ひんやりとした本体が額全体を覆う。それだけで呼吸すらも楽になったみたいで心地が良い。
軽くなった息をほうと吐いたタイミングで、ひとまずのお世話は完了したみたいだ。奏はレースのカーテン越しに、窓の外の光景を眺めていた。轟音と共に咲く花火は、わたしの部屋からでも一望できる。
見ている人の心にいつまでも残り続ける光景を、夜空に描き出しているんだろう。でもそれは窓越しではない。より花の近くに行ける、普通の人たちの特権だ。
クッションに腰を下ろして座っている奏にわたしは申し訳なくなってしまう。出会ってからずっと、この日この場所に奏はいてくれる。助けられているからこその後ろめたさがあった。
本当は、外に出て。もっと近くで、二人で花火を見たかったのに。
「……奏」
「なんですか?」
「ごめんね。毎年、約束やぶっちゃって」
「……いえ、構いませんよ。正直な所、今年も無理だろうなと思ってましたから」
「変に信用があるぅ~……」
わたしが破りたいのはその固定概念の方なのに、より強固なものにしてどうするのか。
不満の声を漏らすわたしに、奏はやけに真剣そうな顔を向けた。
「十年の積み重ねですからね。ある意味、誰よりも美穂の事を信じています」
「ありがたいのかそうじゃないのか分からないよそれ」
「ありがたがって下さい」
「……じゃあそうする」
なんだか強引に丸め込まれてしまった。自分の不手際というか不幸の星を信じられているのをありがたがる風邪っぴきが爆誕した。どういう存在?
「それよりも、来年どうしようか考えた方がいいです。今回は何をしたんですか?」
「……土下座」
「……土下座?」
奏の質問に、わたしはそう答えた。
十年。つまりは十回だ。一番最初は無策だったものの、それから毎年手を変え品を変えどうにかこの運命に抗えないかと考えを巡らせてきた。ゲームでいうところの謎解きに詰まって、あれこれと試している感覚に近い。
もちろん、というと悔しいのだけど残念な事に、そろそろ限界だった。わたしの頭ではこれ以上有効そうな手立ては思いつかない。ずーっと同じ場面で引っかかって、いよいよ思考もどん詰まりに陥ってしまっていたのだ。こうなると抜け出すのは容易ではない。浮かびはすれど、どれも正解ではないのではという疑心が生じてしまう。
それでも散々に悩ませて、ようやくたどり着いたのはなぜか土下座だった。
「うん……前もって部屋に笹と短冊用意して、どうか風邪引きませんようにーって書いた奴に向かってひたすら土下座した。合計で多分三時間ぐらい? 結局意味なかったけど」
「その時既に熱が出ていたのでは? 相変わらず突拍子も無い事しますね、美穂は」
「あー酷い事言った!」
我ながら同意でしかないけど! でも人から言われるとなんかヤダ! 客観視は悪!
「事実じゃないですか」
「そうだけどぉ……!」
ばっさり切られた。名刀か?
「それで……これがその残骸でしょうか?」
「発掘しないでよ!」
おもむろに席を立った奏は、散った夢の後である笹と短冊のセットを最初から場所を知っていたみたいに時間も掛けずに探し出して見せつけてくる。クローゼットの奥にしまい込んでいたのに早すぎる。流石わたしの幼馴染と褒めればいいのか、行動予測も含め把握され過ぎではと思えばいいのか分からない。
みょんみょんと揺らされる笹は心なしか萎び、すすけているようにも見える。これわたしの心が勝手にフィルター掛けてないかな。
しかも奏、なんだか楽しそうだし。いたたまれなくなったのと羞恥とで、わたしは両手で顔を覆った。多分今顔真っ赤だ。
わっさわっさと葉が擦れる音はしばらく続き、何やら堪能したらしい奏が傍に戻ってくる。今度はベッドに腰かけて、こちらを見下ろしてくる体勢だ。視界が隠されてても音で分かる。今、奏は微笑んでいるんだろう。伝わってくる。親友なんだし、それぐらいは当然。
ベッドが鳴る。奏が少し、近づく。布の擦れる音。掛け布団からわたしの肩へ。そっと触れる。
「残念でしたね」
「……」
優しい、声だった。
「でも、美穂は頑張りました。ずっと悩まされて、それでも諦めないのは本当に凄いと思います。……結果的に奇行に走ってはいますが」
「……そんな口調で言う事?」
「仕方ないですよ、美穂なんですから」
「なんか納得いかないなー……?」
凄く残念な人に思われてる気がする。
なのに、掛けられる声音はひどく暖かくて。熱持つ体にも容易に染み込んでくる、そんな繊細な響き。手をどかしてみれば、驚くほど柔らかく細められた瞳がわたしを覗き込んでくる。
「その儀式めいた行いはさておきまして」
「そういうカテゴリなの?」
「当たり前じゃないですか。今からお母様に聞いてきましょうか? 美穂が短冊に土下座という手段を取ったんですけど、どう思いますかと」
「お母さん出すの卑怯じゃない!? やんわり苦笑いしかくれないよそんなの!」
「でしょうね。だから、それはもう考えないようにしましょう。通用しなかった事よりも、これからの方が大切です。今までは美穂が張り切っていましたから任せてましたけど、今後は私も、一緒に考えます」
「……それ、いいの?」
「いいんです。美穂の事なんですから」
奏はそう言ってくれる。散々試して、それでも何の成果も出せていないわたしにこんなにも寄り添ってくれて。それがどれだけ嬉しいか。助けられているか、自分自身でも掴み切れないぐらいの恩義の念は、いつまでも付き合ってくれたからこそ大きく育ってわたしの中に存在している。
その感触を、強く感じて。
だから。
「……奏は優しいねー」
ふと、そんな事を口にしていた。
「……美穂?」
「こんなさ。出来もしない約束ばっかりしてるのに、嫌な顔しないで頷いてくれて。しかもお見舞いにも来てくれる。普通だったら疎遠ものだよ」
うんざりされて、断られてもおかしくは無い。それぐらいの事をわたしはしている。年数が経てば経つほど、その罪悪感は強くなっていった。
たった一日。されど一日。徒労に終わるかもしれない、その可能性が極めて高い予定だ。例えそれが小さなことでも、交わした約束を果たせないのに繰り返されれば呆れるしかないだろうって思う。
なのに、奏は付き合ってくれる。それどころか、こんなにも優しくしてくれる。
それはありがたいと同時に、どうにも胸を締め付けてきた。申し訳なさで心が細く引き伸ばされるような、そんな痛みが生まれては残り続けている。
もう十年だ。痛みを抱え込むには、限界かもしれなかった。
「もう、断ったっていいんだよ? だって奏、このお祭り一度も行った事ないじゃん。他の子と楽しんできたりとか、そういうのだって――」
「――馬鹿ですね」
滾々と湧く、懺悔にも似た言葉。それを遮ったのは、わたしの頭を撫でる手だった。
無意識の内に逸れていたらしい視線を戻せば、そこには困ったように微笑む奏の顔。ゆっくりと汗に濡れた髪に触れ、梳いてくれる。わたしは何故か、自分の心そのものが奏に直接触られて、鎮められているように思えた。内側から痛みが薄らいでいく。
「そんな事気にしてたんですか? 私、結構分かりやすくしていたつもりなんですけど」
「……え、と?」
なんだろう。凄く照れる。
正体不明の熱でのぼせ上りそうになっていると、奏は体を倒して顔を近づけてくる。眉が寄って不満気だ。困惑するしかないわたしに、囁くように口を近づけて聞かせてくる。それは、奏の本心だった。
「私が、そうしたいんです」
「……」
あ。
「お祭りに行こうって言われるのも、美穂のお見舞いをするのも。楽しみにしていたんですよ? イヤだなんて、ある訳ないじゃないですか。もしそうなら言われるまでも無く断ってます」
これ、だめなやつだ。
「私から楽しみを奪わないで下さい。ほら、来年の対策をかんが、え、て……?」
「……ぅ」
申し訳なくて、やるせなくて、虚しくて。でも、どんな負の感情よりも嬉しいが勝って。
ぐちゃぐちゃになった思いが、決壊する音を聞いた気がした。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ……! ぐすっ、ひぐっ、ぅぅぅぅううううう~!」
「み、美穂? あの、そんな、泣かないで下さい。ほら喉。また痛めちゃいますから……」
「無理ぃ! だ、だって、涙とまらなっ、ひぁ、あああああぁぁぁぁぁぁ……っ!」
ずっと思ってた。迷惑じゃないかって。わたしは奏の、邪魔しかしてないんじゃないかって。無理をさせていないか不安が付きまとっていた。
でも奏はなんでもないように、むしろ楽しみだと言ってくれた。それは救いだ。奏に、嫌な思いをさせてはいなかったんだって。そう本人の口から聞けて、安心した。そうしたらすぐこれだ。正直過ぎるわたしの体は、水と声を出し続けて奏をおろおろとさせてしまう。
止めようとしても無理だった。長い間積み重なってきたものが、音を立てて崩れていくのだから。
「だ、も、美穂っ。泣き止んで、あの、みほ、み……っ」
奏の制止も聞けないまま、ただわたしは泣き続ける。
それが、いけなかったのかもしれない。
「……っ! ああもうっ!」
「あ、わ……!?」
それまで声を掛けるだけだった奏が何かを決心するように大きな声を出すと、機敏な動きで掛け布団が力強く剥がされる。そのまま両方の手首を握られて、思わず泣き声も引っ込んでしまい、わたしは呆然と見上げる他なかった。
遅れて、舞い上がっていた布団が降ってくる。薄い布に包まれて、わたしと奏は見つめ合っていた。
というより、あの、本気で力が強い。身動きが取れないくらい。
「美穂……!」
「あ、あの、奏? 奏さん……?」
ちか、あのちか、近いっ。
薄暗くなった、その影の中でも奏の瞳はやけに輝いて見えた。それは、暗闇に紛れて獲物を狙う肉食獣にしか出せないぎらつきだ。息も荒い。風邪なのはわたしなのに、それ以上に。
どことなく怪しい色気がある。
あれ。
これって結構、ピンチなのでは。
「……願ってました」
「へ?」
遅まきながらに動き出した危機感を先んじて制する告白に、間抜けな声が出てしまう。
「むしろ風邪を引いてくれって、願ってました」
「……そう、なの?」
「そうです。だってそうすれば、美穂のお世話が出来るんですから。お出かけもいいですけど、私の原体験は風邪を引いた美穂の世話をする事です。それこそを望んでいます。それに、美穂の弱った顔が私は可愛くて仕方が無くて。感謝してました。幼馴染になれて。だって特等席で、そんな美穂をずっと眺めていられるんですから。幸せでした。とても、幸福でした」
「……」
その。
だいぶ、重いような気がする。
打ち明けられた奏の思いは、まるでわたしの予想を超えていた。外側にも程がある。そんな素振り、まったく無かったはずだ。よくぞ抑え込めれたなと言わざるを得ない。その早口も、必死さも、わたしの知る奏とはまるで違っていた。
でも。
驚きはしたけど、イヤでは無かった。
「ですが、私が見たいのはそれでも頑張っている美穂です。決して、泣いている姿ではありません。そんなのダメです。弱っている顔は望んでも、涙を流されたくはありません」
「……すっごい無茶苦茶な事言ってるって、分かってる?」
「自覚はしてます。でも抑え切れないんです。たった今切れなくなりました」
「わたしのせいかぁー……」
全力で振り切れている。もはやわたしが止めたとしても無駄だろう。奏はもう止まらない。
わたしも、止めない。
「だから、そう、だから……全部風邪が、悪いんですから……」
互いの息が交わる。温度が高まっていく。ぼんやりとした視界の中で、奏の顔だけが鮮明だった。心臓が脈を速める。布で遮断された空間。熱に浮かされていく。手首を掴まれる感覚に安心する。外にいる人たちもこんな心地なのかなと、そんな考えがよぎった。
一回だけ、奏が喉を鳴らした。震える唇で聞いて来る。
「その風邪を、移す方法……試してみますか……?」
それは。
思い浮かぶ行為は、一つしか無くて。
「……うん」
何がなんだか、茹だる頭では考えられなかったから。熱い息を吐きながら、曖昧に頷くにとどめた。
固まって、震えて、緩まって。でも緊張した奏が顔を近づけてくる。前髪が、鼻が触れあって。一番近い所で吐息が交差して、塞がった。驚くぐらい甘くて、少しひんやりした、そんな感覚。
何回も繰り返される。堰を切ったように。互いの熱を交換する儀式みたいな、神聖なものにわたしは思った。祭囃子が遠くなる。
例えば。これが風邪を引いて、熱を出して、浮かれて。そんな事が一切ない正気だったとしても断らなかった。そんな確信がわたしにはある。
弱った心と体に寄り添い続けてくれた。そんな存在、惹かれるのも無理はない。
七夕は風邪を引く。その時から、病が一つ増えた。
歳を重ねるごとに悪化の一途を辿るその病は、どうも消える気配すらない。
心地の良い熱、恋の病だ。
七夕には風邪を引く 裃境 @kamisimo13
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