第14話

 一か月半が経った。葬式から帰ってきた岡田を待っていたのは、有給休暇を取っている間に残されていた自分の仕事だった。たくさんのメモ書きとコピー用紙に印刷された資料が自分のデスクの上に残されており、これらを一つ一つ処理するところから岡田の仕事が再開した。平日は仕事をこなし、休日はスマートフォンで動画を見たり、パソコンでゲームをしたり、惰眠をむさぼったりするという淡々としたものだった。溜まった疲れも相変わらず取れない。自炊する気力も起きず、キッチンの隅に置かれたごみ袋に毎日毎日、少しずつカップラーメンの容器が溜まっていくことも相変わらず同じだった。


 自分の部屋も変わりなく、給料も特に変化することもない。ただ変わったことは大学時代の旧友が一人亡くなったという事実だけだった。岡田は変わらず、会社と自宅の往復をひたすらに繰り返した。ただしばしば通勤中や夜寝る前に、大阪の青空と通天閣と焼香の臭いを思い出すことがあった。葬祭場に飾られた立川の写真も、同時に浮かんできた。


 そんな休日の午前中、岡田が惰眠をむさぼっていると宅急便に起こされた。ネットショッピングをした覚えもないので誰からだろうと思いながら荷物を受け取った。

 差出人は立川の遺族からだった。中を開けると、将棋盤と将棋の駒が入っており、手紙が同封されていた。手紙にはこの将棋盤と駒は生前彼が家で使っていた駒であること、大学卒業後も暇な時間に駒を触って詰将棋を楽しんでいたこと、機会があれば将棋サークルの人たちとまた将棋を指したいと話していたことなどが書かれていた。


 手紙を閉じた岡田はビニールで丁寧に包まれた盤と駒を取り出して一つずつ並べた。中央に置かれたちゃぶ台の上に一つずつ、作法にのっとって駒を並べていく。立川の駒は使い込まれていて、少し角が取れていた。木製の盤は、駒を並べるたびに小気味よい音が聞こえてくる。


 立川と将棋を指したことを、もう一度思い出した。大学の部室や小林の家、旅行に行ったときも将棋を指した。小林や高村とも将棋を指した。大学での生活はほとんど、将棋サークルで日々を過ごしていたことを思い出した。


 駒を並べ終わる。81マスの上に整然と並べられている自陣の駒はこれから始まる戦を待ち望んでいるかのようだった。


 立川はよく、並べられた駒を見て新しい玩具を買ってもらった子供のような目をしていたことを思い出した。今から将棋ができることを純粋に楽しもうとしていた。参加した市民大会での入賞がかかるような緊張する一戦でも、そうやってほぐれた状態のまま、自分のやりたい将棋をのびのびと指していたことを岡田は思い出した。


 岡田は、7六歩と指した。角の道を開ける、将棋の初手では最も一般的な手の一つだ。岡田はそのまま手を伸ばして敵陣の歩を動かし、3四歩と指した。立川との将棋はこの形から将棋が始まっていた。


 ここからどうなるんだろうと岡田は思った。角道を止めて飛車を振っても面白いし、角交換を仕掛けても面白い。試しに、振り飛車にしたら立川はどうするかなと思った。彼はよく飛車を合わせるのが好きだった。だから自分が好んで指す四間飛車という戦法を使えば、彼は右四間飛車を使って合わせてくる。岡田は、そのまま慣れた手つきで手を進めていく。お互いに玉将を囲って、銀を前に出して相手を攻める体制を整える。そして岡田の一手でお互いの準備が整った。この局面は立川が今後の方針を決めなければならない場面だ。そうでなければじりじりと岡田が有利になる盤面だった。


 しかし、岡田は立川が次に指すだろうという一手を思いつくことができなかった。敵陣から虎視眈々とこちらを睨んでいる角を使うこともできる。一度跳ねた桂馬で強引に仕掛けてしまうこともできるだろう。もちろん飛車先の歩を突いて交換してからじっくり進めても良い。逆により深く玉を固めてしまうこともできる。ここからがいよいよ開戦し、局面は序盤から中盤へと移っていく。展開によっては難解になる、非常に繊細な場面だ。


「おい、どうするんだよ」


 岡田はそう呟いた。こればかりは聞いてみないと分からない。ここから先、立川が攻めて岡田が守る展開になるのもその逆も、またお互いに攻め合う乱暴な展開になるのも、立川次第だった。彼の選択が無ければ、ここから先の将棋を進めることはできない。もう岡田は、立川がどのような手を指してくるのか想像することはできなかった。空いた窓から十一月の冷たい東京の北風が、岡田の狭いアパートの中に吹き込んだ。


「どうするんだよ」


 もう一度呟いたが、盤上の駒は動かない。ちゃぶ台の上に並べられた駒は動きを失っていて、この後どのように進んでいけばよいかは全く分からなくなってしまっている。


 岡田はひと呼吸おいてから、将棋盤をちゃぶ台の上に置いたまま、台所に行って水を一杯飲んだ。引っ越してから来客は一度もなく、台所の周りは荒れ放題になっている。シンクの中に置かれた食器は一日前のものだ。


 水を飲み干して、汚くなったシンクの中を見渡した。皿はところどころ汚れがこびりついてしまい取り除くのにかなり手間がかかるだろう。


 とりあえず、これを片付けなければならないと思った。さぼっていた通院も再開しなければならない。床に落ちたまま数日ほったらかしになっているプラスチックのごみも何とかしなければならない。


 岡田は蛇口の栓をひねって水を出し、シンクの中の皿を一つ左手で持って、右手にスポンジを持った。そして、水を流しながら擦り始めた。

水道水が少し冷たくなっていると感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

81 四宮 式 @YotsumiyaS

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ