真夏のラムネ
鈴ノ木 鈴ノ子
まなつのらむね
カランとビー玉がラムネ瓶の中で音を鳴らす。
シックなグレーのワンピースを着て首筋を流れ落ちる珠のような汗を拭きながら、大木脇にあるバス停留所のベンチに腰掛けていた。
大木の木陰になっているおかげで、日差しは遮られているが、生ぬるい風が気だるそうに吹いて抜けてゆく。
「今年も結局、来ちゃったな」
バス停の看板には、色褪せて黄ばみと雨シミのできた時刻表がぼろぼろのプラスチックカバーに入れられて守られている。
だが、もう、バスが来ることはない。
バス停近くにあった集落は過疎化によって先細りを見せ、5年前に最後の一人が老人ホームへ転居して滅びたのだった。
「誰もいないのは寂しいね」
苔むした小さなお地蔵様に話しかけた。優しい微笑みを湛えて、美しい緑の着物を纏い、陽の光に照らされて神々しい姿だけれど、ふと一抹の寂しさを垣間見たような気がして、
今年で28歳、文字通りの働き盛りの年齢で会社でも昇進の早い、判断力とそれに伴う決断力で、数多くの修羅場を若いながらに勝ち抜いてきた。先輩、同僚、後輩から尊敬と羨望、嫉妬を浴びながら荒波を乗り越えている玲香だが、意外な一面もある。
それが初恋で交わした約束を守ることだった。
この滅びた八十神集落にまだ少ないけれど人が住んでいた頃、祖父母の家に遊びに来ていた玲香が、おばあさんと2人でトウモロコシ畑に収穫に出かけた時のことだった。
暑い日差しの降り注ぐ田んぼの畦道を、東京にはない草花や虫に興味津々な目を向けながら歩いていると、向こうから歩いてくる人影か見えた。
「こんにちは、今日も暑いねぇ」
隣の立花のおばちゃん、その隣に虫取り網を持った男の子がいた。坊主頭に野球帽、地元の小学校の体操服を着て日焼けした肌が眩しい。
それが、立花洋介との出会いだった。
幼いであるが故にすぐに打ち解けた。
毎年のおばあさんの家で何気なく過ごす日々が、その時を境に一変した。
虫取り、川遊び、山遊び、とにかくたくさんの遊びをして、宿題の日記帳は毎日書くことに溢れるくらいに充実した日々、迎えに来た両親と東京へ帰る別れ際には、互いに大泣きして再会の約束をした。
それから毎年の夏休みは、成長ごとに遊び方は変わったが、再会と別れを繰り返していった。
変化があったのは、中学二年生に進級してすぐのことだ。
突然に玲香は学校へと行けなくなった。
私立の進学校だったので、両親は勉強か、もしくはイジメなどを気にして玲香に気を遣ってくれたが、玲香にはなにも答えられなかった。
理由がある訳ではない、たた、学校に行けない。朝の身支度と用意まではできる。しかし、いざとなると、目眩がして吐き気を催すのだ。一度吐き始めてしまえば、胃の中が空っぽになっても続く。やがては自宅からも出れなくなってしまい、両親は落胆と悲嘆に暮れて、玲香を連れて医療機関を尋ね歩いた。診察に診察が続くに連れ体調はますます悪化していき、医師からは心療内科を勧められたが、両親は頑なに拒んだ。
互いが、互いに限界であった。
入梅から暫くして梅雨のじめじめが、家庭内の雰囲気を一層悪化させていた頃、突然、祖父母が八十神から軽トラで駆けつけてきた。両親は相談を躊躇っていたようだが、親戚筋から噂が漏れたらしく、血相を変えてやってきたのであった。
「辛かったね、玲香、もう、大丈夫だからね」
おばあさんに抱きしめられて、懐かしい香りに包まれた玲香は目から、いや、心の底からの涙を流して、大きな声で、まるで絶叫するかのように泣き声をあげる。
それは数ヶ月の耐え忍んだ気持ちを吐き出すかのようであった。
「しばらくうちで通わせるから、雪さんも、翔太もゆっくり休みなさい。お前たちもよく頑張ったよ。」
おじいさんが玲香の泣き喚く姿を見て、絶望した両親に祖父が寄り添って声をかけた。そしてゆっくりと2人の背中をさすると、母親は泣き崩れ、父親もまた男泣きを見せたのだった。
落ち着いた頃に両親と祖父母の間に話し合いが持たれて、玲香は祖父母に預けられることが決まり、翌日には引越しの荷物を纏めると、軽トラに詰め込んで玲香は自宅を後にした。
「玲香、きてるんか!」
祖父母の家で引越し荷下ろしを手伝い重たい荷物のため、フラフラと倒れそうになった時のこと、後ろから抱きしめられるように、しっかりとした手がダンボール箱を掴み、背中を逞しい体が受け止めてくれた。
「洋介」
「どうした?夏休みは早いし、えらい荷物だな」
キョトンと困惑した顔つきの洋介に、再び玲香の涙腺は緩む。箱から手を離して彼の腕の中で身を翻すと、あとは成長して厚くなった逞しい胸板に顔を擦り付けて、声を押し殺して泣いたのだった。
翌日からは、学校帰りに洋介が毎日、毎日、寄っては話をしていった。野球部の洋介は朝早く、夜遅い、挙句に汗だくで泥だらけの時もある。
「洋介!風呂へ入ってこい!」
おじいさんがそう言って怒って指差した風呂は、我が家となった玲香の祖父母の風呂だった。
「はーい、借ります!」
遠慮なく風呂に入るようになり、やがては玲香の我が家ともいえる家に洋介の着替えまでが置かれる有様となった。
夏休みとなれば、洋介は部活の合間をぬって玲香を連れ出した。自転車の後ろに乗せて下り坂で風を切り、時に上り坂で息を切らせ、やがては、互いに歩いて息を切らせ、そして笑いながら歩いた。
夏祭り、花火、川遊び、色白だった玲香の肌は小麦色の健康な色となって新学期を迎えた。
「ほら、行くぞ!」
新しい学校、新しいクラス、なによりあの忌まわしい記憶に悩まされそうな玲香の手を取り、自転車の後ろにあっという間に乗せた洋介は漕ぎ出していく。
開けた夏空の青と入道雲の白が、ひどく眩しく、白いワイシャツの背中を見て、玲香は「ありがとう」と呟いて頬を染めた。
中学校では洋介のおかけですぐに溶け込めて、まるで魔法が解けたようにすんなりと馴染めていき、季節が移ろう頃には玲香は自分から登校できるまでになっていた。しかし、洋介は毎朝迎えに来ては後ろに乗せて漕ぎ出していく、恥ずかしいからと言ってみたが、野球バカと言っても過言でないくらいの洋介は筋トレと言って譲らなかった。
後々になって玲香が重いと言われていることに気がついて、問いただして頷いたので、思いっきり鞄でぶん殴ると、そこだけには気がついたらしく、微妙なフォローが入ったが、それに再び腹が立った玲香は再度ぶん殴った。
やがて季節は移ろい中学三年生の夏の大会に応援で駆けつけて、県大会準決勝まで勝ち上がったが敗退してしまった。投手だった洋介の悔しがる背を見て同じように涙を流して、学校からの帰り道は2人して顔をくしゃくしゃにして泣きはらした。
「玲香、俺、推薦受かった!」
甲子園常連校の推薦枠に逆推薦の形で合格した洋介は、合格通知を持って部屋へと入ってくる。
「おめでと洋介、夢叶えたね!」
嬉しそうに取り繕っても玲香の心中は穏やかではなかった。
合格した高校は県外で寮生活、そして、男子校だ。
別れが迫っていることを予感させていた。
玲香の目指す高校は中学のすぐ隣にある有名な進学校で、成績優秀者として特待生で入学が決まっている。もうすぐ、別々の進路へ進むことになるのだ。この素敵な関係も終わりを告げることになる。
夏の日差しは急速に力強さを失い、それは玲香の心にも響いた。
秋祭りの日、少ないながらも町内会の売店の売り子として洋介と玲香は手伝いを終えた頃、不意に洋介に手を掴まれて玲香は神社の階段を駆け上った。
「ちょっと、なに」
何も言わずに引っ張って上がってゆく洋介の背中に何かを感じ取った玲香は、それ以降、声を上げるのをやめた。石段を上がり切り、幕の張られた神殿の前で洋介が足を止める。
境内は緩やかな風が吹いて葉を揺らす音、幕が旗めく音、そして、虫の音色が優しく鳴いている。
「ほい、これ」
「あ、ありがと」
封を開けたラムネを差し出されて、戸惑ったが受け取る。ひんやりとした感触が心地よい。
境内の氏子達は花火を打ち上げるための手伝いでお山を降りてしまっていたので境内には二人しかいなかった。
やがて、ドンと音と共に空に満点の星空のように花火が広がるとシュルシュルと音を上げた。
「やっぱり、ここから見るといい眺めだなぁ」
「うん、そうだね」
一発目を見終えて二人してそう言って笑う。
やがて洋介の顔が笑みから今までに見たことがない真剣な顔つきに変わる。
「玲香、俺、お前の事が愛しい」
「は?えっと、好きじゃなくて?」
「いや、元から好きなんだけど、今は愛しいと言った方が間違ってない気がするんだ」
そして真っ赤になった洋介に玲香の顔も真っ赤に染まっていく。
「どうして今言うの?もう暫くしたら別れるじゃない」
受験は終わった。もう、その先の進路も見えている。洋介は他県、玲香はこの地に残る。
「だからこそ伝えたかった。玲香は俺の夢知っとるだろ?」
「プロになる事でしょ?」
「ああ、俺は頑張ってプロ野球選手になる。そんでもって玲香を迎えにいく、それまで待っててほしい」
「すっごい身勝手ね、私はずっと待ちぼうけさせる訳?」
「ああ、勝手言ってる。でも、それぐらい失いたくないんだ」
見慣れた視線が逸らさずに真剣な眼差しで玲香を射抜くように見つめる。その視線に柔らかな恋心は抵抗をまるで撫でられた猫のように宥められてしまった。
「いいよ、待ってあげる。その代わり、逃げたら許さない。重たい女になってあげる」
「ありがとう、望むところだ。絶対に逃さないからな」
「じゃぁ、神様に誓って」
「いいぜ、そっちに立てよ」
二人して神殿の前で二礼二拍手一礼を済ませる。終えた頃合いにシャランシャランと何処からともなく鈴の音が聞こえた。まるで神様が見届けましたと言ってくださっているようで、二人は怖さよりも嬉しさが募る。
「よろしく」
「うん」
少し恥じらいはあったが、そのまま、互いに体を寄せ合い、ゆっくりと口づけを交わす。
「すこし恥ずかしいな」
「そ、そうだね」
離した唇を互いに手で隠しながら、誤魔化すように飲んだラムネの味は、なんとも言えない甘い味であった。
あれから何年経っただろう。
メールや電話でのやり取りは二人とも続いている。
玲香は進学し有名大学を受験して合格した。そして祖父母の死をきっかけに東京へと戻った。
葬儀の時には洋介が駆けつけてくれて、ずっと側にいて手伝を買って出てくれた。大学卒業後は今の仕事で頑張っているが、玲香はここのところ忙しさもあるため洋介とは連絡が取れていない。
唯一、真夏に集落で会うという約束を葬儀の時に交わして以来、こうして来ることはあるが、予定が合わなかったりしてすれ違うことも多い、それでも、来てしまうのは懐かしの故郷を眺めに来るためと祖父母の家を修繕して廻るためだ。
「もう、来ないかな」
ベンチから立ち上がって乗ってきたバイクにかかっているライダースーツに手を伸ばす。
ワンピースは一時的に暑さしのぎで着替えただけだ。でも、ちょっとは見られても良いように意識もしていた。
「よう、玲香」
懐かしい声が聞こえて、そしてバス停の後ろから陽に焼けて筋骨逞しい男が姿を現した。
「洋介・・・来てたんだ」
思わず涙腺が緩む、連絡をとっていないのに奇跡的な出会いだった。逆にビックリしたような顔をして洋介がポカンとその場に立ち尽くしていた。
「え?もしかして、昨日の中継見てない?」
「え?」
「えっと・・・。ど、どうしようかな」
慌てふためく洋介に私はすぐにスマホを取り出して昨日の試合の動画を探す。止めようとする洋介の腕を振り払い、やがて目的のインタビューへと至った。
『完封勝利、おめでとうございます!素晴らしい結果ですね』
『ありがとうございます。チームメイトのお陰です』
『最近は好調ですね。いいことでもありましたか?』
『ええ、自分の野球が掴め始めているのではないかと感じています、あとは、そうですね、もう身を固めようかと』
『おお、お相手はどんな方なんですか?』
『中学からの同級生なんです、ずっと待たせてしまいました。玲香さん!申し込みに行きます!』
歓声が上がり中継の放送を見終えると蝉の声だけが響く静かな世界が訪れた。
冷や汗のようなものを垂らした洋介と、その顔を真っ赤にして泣きそうに見つめた玲香は、しばらく見つめ合うと、玲香が思いっきり走り出した。
「ちょ、ちょっと玲香!」
バス停から走り出した玲香は、一目散に自宅前を通り過ぎると、自分でも驚くほどの速さで石段を駆け上がっていく。後ろから規則正しい、それでいて適切な間を開けた足音が聞こえていることに安堵しながら、最後の一段を登り切る。
眼前に少し傷んでいるが、あの時の立派な社殿が聳えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
「いきなり走りだ・・・あ・・・」
息も絶え絶えになった二人はやがて互いに視線を合わせた。
「もし、それを、貰えるなら、ここしかない、と思ったの」
息を切らしながらそう言った玲香に、整えを始めた洋介が顔を真っ赤にして頷いた。
互いの息が整うまで互いに待つと、真の前にあの時のように互いに向き合った。
あの頃からは幼さが消えて大人の女性となった玲香はとても美しくて、日差しのもと洋介には神々しく輝いて見える。玲香からみれば、逞しく引き締まった体に少しシュッとした安心できる見慣れた顔立ちを目にして、思わず胸がトクンと鳴った。
「玲香」
「は、はい」
「待たせて本当にごめん、結婚してください!」
ポケットから箱に入った指輪を取り出して目の前で開けて見せた。
小さなダイヤモンドのついたシルバーの指輪が一つと細い金色の指輪が一つ。
金色の形に見覚えがあって思わず驚いたが、その記憶を思い出すとすんなりと納得した。
『いいかい、玲香、このおばあちゃんの指輪は、大切な人に預けておくからね。大切な人から受け取るんだよ』
おばあさんの死期が近づいていた頃、病院のベッドで笑っていた。何年も前の話なのに指輪は綺麗に磨かれて黄金の光沢をシルバーに負けないくらいに陽の下で輝かせている。
そして大切な人は目の前で顔を真っ赤にして指輪を差し出していた。
「だいぶ待たせたくせに」
玲香がボソリと悪態をつくとビクッと洋介の肩が震えるのが分かった。
「ずっと待ってました!結婚します!」
手を差し出すと指輪が指へと通されてゆく、やがて付け根で止まった二つの指輪はさらに光沢を増した気がした。
「ん!」
気が抜けてしまったような洋介に玲香は唇を向けた。洋介がゆっくりと玲香を抱きしめると、しっかりと口付けをして確かめ合うようにさらに抱き合う力を込める。唇を離した頃にシャランシャランと鈴の音がとこからともなく聞こえてきた。それはとても澄んだ音色で二人を祝福してくれているようだ。
「あ、そうそう、これこれ」
「なに・・・、あ、ラムネ!」
二本のラムネの栓を開ける。
走ったせいもあったのか中身が少し噴き上げた。シュワっっと音と共にカランとビー玉の揺れる音が響く。
乾杯するように瓶の音を鳴らして飲んだラムネの味は、生涯忘れることのない甘露なものとなった。
真夏のラムネ 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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