第二章 孤蓬万里
第9話
通夜は淡々と進んでいった。檀家の僧侶がお経を読み上げ、順番に焼香を済ませていく。読経は一時間もせずに終わり、喪主である立川の父親による挨拶が始まった。
若くして急死したから、遺言のようなものは特に残っていない。ただ彼はお調子者の癖に大勢の前に上がると緊張してしまう面があるから、きっとこの葬式も自分のためにわざわざ集まってくれて申し訳ないとか、そういうことを考えているのかもしれない。だから装飾品は彼らしくシンプルなものにしたのだと、父親が涙ながらに話していた。
挨拶が終わり、遺族や親戚が食事をする部屋に向かってから岡田は少しだけ会場に残った。だんだんと向こうの方へ流れていく人だかりと棺を見比べた。下手な話かもしれないが、なんとなく立川も人だかりについていきたがっているような気がした。
食事の会場には名札だけが用意されていて、指定された席に着いた。小林、高村の三人と席についておとなしくしていると、
「はじめまして、来ていただきありがとうございました」
という声がした。振り返ると初老の女性がいた。おそらく立川の母親だろう。
「この度はご愁傷様です」
小林が皆を代表して返答を出した。
「息子はよく大学の友達であなたたちの名前を出していました。とてもよい友人でいてくれたと思っています。息子はとても将棋を指すような性格ではありませんでしたが、おじいさんに教わって気に入ったようで……、よい対局の相手でもあったのでしょうね」
「こちらこそ、彼に迷惑をかけてばかりでした」
「いえいえ、そんな……息子は本当に大学が毎日楽しそうで……あなた方のような友人がいてくれたからだと思います、本当にありがとう」
小林は返答に窮した。息子に先立たれた母親に話しかける言葉が思いつくほうが珍しいだろう。母親は、今日は彼のことを思い出してやってくださいと話すと、隣の席の挨拶へと移っていった。
「……」
母親が去った後、一同はしばらくの間黙ってしまった。彼女とは初対面だったが、それでも憔悴しきった顔を見れば心中察して余りあるといった状態であることは言うまでもなかった。遺族はやることが多い。葬儀の段取りだけではなく各種行政手続きを済ませ、訃報を各所に送り、通夜も葬式も客人をもてなし続けなければならないからだ。それを行っている間に自分の心の整理もある程度済ませなければならない。
岡田はここまで考えて、思考をするのを止めた。これ以上考えてしまうと、胸のあたりからどろどろとしたようなものが出てきてしまい、どう表現したらよいか分からない靄に身体と感情を支配されてしまうからだ。
ほかの二人もひたすらに沈黙していたが、料理が運ばれてきてすぐにやり取りが始まった。料理を厨房から運ぶ人間の数が明らかに足りていない。ごく自然と客は皿やビール瓶を各々に分けることに協力的になっていた。岡田も箸を右側にやってほしいと隣の高村に要望を出したり小林から料理の大皿を受け取ったりしている間に、身体の内側に溜まった靄が少しだけ晴れたような気がした。
やがて料理が配られて献杯の挨拶が始まり、各々食事が始まった。
小林と高村が席に着く。立川はビールというよりはチューハイが好きな人間で、よく飲むときはレモンサワーを好んでいた。彼も食事にと言うことで棺が運ばれてきており、無言ではあるが同席することになる。
少し酒が入れば、いやおうなしにでも口は開きやすくなるものだと思う。お互いの近況の話は既にある程度してしまったから、次第に話題はそれぞれに広がっていった。
「そういえば、この前の竜王戦の棋譜は見たか?立川が見たら飛び上がるような手が出たぞ」
小林から、話題になっていた対局の話が出た。
「見た見た。あんな手、参考にもならないよ。あんな発想が出るって絶対俺たちじゃあり得ないからな」
二人の話を聞きながら、岡田は彼らが未だにプロ将棋界を追っていることを初めて知った。岡田は卒業してからまもなく、そのようなことをしなくなってしまった。大学にいる頃はプロ将棋の話が通じる相手がたくさんいた。しかし社会人になってそういった趣味の人間が全くいなくなり、いつしか自分も追うのを止めてしまった。
サークル内では、よくプロ将棋界のことが話題になった。だれだれがまた勝ったとか、応援している棋士がタイトル戦に出られそうでやきもきしているとか、そういったマニアックな話題で部室内が満ちることも珍しくなかった。
岡田たちは大学の頃酒ばかり飲んでいたと先に述べたが、将棋に対して真面目な要素もしっかりと残していた。バタバタしつつも全員が四年で卒業できたし、将棋サークルで大会があるときには真面目に将棋を指すこともあった。
一年と二年の間は、基本的に三年の先輩が大学同士の公式戦に出ることになっていたから、自分たちが出れるのは地域で行われている大会だった。だから時折大会を見定めて、それに向けて四人で将棋の練習をして出ることにしていた。
「それで、お前だったら次はどう指す?」
ある日、岡田と小林は大会に向けて普段は行わない勝負が終わった後の感想戦を行っていた。このような真面目な声が部室内に響き渡るのも珍しい。三年の先輩は就活前の最後の大会に向けて、近くで将棋を指している。部室内全体が少しぴりついた雰囲気になっており、高村もさすがに近くでゲームをやる気にはならなかった。
「ん~、俺はやっぱりここは守りたいな」
小林はそう話しながら、盤の中央あたりの金を一つ後ろに下げた。小林は堅実な棋風で、攻めるより守ることを好む傾向にある。折角手に入れた強い駒を攻めに使わず躊躇いなく玉を固めるために使うから、攻め好きの高村がしばしば驚いて声を出すほどだ。
「まあ、お前ならそうだよな」
岡田はそれに同意した。将棋友達になって半年もたてば、なんとなく相手の指したい手が分かってくるものである。特に岡田、立川、小林、高村はいつも将棋を指していたから、次第にお互い、次に何が来るのかがある程度分かるようになっていた。
「ただ、この辺りなにかないかな」
そのまま岡田は続ける。考えていた場面はお互いの駒がぶつかり合った中盤で、様々な駒の効きが複雑に絡み合っていて多様な変化が想定される。
「確かにね、まあそういう場面だよね」
横から感想戦を見守っていた高村が口を出した。攻め好きの高村にとって、この局面は自分から動き出す絶好のチャンスである。攻めの糸口を見つけるのが得意な彼は、これまで何度も不利な状況を攻めることで覆している。とはいえ、その高村も攻め方が思いつくというわけでもなかった。
「ここから飛車を動かすのは?」
もう一人、見物していた立川が提案した。立川は攻めも守りもどっちつかずな印象を与えていたが、高段者でも見えないような読みを見せることがよくあった。それがきっかけとなり、よく岡田も辛酸をなめさせられた。
「それだとこれで対応されるよ」
ただ、今日はそれが発揮されることはなかった。それほど難解な局面ということである。
「う~ん」
岡田は考え込んでしまった。先ほどの小林との一戦は、どちらからも攻めることができなさそうな局面から展開が進んでいき、守りの薄い岡田の玉が先に詰まされる格好となった。
「やっぱりこうなる前に何とかしないといけなかったのかなぁ」
もしこの局面で岡田が攻め切れない場合、お互いの玉の固さで勝敗が決まってしまう。この日は結局あと20分くらい考えたが岡田の良い攻め手が見つからず、そのまま感想戦は終わってしまうこととなった。
ただ、こうした努力によって四人の棋力はある程度上達していった。大会で目標とする成績をそれぞれが取れるようになっていき、大会の日の夜は祝い酒を酌み交わすことができるようになっていった。
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