あこがれ

古戸治良

あこがれ

 そうして月はまだ水面にゆらめいている。


  ***


 いまでは離れて暮らす彼女らはその晩、ふたりにとって最良の時期、あるいはそうなりえた日々のこと、お互いがお互いの最大の関心事だったあの頃を思った。暗い五一三号室、ベッド脇のスタンドライトをたよりにたばこの火をつけた、悠里ゆうりからすれば忘れてしまうことなどまだずいぶん先の話だったけれど、母親の運転するミニバンの中、絶え間なく通りすぎる光の明るさに助手席で目をひらいた、遥香はるかのほうではそれが最後になる。

 シートに縛りつけられて自由の利かない肩や背中は、意識の沈んでいるまにひどく強ばっていた。眠っていたわりに体の火照りはなく、むしろゆっくり肺に入れた空気は身体よりも暖かく感じる。それを一気に吐くと、運転席の母が聞きつけたらしい。

「起きたん」

「うん、まあ」

「起きとき。サービスエリア着くし」

 いま親の声なんか聞きたくないな。ん、とだけ打った相槌には苛立ちが混じった。両手で握られたハンドルはゆっくり右に回り、それに合わせて高速道路もゆるやかに曲がっていく――あ、いやいや逆か、あたしまだ寝てるな。シートベルトの食い込む左肩のかすかな痛みばかりがありありとしている。どうでもいいけどお腹すいた。サービスエリアならうどんとかあるかな。

「肉うどん」

「なに?」

「肉うどんとか、たべたいな」

「ああ。ありそうやね」

「うん」

 こんな話をしているうち、感傷の波は引いていく。

 あの日々を思い焦がれることは、もうほとんどない。過ぎ去った時間は思い出とも呼べないままに、いつしか脈絡のない断片でしかなくなってしまっていた。それらを一つの印象に結んでくれていたのはきっとスマホの中の写真やいくつかの贈り物で、どれも捨ててしまったいま、記憶のなかの悠里はばらばらにほどけた。同時に懐かしさや後悔は力を失って、やさしい波はただ足元をさらってゆく。

 それでもときおり、あたしにふれる肌やさぐりあう温度が、ふいに帰ってくることはあった。あとは、後ろから抱きすくめられたとき胸を満たすオレンジの香り。ブランド、どこって言ってたっけ。それも既に変わっていることを、遥香はもうずっと知らないままになる。

「西岸さん」

 後ろからした声に、悠里は振り返る。吸いかけのたばこをテーブルの灰皿に置いて、起きてたんだ、と笑う。いつまで苗字で呼ぶの、とも。

「そうですけど、でも」

 薄い毛布をひきつれて、起き上がった凪紗なぎさはベッドの上を這い寄ってくる。暗闇のなかで煙に包まれた悠里の輪郭はひどくあいまいで、それを確かめるように身を寄せ、細い肩に頭を預ける。首筋からは重たく甘い、バニラみたいな香りがした。

「前と違いますね」

「……なにが」

「香水? なんか、落ち着くにおいです」

「ああ。変えたの」

 どうして、と尋ねる凪紗に、前のはたばこで消えちゃうでしょ、と悠里は答えた。灰皿から流れる細い煙と灰へ変わっていく先端に目線を落としたまま、いつも通り相手をみないで話すから、

「うそ」

と言われても反応は少し遅れる。

「え?」

「遥香さん、でしたっけ」

「……ああ、はは、鋭いね。そう、ちょっとあてつけ」

 たばこを吸いはじめたのは遥香とつきあうよりもずっと前のことで、香水を変えたのは先月のことだ。あてつけとは言ったけれど、心からそうしたかったわけじゃない。そうするものだと思ったからそうした。

 あれだけ唐突で一方的な破局を言い渡されておきながら、どうしてだろう、私はまだ怒ってもいないし恨んでもいない。遥香がくれたイヤリングもネックレスも口紅も捨てる気にはならなかったし、写真だってたまには見たい。かといって去っていく背中に縋りつきたいのでもない。遥香との別れはただ、不思議だった。

 でもいつかはその不思議も、単なる事実として受け入れるしかなくなることはわかっている。だから、あの子の好きだって言ってた香水から、とりあえず変えてみることにした。あと、さっきの理由もほんと。最近吸う量増えちゃったからさ。

 そうですか、と変わらず悠里の肩の上から、灰皿に目線を落として凪紗は話をつづけた。

「けっこう長かったですよね」

「うん、まあ。三年くらい?」

「そうしたら、わたしが入社するより前からですね」

「ええっと。……まだするんだ、この話?」

 悠里は凪紗に向かって呆れたような顔をつくり、凪紗は身体を少し離して向き直った。同じ高さで目線がまっすぐ合う。

「わたしは聞きたいです」

 そう。目もとだけでうすく笑って顔をそむけ、拾いあげたたばこを吸う、その高くないけれどまっすぐな鼻筋とか、口もとを覆う細くて長い指を、ひとつひとつ確かめるように凪紗は眺めた。沈黙のなか、天井へと吐き出された煙が頭上で闇に消える。

「不思議って、どういう感じですか」

「どういうって……」

「具体的に、いつ思うとか」

「具体的に。具体的にね」

 なんだろうね、とごまかすように笑いながらたばこに口をつけて、最初に思いあたったのはそれこそもう昨日のことだ。仕事を終えて帰ってきたリビング、ソファに横たわって自分の身体から屋外の空気のにおいが抜けるのを待つうち、それは不意におとずれた。私はどうして、誰とも話さず触れ合わずに、ここにひとりでいるんだろう? それよりも、隣に遥香が座っているほうがずっと自然な気がした。ふざけて肩にぶつかってくる衝撃、そのとき首にふれる髪の感触、よくそこに脱ぎ散らかした靴下とか途中まで観たNetflixのドラマ。二人でいた思い出に満ちた部屋は水槽のようだった。息をしたくても、水位は知らぬ間に上がりきっている。

 でも、付き合ってる間は私があっちの家に行く方が多くて、二人であの部屋にいた回数なんてたぶん一つ一つが思い出になる程度でしかない。だからもう場所とか関係ないくらい、あの子と一緒にいることに慣れすぎちゃったのかなって、言ってて気づいたけどこれじゃただ寂しいだけなのかな、わかんないけど。

「——どう思う?」

 冗談めかして締めくくった悠里はたばこの火を灰皿で揉み消して、

「わたしが分かるわけないですよ」

と笑った凪紗がその様子をじっと見ている。

「西岸さんて、寂しいとか思うんですか?」

「なにそれ。思うよ」

「だって元々ひとり平気なタイプっぽい」

「あー。それはそう、かも」

 だってだから、好きとかいうのだって最初はよく分かんなかったりするんじゃないですかと、その言葉を呼び水にして思い出されるのも、遥香と出会って間もない頃の話だった。遥香と違って私は親しみが愛しさへ変わるのにも、それを自覚するのにも時間がかかる。それで付き合ってからもぎくしゃくしたっけ。遥香は毎日毎日会いたがって、私にはしばらくそれがうざったかった。そのとき凪紗ちゃんにも話したのかな。もし別れたとしても苦しいのは相手の方だけで、自分は平気だと思う、とか。ていうか、こんなことを訊くってことは、凪紗ちゃんはたぶん私のそういうところが不安なんだ。だったら、

「どうかな」

とだけ答えてやさしく笑っておく。こうやって質問を躱しちゃうとこもよくなかったかな、とか不用意に考えてしまったらまた後悔が押し寄せてきて、溺れそうになるから二本目に火をつけた。凪紗は黙ってベッドに戻ったけれど、上体を起こしたまま壁に預けて、悠里のほうを見ていた。

 ――思ったままをすぐ言っちゃうとこ、今思えば好きだったな。

「おなかすいたなあ」

 前に並んでいる男が振り返るまで、口に出ているのにも気づかなかった。振り返ると母が笑っている。

「あんたずっとそうやなあ」

「しゃあないねん」

 サービスエリアは少し混んでいて、フードコートもずいぶん並ぶ。ここ最近は人ごみを見ても、あの嫌な感じがしなくなってきた、あたしはもともと病気に敏感なほうじゃないけど、とか思っても、親にこんなこと言ったって仕方ない。こういう広がらなくてもいい話を、わざわざしたいと思える相手が今のあたしにはいない、と頭の中で言葉にしてみて、やっと少し寂しいような気がした。

 ほとんど手癖みたいにいじっていたSNSが、いつのまにか自分のプロフィールを遡っていた。二年前、ふたりで行った海の写真の投稿が残っている。別れた直後、悠里が映ってる写真は衝動的に全部消したけど、風景だけのは迷ってちょっと残したんだ。海の写真にしては四枚ともずいぶん暗い。誰もいないし曇っていて、たしか帰りには雨が降った。日付は五月の真ん中ごろ、泳いだりするわけでもなくただ海が見たかった。

 こういう時間を一緒にする相手ももういない。けどそっちはなんとも思わない。だって、海なんか行っても仕方ないような気がする。なんで行きたかったんかももうわからへんかも、──考えはそこで途切れる、ひとつ前の背中がレジへ向かったからだ。遥香の番はもうすぐで、レジの上に大きく掲げられた写真付きのメニューをもう一度たしかめる。

 肉うどん、ちょっと高いな。

「引っ越すんだって」

 話を切りだしたのは打ち明けたかったからではなくて、ただ沈黙を嫌ったからだ。二本目のたばこを吸い終えても、悠里はまだなんとなく灰皿を見ている。

「なんの話ですか」

「いや、あの、元カノね」

「ああ」

「実家が引っ越すから、それにあわせてって」

 仕事も変えるんだってさ気楽でいいよねと、話の流れに合わせただけの思ってもいない皮肉に胸が少し痛んだけれど、凪紗ちゃんはきっとあたしが遥香を良く言うところなんて聞きたくないだろうし、それでいい。今はなんとなくまだ話していたい、黙っていたらまた思い出に溺れてしまいそうで、もしかしたら今、私は寂しいのかもしれない。

 寂しい。それがどういうことか、あの子ならもっとはっきり分かるんだろうな。できれば寂しくあってほしいと思ったから、やっぱり恨んでるのかな。

「もうだいじょうぶやねんな?」

 運転席から聞こえた声に、遥香は振りむかない。窓の向こう、すぐそこを通りすぎていく、大型トラックを目で追いかけていた。側面に描かれた運送会社のロゴマークに、見覚えはあるようなないような。

「なにが」

「なにって、あんた。泣きながら電話かけてきたん誰や」

「ああ」

 ああって、と呆れて笑う調子はさっきより軽くなる。トラックは向こうのトンネルに消えて、

「へいき、へいき」

と答えるころにはこの車もそれに続いた。オレンジの灯りが左右から規則的に車を撫でていく。遥香の視界は、明るくなったり暗くなったりを繰り返す。

「ひとりでもへいきや」

 じゃあええけど、と呟く母親の声は少し寂しそうに聞こえる。もっと説明したほうがたぶん安心してもらえるけど、これでよかった。咄嗟に出た今の答えが気に入ったから。

 それで車内は静まりかえる。母親はすぐそばにいるのに、一人でいるときの気持ちになる。それが遥香には心地よかった。へいきや、って本当に思う。何かを隠して黙っていることも、今のあたしにはできる。寂しげで大人っぽくて、すぐどこかへ消えてしまいそうで。そういう、今は思い出せない誰かに、かつて抱いたあこがれに、近づけたようでうれしかった。

「西岸さんがわたしと会うのは、寂しいから?」

 唐突な問いに、悠里は目を丸くする。たばこを消して灯りを消して、ふたりはもう眠ろうとしていた。凪紗は悠里の右腕を枕にしていて、その声は骨づたいにも響いてくる。

「だったら嫌?」

 空いてる左手をまわして、凪紗の左耳をさぐるように髪を撫でる。やわらかい猫っ毛の感触と、今は私と同じシャンプーの香り。

「だって、寂しいだけなら誰だっていいじゃないですか」

 仰向けのまま天井へ放たれた、平坦な声はまるで朗読のようで、きっと以前から言おうとしてきたことなのだろう。そのいじらしさに悠里は微笑んで、回した左手でそのまま肩を抱いた。悠里の答えも、決まった台詞のようにするりと出てきた。

「誰だっていいような人とは、わざわざ会わないよ」

 電気消しててよかった、なんだか笑っちゃいそうだ。ほとんど同じことを、悠里もずっと考えていたのだ。

 きっと誰だって寂しい、寂しいだけなら誰だっていい、誰だっていいような人になりたくない。ずっと考えているようなことだから、遥香にもどこかで話した。

「でもあたし、悠里じゃないと寂しい。他の人が何人おっても」

 ちがう、私が言ってるのはそうじゃなくて。そういうその場その場の寂しさじゃなくて。恋人って呼べる誰かがいることでちょっとは紛れるような、でもいつまでも埋まらないみたいなね、心にずっとある寂しさのことを言ってるの。それが私である必要は、遥香にだって、本当はないんじゃない。

「どういうこと?」

 遥香のぽかんとした顔を見て、すぐに切り上げてしまったその話を、でも悠里はずっと覚えていた。つきあうより前のことだ。ずっと覚えていてずっと考えている。遥香のその顔も、ずっと覚えている。きっとわかってくれないってわかってしまった自分がどんな顔をしたかも覚えている。そしてどうか、それを遥香が覚えていないようにと祈っている。

 どれも泡になって消える。


   ***


 スタンドライトも消した室内では、目を開いても景色が変わらない。身体にかかっている重みは毛布のだけで、眠る凪紗は悠里に背を向けていた。

 ゆっくり起き上がると、むきだしの左肩に冷たい風が当たる。消し忘れたエアコンが口を開いていた。それで喉が渇いているのだ。ゆっくり上体を起こす。ベッドの端から大理石の床へ、足を垂らす。

 その冷たさを合図に、潮は満ちていく。

 長いトンネルの中で、他愛のない会話も途絶えた。オレンジの照明にも慣れた目は今にも閉じてしまいそうだったが、それはいよいよ母親に申し訳ない気がする。取り出したスマホで、そういえば今どのあたりなんだろうと、地図アプリを開く。案外電波は通じてるみたいで、現在位置を示す青い丸は太い緑の帯の上を小刻みに動いている。その進行方向へと画面をスクロールして、あっ、と遥香は声をあげる。

 ――ねえ、たぶんトンネル抜けたら見えるよ。

 なにが。

「海」

 大きな波が、ふたりの足元をおそう。

「つめたっ」

 遥香の声は妙に太く低くて、悠里はそっちを見ずに笑った。驚いたというのでもなくてやっぱり、また思ったままが出ている。ずっとそのままでいてほしいと思う。

「これはやっぱ泳げないね」

といって、悠里は遥香の隣をはなれた。ただ足のつめたさに耐えかねただけと思った遥香はしばらくそこで、自分の足元を注意深く眺めていた。波が運んできた砂は、遥香の足に覆い被さるも、すぐさま引く波にさらわれてまた水底へ消える。そのたび砂はきっと少しずつ入れ替わっていて、さっきと一粒違わず同じ砂がやってくることはない。それは水も同じことで、顔を上げれば見える膨大な量の水も、絶え間なく入れ替わり続けているんだろう。

 それに見飽きてやっと振り返る。背後には誰もいない。ただ荷物を並べたブルーシートだけが見えて、悠里のサンダルがそこにない。それで左右を見渡せば、右のほうに遠ざかっていく人影が見えた。

「どこ行くのー!」

 大きな声に振り返れば、手を振る小さな人影を見つける。そのとき私の前髪を揺らしていたのと、きっと同じ風があっちでピンクのスカートを揺らしている。今日の服かわいいねって、そういえばあの日言い忘れたかもしれない。

「ちょっと歩いてみるー」

 手を振りかえした姿に、あたしはスマホのカメラを構えた。写真の中の悠里は、思ったより近くに見える。それでたぶん、追いかけなくてもいいと思った。

 奇妙にねじれた灌木、打ち上げられて死んだ魚、いつからそこにあるのか砂まみれの白い軽トラ。遥香がみたらおもしろがってくれそうなものはたくさんあったのに、写真は一枚も撮らなかった。たしかスマホは鞄に入れっぱなしだったっけ。ときどき振りかえると遥香は波に合わせてかひとりゆらゆらしていたり、またこっちにカメラを向けたり。きっと自分ではじっとしているつもりなのに、そのちょこちょこした動きが、遠く小さくなってもよく見えた。

 追いかけなくてもいい距離が、いつの間に追いかけられないほどの距離になってしまったのか分からない。写真のなかの悠里さえ人差し指の先より小さくて、あたしは悠里から目を離してしまった。そうしたらもう、急にひとりだった。誰もいないし、水と砂しかない。なんやねん二人で来たのに、って、拗ねてしまいそうだから波音に耳を澄ませた。さっきまで気にしていなかったのが、ふしぎなくらい綺麗な音。

 脚も疲れて荷物のところへ戻り、スマホで適当に自撮りとか風景とか撮っていた遥香のもとへ、悠里が戻ってきたのは二十分もしてからだった。わざとらしくふくれてみせた遥香に、悠里は軽く謝りながらなにかを差しだした。

「なに、これ」

 透明で緑色の、おにぎりみたいな形をした欠片。遥香の手のひらに握り込むのも頼りないくらいの小さなそれを、シーグラス、と悠里は呼んだ。

「緑だから、もとはビール瓶かな」

「いっこだけ?」

と尋ねる声が、欲張りな子どもみたいで悠里は笑い、

「ごめんね。いっこだけで」

と頭を撫でる。子ども扱いにまた拗ねてみるけれど、最後は遥香も笑ってしまった。

 ひととおり笑いおえた悠里は右のほう、自分の来し方へ振り向くと、

「もっと細かいのは、たぶん砂に紛れちゃうんだろうね」

と言いながら海岸線をながめた。

 私たち以外に誰もいない。曇り空だし大した景色じゃないけれど、おかげでふたり占めだった。たとえばふたりでこの浜辺の両端にいても、手を振りあうその間に誰もいないなら、一緒にいるって言っていいと思う。馬鹿なこと考えてるなって、自分で笑ってしまう。

 その顔は遥香から見えない。仕方ないからこっちはこっちで、左側に目を向けてみた。濡れた砂と濡れていない砂がつくる境界線は、うねりながらどこまでも続いている。悠里は何を思うんだろう? わからない。わからないってその時気づいた。だからたぶん、気づくまでは分かると思っていた。そうしたらさっきと同じひとりの感じが、すぐそばに悠里がいるのに襲ってくる。心細さに、遥香は振りかえった。

 ちょうど目が合う。

 遥香はずいぶん、不安そうな顔でいた。さっきあげたシーグラスは左手に握ったまま、唇をきゅっと結んで私を見つめる。平気だよ、って、自分でも何がかは分からないけれど、そう言ってあげたかった。言ったかもしれない、でも言わなかったかも。言えばよかったのかもしれない、もし言えていたら。或いはありえた日々の輝きは、今でも頭上に絶えず揺らめく。

 悠里はだまって微笑んでくれたけれど、あたしはまだ寂しかった。その笑顔からは、向こうで一人立っているときと同じ感じがする。でも、だから好きだった。寂しげで大人っぽくて、すぐどこかへ消えてしまいそうで、──そっか、これ、悠里やったんや。気づいたはいいけれど、またこのまま忘れてしまいそう。

 でも、いいか。それでもあこがれだけは覚えていたから。

 トンネルを抜けた先の景色は真っ暗で、海と山の境目さえわからない。けれど水平線の下には二つめの月が、そこに海があることをたしかに伝えてくれる。

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あこがれ 古戸治良 @cotochira

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