第4話 三女のはるか

 待ち合わせの時間がそろそろだと思って、まわりを見渡してみたが、どこにもゆかりを見つけることはできなかった。

「スマホで連絡を取ってみようか?」

 とも思い、スマホを握りしめていたが、

「移動中かも知れない」

 という思いと、

「まだ、待ち合わせの時間になったばかりではないか」

 という思いとが交錯し、もう少し待ってみることにした。

 いつも待ち合わせをしている人であれば、そのあたり、気にもせずに連絡を取るかも知れないが、逆に少し遅れるくらいは、想定の範囲内だと思う。しかし、ゆかりとは、二人だけでどこかに行くということが初めてで、当然待ち合わせなど二人だけでしたこともない。それを思うと、自分が何か焦っているかのように感じられたのだ。

 ゆかりを待っているこの15分くらいの間、自分がゆかりのことを好きになったかも知れないと感じた。

「いや、元々の心境がどういうものだったのかを忘れてしまっていて、今は何となくではあるが、気になってしまっている。これは、待ち人を待っている際に感じる錯覚なのかも知れないが、今はそれでもいいと思っている。これが待つことを億劫に感じてしまっていると、気になっているといっても違った感情になるんじゃないかな?」

 と思うからだった。

 待ち合わせの時間から、5分が過ぎた頃だった。

「一郎お兄ちゃん」

 と、後ろから声が聞こえた。

 反射的に後ろを振り向くと、そこにいるのは、三女のはるかだった。

「えっ? はるかちゃん?」

 と思わず、ビックリしてしまった。

 思考回路が停止した気がしたが、それは一瞬のことで、すぐに元に戻っていた。

「どうしたんだい?」

「お姉ちゃんを待っているんでしょう?」

「えっ、ああ」

 と中途半端に答えると、

「ごめんね。お姉ちゃん、急にこれなくなって、それで私が急遽来ることになったんだけど、お兄ちゃんは不満かな?」

「あ、いや、不満というわけでは……」

 ここで不満と答える選択肢は自分にはなかった。

 しかし、これないのであれば、普通、連絡をしてくればいいと思うのだが、それをせずに、妹のはるかを来させるとはどういうことだろう? はるかの様子を見ていると、おめかしをして、いかにもこれからデートという様相をしている。まるで最初からそのつもりだったかのようにも見える。

 はるかはまだ、中学一年生だ。この間まで小学生だったという意識から、女性として見たということはなかった。そのはずなのに、見ていると、いつの間にか大人になったような気がする。

 ショートボブっぽいその髪型は、実は渡良瀬が好きな髪型で、うっすらとではあるが化粧をしているはるかなど、今まで見たこともなかった。

「この間まで小学生だったんだよな」

 と思いながら見ていると、はるかが思春期に突入したんだということがよく分かった。

「ふふふ、そんなに見つめられたら、恥ずかしいわ」

 というセリフを吐いたはるかに対して、きゅんとしてしまった自分にビックリした渡良瀬だった。

 特に、このセリフは、渡良瀬に対して、胸キュン言葉であった。それを、この間まで小学生だった女の子に言われ、ドキドキしている。

「やっぱり、女の子って男子よりも、発育はいいんだな」

 と感じた。

 自然と視線が胸に行っていて、その胸はすでに子供のものではなかった。ドキドキしても、無理もないことであった。

「この子とデートしたら、楽しいだろうな」

 と思った。

 しかし、今日は別の女の子とのデートの予定だった。しかも、それは彼女の実の姉ではないか。そんなことが許されていいのだろうか?

 だが、はるかは、そのつもりで来ている。ここに来たということは、当然、ゆかりに待ち合わせの事実と場所を聞いたから来ているのだ。たぶん、はるかが、待ち合わせをしていることを察して、

「じゃあ、お姉ちゃん、私が行って、今日はお姉ちゃんがこれないことを伝えてあげようか?」

 とでも言ったのだろう?

 それで、ゆかりも別に気にすることもなく、

「そう? それならお願いしようかしら? 悪いわね」

 ということになったのだろう。

「本当は、ゆかりがなぜ来れないのか聞きたかったが、せっかくはるかが来てくれて、はるかは、そのことに触れようとしないのであれば、わざわざ聞くこともないだろう。もし聞きたくなったのなら、いつだって聞けるんだし」

 と思った。

 確かに、その通りだった。

 だが、何よりも、来てくれたはるかの気持ちを大切にしたいと思ったのだ。いや、もっといえば、もしはるかがデートしたいと思ってくれているのだとすれば、自分も願ったりかなったりで、

「お願いします」

 と言いたいくらいだ。

 この気持ちをわざわざ壊すこともないだろう。そう思うと、すでに自分ははるかとデートをするつもりになっていたのだ。

 だが、中学一年生の女の子を相手のどんなデートをすればいいんだ? そもそも、自分だって、デートというものの経験はないではないか。はるかにだってあるはずなどない。どうすればいいのかを考えていた。

 それを考えていると、自分が今日、ここに何しに来たのかということを、再度考えさせられた気がした。ゆかりとデートをするといっても、別に何かプランがあったわけではない。どこに行こうか、相手に決めてもらおうと思っていて、そして、答えが出なければ、自分から提案すればいいんだというくらいに考えていた。

 ゆかりの性格は分かっているつもりだったので、デートと言っても、男女二人でどこかに遊びに行くというくらいのものだとたとタカをくくっていたといってもいいだろう。

 だが、今日は急遽予定が変わって、相手ははるかなのだ、この間まで小学生だった女の子とどこに行けばいいというんだ?

 とりあえず、相手に決めさせるというのは、失礼ではないかと思い、提案は自分からしないといけないと思った。

「遊園地にでも、行こうか?」

 と、言ったが、それを聞いて、一瞬だが、ムッとした様子に、はるかが見えたのを、渡良瀬は見逃さなかった。

「子ども扱いされて、嫌だと思ったかな?」

 と感じたが、すぐに表情がニコやかになり、

「うん、いいわよ。連れってって」

 というではないか。

 その楽しそうな表情に助けられた気がした渡良瀬は、はるかの前に立って、歩き始めた。時間的には、そろそろ昼ごはんの時間だったので、

「どうする? 先にご飯にいく?」

 と聞いてみると、

「うん、どこかで食べてもいいよ。でも、そうすると、遊園地の時間なくなっちゃうよ? どこか遊園地以外のところに行くなら、お食事に行こうかしら?」

 と、はるかが言った。

「うん、そうだね、別に遊園地にこだわる必要はないからね。じゃあ、何が食べたい?」

 と聞くと、

「パスタのおいしいお店、この間、お友達に聞いたんだけど、行ってみる?」

 というので、

「うん、いいよ、一緒に行こう」

 というと、はるかはますます嬉しそうな顔をして、目が輝いているように見えた。

 はるかが案内してくれた店は、待ち合わせた駅から、徒歩で15分くらいのところにあり、少し街はずれの、住宅街に近いところに位置したお店だった。

 それだけに、高級感を感じさせたが、

「中学生、それも一年生が、よくこんなところを知っているな」

 と感心させられた。

 レンガで作られたその店は、ビジネス街から離れていることもあり、スーツ姿の人はほとんどいなかった。店に入ると、八割がた席は埋まっていたが、窓際の席が一つ空いていたので、はるかは迷うことなく、その席に座った。

 表からの明かりと、表はレンガ造りだが、店内は白が基調になっているようで、明るさが眩しいほどだった。パスタおお店というよりも、フレンチのお店といってもいいくらいに思えたのだ。

 はるかは、結構落ち着いていて、まるで何度か来たことがあるかのような佇まいに見えた。

「はるかちゃんは、こういうお店によく来るの?」

 と聞いてみると、

「うん、頼子お姉ちゃんが時々連れてきてくれるの」

「じゃあ、ゆかりお姉ちゃんも一緒なの?」

「ううん、私だけの時が多いのよ。頼子お姉ちゃんが自分から誘う時というのは、三人一緒ということはあまりないの。三人一緒の時というのは、親もセットということが多いかしら?」

 といって、ニコッと笑った。

「と、いうことは、頼子は、姉妹のうちのどちらかに、何かを確認したいと思う時に誘うのだろうか?」

 と思い、聞いてみたいという衝動に駆られたが、必要以上に聞いてみようとは思わなかった。

 おそらくは、教えてはくれないだろうと思うからだった。

「このお店は初めてなのかい?」

「うん、初めてきた。友達が親と来たことがあるというのを聞いていたので、私も一度は来てみたいと思っていたの。でも、家族全員で来るという雰囲気ではないということだったので、来るとすれば、頼子姉ちゃんとかな? と思っていたのよ」

「そっか、来てみたいと思っていたお店に行く相手として、僕を選んでくれてありがとう。嬉しいよ」

 と渡良瀬がいうと、

「そんな……」

 といって、あからさまに照れていた。

 これは、演技というよりも、自分の心を見透かされたくないけど、正直嬉しいということを知らせたいという気持ちの表れな気がした。少し自惚れかも知れないが、渡良瀬は、自分が天ケ瀬三姉妹とは、三姉妹すべてに対しても、三人三洋、それぞれに対しても特別な関係なのではないかと思っているのだった。

 そんな感情があるから、彼女たちの一挙手一投足を見逃せない気がしたのだった。

 さっきまで、

「この間まで小学生だった」

 とはるかに対して感じていたということを忘れてしまっているほどに、このお店にはるかは似合っているようだ。

 今日初めておめかしをしてきてくれたのであれば、素直に嬉しいし、もしはるかが自分のことを好きだと思ってくれているのだとすれば、その気持ちを壊したくもないと思った。

 ただこれが、恋愛感情なのかと言われると微妙な気はするが、さっきまでゆかりとデートをするつもりだった自分の豹変ぶりに、我ながら驚かされるほどだった。

 パスタランチが二種類あり、

「それぞれ別々のものを取って、シェアして食べるっていうのは、どうかしら?」

 と、はるかの提案だった。

「それいいね。ひょっとすると、天ケ瀬家では、そういう食事の仕方もあるということかな?」

「ご名答。これ、結構頼子姉ちゃんが好きなやり方なの。私たち妹も、お姉ちゃんの意見に賛成で、よくこうやってシェアして食べていたものよ」

 と、はるかがいうので、

「この姉妹は、どういうお店が好きなんだろうな?」

 と思った。

「店を決めるのは、頼子なのか、それとも、妹たちに決めさせるのか。どちらなのか?」

 ということを、渡良瀬は感じていた。

 それにしても、この明るい店の感じは、最近では久しぶりな気がしていて、それをこの間まで小学生だった女の子に教えてもらうなどとは思ってもみなかった。高校二年生にもなって、デートの一つもしたことがない自分を、恥ずかしく感じてしまう、渡良瀬だったのだ。

「はるかちゃんは、デートとかしたことあるの_」

 と聞くと、

「いいえ、ないわよ。だって、最初にデートする相手は最初から決めていたんだもん」

「えっ? じゃあ、僕でよかったのかい?」

「バカねぇ。お兄ちゃんに決まっているじゃない」

 というはるかを見て、ニコリと笑った渡良瀬だったが、当然、それくらいのことは渡良瀬にも分かっていた。

 分かっていて、

「もう一回言ってみて」

 というのと同じ感覚で、もう一度言わせて、

「これは夢ではないんだ?」

 と、思わせようという魂胆と同じだった。

「そういうお兄ちゃんはどうなのよ。デートとかしたことがあるの?」

 と聞かれて、

「いいや、ないよ」

 と平静を装いながら答えた。

 当然相手が聞いてくるのは想定内のことだったからだ。

「お兄ちゃんだったら、いっぱいデートができる人くらいいるでしょう?」

 と言われて少し戸惑った。

 たぶん、社交辞令なのは分かっているが、渡良瀬としては、天ケ瀬三姉妹からは、社交辞令を言われたくなかったからだ。だが、

「社交辞令が言えるほど、はるかちゃんは成長したんだ」

 と思うと、まんざらでもない気がしてきた。

 成長して、どんどん自分に近づいてきてくれるのは嬉しいが、

「子供のままでいい」

 という感覚でいるのも、間違いのない感覚だった。

 ただ、

「自分だったら、いっぱいデートしたかも知れない」

 と思われていたとすれば、その誤解は一刻も早く解きたい。

 勘違いされたまま、デートをするというのは、結構きついものだからだ。

「お兄ちゃんは、どういう女性が好みなの?」

 と聞かれて、

「おいおい、ませたことを聞くなよ」

 と言いたいのだが、正直いうと、今目の前にいるはるかのような女の子が好みであった。

 しかし、いつも三姉妹で一緒にいることが多かったり、それぞれに気を遣ったりすることで、ハッキリとは言えなかった。

 三人が三人ともかわいいと思うが、その中でと言われると、はるかではなかったか。

 頼子がはるかくらいの時は、自分も同い年で、頼子に対しては、

「しっかりもののお姉さん」

 という印象が深く、恋愛感情どころではなかった。

 何よりも、その頃にはまだ、異性に対しての感情が芽生えていなかったのだから、それも当然のことであっただろう。

 では、ゆかりの時はどうだっただろう?

 自分は、中学三年生になっていた。その頃はやはり受験勉強で必死になっていて、しかも、ちょうど自分にも異性への意識が芽生えてきていた時だったことで、逆に、遠くを見るような癖がついてしまって、いつもそばにいたゆかりを意識することもなかったのだ。

 ゆかりが苛められている時、助けてあげるという、そういう役を引き受けてしまうと、余計に、女性として見てしまってはいけないのだという、ヒーローの掟のようなものを感じてしまって、それは、恋愛感情にもまして強いものだという自覚があった。

 今回のはるかに関しては、今まで子供としてしか見ていなかった相手が、急に大人びてきたところを、肌で感じた相手だということだ。年の差はあるが、あるといっても、四つほどではないか。今はまだ憧れのようなものかも知れないが、これから大人になっていこうとしているはるかを見つめていきたいという思いがあるのも事実で、

「好かれたいな」

 と感じた思いは、はるかに対してが一番強かったように感じるのだった。

 ひょっとすると、

「慕われたい」

 という思いが強いからなのかも知れない。

 この思いはゆかりにも感じていた。ゆかりだけに感じていた思いだったといってもいいかも知れない。

「慕いたい」

 という思いを時分は、頼子に感じている。

 この思いと同じ感覚を、ゆかりもはるかも感じてくれているのだろうか?

 だとすると、ゆかりに対してはそれでいいと思うのだが、はるかに対しては、

「少し寂しい」

 と感じる。

 なぜなら、自分が頼子に感じている思いには、恋愛感情がないということだからである。だから、はるかが慕ってくれているという思いの中には、恋愛感情は含まれていないとするならば、今の渡良瀬の感情はどこにしまい込めばいいのかが分からなくなってしまう。

「やはり、俺は、はるかのことを好きになってしまったのだろうか?」

 ということであったが、さっきまで何とも思っていなかったのに、こんなに急に気持ちが高ぶってくるというのは、実に恋愛感情というものが恐ろしいということだと感じた。

 ここまで考えた時、ふと、

「頼子は、俺のことをどう思ってくれているのだろう?」

 今までにまったく感じたことがなかったというのは、語弊があるが、それほど重要なことだとは思っていなかった。

 ただのクラスメイトであり、家族ぐるみで中がいいというだけだった。家族ぐるみで仲がいいという中で、年齢も含めて一番近しいところにいるということである頼子に対して、「自分から恋愛感情を持ってはいけないのだ」

 と思うようになった。

 それは、頼子が渡良瀬のことをどう考えているかということを度返しにしてのことである。

「ということは、俺は頼子のことを慕いたいと思っていながら、彼女のことを正面から見ていなかったということなのか?」

 と急に頼子に対して気の毒に感じられるようになった。

 だが、本当は気の毒だなどと思ってはいけない。思ってしまうと、自分の気持ちがわがままであったということを認めてしまうことになるからだ。

 そして、今そのことを思い出してしまうと、はるかも、

「自分のことしか考えていないのではないか?」

 と思えてくるからだ。

 しかし、それは無理もないことだ。なんといっても、この間までは小学生、まだ子供だったではないか。

 大人になるということがどういうことなのか、渡良瀬本人でも分からないというのに、まだ中学一年生のはるかに分かるはずなどないに違いない。

「今まで頼子のことを好きになったことがなかっただろうか?」

 というのを思い出していた。

 頼子とは結構一緒にいることが多かったが、その時に感じたのは、

「やたら、姉妹のことを口にする女の子だな」

 ということであった。

 渡良瀬は一人っ子だったので、三姉妹というのが羨ましく、さらに、新鮮に感じていた。

「三兄弟というのもまわりにはいないが、三姉妹がこんな身近にいるなんて」

 という思いからだった。

 頼子とは、小学三年の頃からよく遊んでいたが、その頃はゆかりは一年生になったところで、はるかは、保育園だっただろうか?

 その頃ははるかのことは、どちらかというと眼中になかった。まだ物心がついていない頃だったので、それも当然のことだろう。

 その小学三年生の頃から、よく妹たちのことを話していた。さらに、

「あっ、今日ははるかちゃんの子守りをしないといけないだった」

 といって、思い出したように、こちらにかまうことなく、急いで家に帰っていくこともあった。

 渡良瀬はそんな頼子の後姿をいつも見送っていた。その時に、彼女のことを、

「頼もしい」

 と感じ、妹が羨ましく感じたほどだった。

 理由は子供には分からなかったが、たぶん、その頃から、

「癒されたい」

 と感じたからではないだろうか。

 そんな毎日が忙しい頼子は、よく渡良瀬に愚痴っていた。

「渡良瀬君はいいよね。子守なんかしなくてもいいんだから」

 というではないか。

 それまで、羨ましいとは思ったが、そういえば、そういう煩わしいことをしなくてもいい自分がよかったとは思った記憶がなかったからだ。

「そっか、頼子は、俺のことを羨ましいと思っていたんだ」

 と感じた。

 自分も姉妹兄弟がいる人を羨ましいとは思っていたが、リアルに仕事があってきついということはないだけに、

「自分よりも頼子の方が切実なんだろうな」

 と感じた。

 ただ、今は、渡良瀬にも、姉妹兄弟のことが何となくだが分かる気がした。

 これは、渡良瀬が中学に入って頃に母親から聞かされた話だったが、

「お前には、お兄ちゃんが本当はいたんだよ」

 という衝撃的な事実を聞かされた。

「お兄ちゃんって、今までそんな話、一度も聞いたことがなかったけど?」

「実はね。これはお父さんも知っている話なんだけど、お母さんがお父さんとお付き合いをする前にお付き合いをしている人がいて、その人との間に、子供ができたの。お母さんも、その人も結婚するつもりでいたんだけど、その子をね、流産しちゃってね。それからその男の人、少し変わってきてね。どうやらお母さんのせいで子供が死んだって思っていたようなの。だから、それから二人の間はぎくしゃくしちゃってね。結局、結婚せずに、別れてしまったということなの」

「じゃあ、その男の人は、お母さんよりも、子供に方がよかったということなんだろうか?」

「一概にはどうだとは言えないと思うけど、お母さんも悩んじゃってね。もう、子供はおとか、男性を好きになるなんて思わないようにしようと思ったのよ」

「でも、お父さんと結婚したんでしょう?」

「うん、私が妊娠していることからお父さんは私のことを知っていてくれてね、いつも励ましてくれていたの。でも、私が流産して、、自棄になりかかっていた頃に、お父さんだけがずっとお母さんのそばについてくれていたのよ。それが嬉しいという気持ちと、申し訳ないという気持ちと、さらには、放っておいてほしいという気持ちとが交錯してね。自分でもどうしていいのか分からなくなったのよ」

「お母さんは寂しかったのかな?」

 と聞くと、

「きっとそうだったんだって思う。皆腫れ物に触るように気を遣ってくれるんだけど、それは、自分が、壊したって言われたくないからで、それを責めるつもりはないわ。でも、お父さんのように、それでも寄り添ってくれようとする人の存在は、決して犯すようなものではない。だから、次第にお母さんもお父さんを頼るようになり、慕うようになっていったのね。あの頃のお父さんには、感謝以上、感謝以下の何物でもないわ」

 と、いうのだった。

「でも、感謝ばっかりなの?」

「うん、その時は感謝しかなかった。でもね。そのうちに、私がちょっとキレちゃって、もう放っておいてって自棄になったのね」

「それで」

「お父さんは、必死で私の肩を揺すりながら、お前のそばにはこの俺がいるって言ってくれたの。それが嬉しくてね。セリフはべたなんだけど、それだけに気持ちが通じるというのかな? べたなセリフを口にしても、白々しさなどがない。そんな人って、慕いたくなるものでしょう?」

 といって、ニコニコしていた。

「お母さんはどうして、今この話をしてくれたんだい?」

 と聞くと、

「前から言いたかったんだけど、お前が大人になりかかっているということに気づいた時にしようと思ったのよ。こういう話をしても、分かってくれなければ意味がないと思ったからね。きっとお前なら、お兄さんがいたことを知っても、ショックを受けたりしないと思ったんだけど、それまでの話が理解できないかも知れないと思ってね」

 と言われて考えてみると。

「確かに、お兄さんの存在を受け入れることはできても、大人の世界のことは理解ができないかも知れないな」

 と感じた。

「大人の世界って、どこからが大人の世界なのかって、お前にはまだ分からないだろう?」

 と言われて、

「うん、分からない」

 と答えると、

「お母さんもそうさ。一度はこの時が大人への入り口だって感じる時が必ずあるようなんだけど、それが、本当の入り口ではないと感じることもあるようなのよ。それがどのような感情なのかって、難しいところなんだけどね」

 と、母親はいうのだった。

「それはまるで、年輪のようなものじゃないのかな?」

 と感じたのだ。

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