第8話

 ふと、岡田は我に返った。隣の席に座った高村が焼香の為に起立したのだ。それですぐに自分の番が来ることに気が付いた。立川は四人の中でも誰よりも酒を飲める人間だったが、泥酔して粗相をしたところを誰も見たことがなかった。家族にも酒好きの印象が伝わっているのか、いつも飲んでいたチューハイの缶が供え物として台の上に乗せられている。


 焼香の列に並びながら、岡田は遺影の手前に置かれた品物を眺めた。台の上には立川が生前使っていたと思われるサッカーボールや本人が気に入ってた野球チームの帽子が飾られていた。


(そういえばあいつ、タイガースが好きだったな)


 といったことを思い出しながら岡田は焼香の列を待った。会場には相変わらず遺族のすすり泣く声と服がこすれる音、そして僧侶の読経が響き渡っている。岡田はもちろん、読経の言葉も意味もよく分からない。ただそれでも立派な服を着ている僧侶が木魚に合わせて経を読み上げているそれを聞いていると、なんとなく意味がありそうな気がしてくる。そのことに岡田は少しだけ嫌気がさした。


 自分の番になり、岡田は香をつまみ、額に持ってきた後にわずかに火が燃えている炭の上に落とした。これを三度繰り返す。そして顔を上げると、間抜けなほどに天真爛漫とした立川の遺影と目が合った。


 それを見て、岡田はしばし沈黙した。遺影の下、焼香台のすぐ先に棺が置かれていて、その中には立川が入っている。数秒、岡田は白木のそれを見つめたのち、振り返って自分の席に戻ろうとした。


 その間、展示されている将棋盤と駒が目に入った。あの駒は岡田も触ったことがある。立川の私物だった。


 立川の将棋の駒と盤は、彼の家に遊びに行ったときに彼の家に置かれていた。死んだ祖父から受け継いだものだという彼の駒と盤はいつも、酒を飲みながら当時の持ち主である立川によって使われていた。立川の家は大学から少々距離があって小林の家よりは不便なのだが、彼の家の近くには安くて味も悪くない洋食屋があった。だからその店に行きたくなったときは、立川の家に泊まって次の日にそのまま大学に通うことになっていた。


 もちろん、大体は酒を飲んで二日酔いとなる。軋む身体を引き摺って何とか大学まで出てきても、授業に出る気力がないこともある。そんな時は大体、部室に行くのが慣例となっていた。


 部室は、自由だった。将棋サークルといっても、その活動内容を一括りにしてしまうことはできない。大学によって空気感が異なっており、有名な私大のサークルで100人程度が在籍する大規模なところになると、サークル内で定期的にリーグ戦が行われ、そこでの優秀者が全国大会につながる地区の大学対抗の団体戦に出場することができる。つまり、ルールが明確に定められているのである。ところが、岡田たちが在籍している大学はそうでなく、将棋部というよりは将棋愛好会に近い形だった。サークル内リーグ戦もなければ、希望者がいなければ団体戦に出場することもない。将棋に打ち込むかは完全に個人の自由となっていた。


 こんな状態だから、部室は荒れ放題になっている。狭い部室の中でもしっかりと将棋盤と駒が用意されているのだが、それ以外にもバックギャモン、トランプ、麻雀、チェスといった将棋に比較的近いゲームのほかに、テレビとゲーム機が用意されていた。他にもカップラーメンを作るための電気ケトル、誰かが持ち込んだと思われる有名な少年漫画の単行本一式、果てはアニメのイラスト集までが置かれていた。


 部室内にこのようなものが所狭しと並べられているのだから、当然部室内は汚い。掃除当番など決められているはずもなく、部屋の隅には埃が溜め置かれていた。綺麗に整えられているものは将棋盤と駒だけだと言い切ってもよいくらいである。


 中でも高村は部室を家のように扱っていた。部室に行くととりあえずいる人間が高村で、高村はいつ講義にいっているんだろう、という話がサークル内でされるほどだった。ある日、講義がたまたま休講になった岡村が部室に行くと高村がいた。高村は持ち込んだゲーム機でゲームをプレイしていた。


「よお、授業は?」


 高村はゲーム機に目を向けたまま、


「ん?今日は休んでもいい日」


 と言い放った。どうやら高村は出席日数を計算したうえで、休める日まで休んでいるとのことだった。高村の成績はどの講義ももう少しで落第、というところまで計算されているようなすれすれの場所を低空飛行していて、良い成績を取って就活に有利になろうとか、優秀者として支援金を得ようといったことはまるで考えていなかった。岡田はこうした光景を見ると部室はきらめく大学の影に残った、大都会のビルとビルの間をネズミが這う路地裏のような陰鬱とした空気を感じ取らざるを得なかった。


 しかし、高村も人間である。ここまで堕落すると少しの授業は単位を落としても大丈夫だろう、という気分になってくるものである。授業に行くことを渋る高村を講義室まで引きずっていくことは岡田と立川の仕事になった。


 ただ今日に限っては岡田本人が授業を飛ぶ(講義をさぼることをこう呼ぶことが多い)から、他人のことをとやかく言うことができない。なぜか部室にはソファーまで置かれているから、疲れたときにはそこで休むことができる。朝の10時頃ということもあって、ドアを開けると部室には誰もいなかった。


 そのままソファーに寝転んでスマホを広げる。真面目な小林は今日も授業に出たらしい。岡田もそうしたいが、重い身体がソファーから離れることを拒んでしまっていた。そのまま泥のように眠ってしまい、目が覚めると数人の部員が部室にいて将棋を指していた。狭い部室の窓からは西日が差し込んでいる。


「あ、起きた起きた、大丈夫かよ」


 後輩と将棋を指していた小林が岡田の方を向いてそう言った。手元の時計を見ると15時となっている。頭痛はかなり引いてきたから、少しはまともになったようだった。


「なんとか」


 岡田はそのまま起きだして、小林の盤面を見つめた。


「授業、出席取ってきておいたからな」


 そう小林が言う。


「マジで、助かる」


 岡田はそう返したが、喉の調子が今一つ上がらない。昨日に痛飲したことが原因になっているかもしれない。岡田の記憶が正しければ、その日は結局授業にはいかず、なぜ大学まで足を運んだのか分からない結果を得て家に帰ることとなった。頭痛が酷く、将棋など指せる状態ではなかったため、部室では寝てばかりだったと記憶している。

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