第4話 趣味の小説

「人間至上主義」

 というものを考えていると、前述の時間軸で動いていると、その現在が次第に、打ち寄せる波に似ているということに触れ、その後に、

「神の存在意義」

 にまで言及したが、これを宇宙に置き換えることもできる。

「宇宙というものの限界を知るには、どうすればいいのか?」

 という発想があるが、それを証明するのが、

「遠くにある星を研究することだ」

 という。

 これは何が根拠なのか分からないが、二十世紀に入って研究されたことの中に、

「ビックバンという大爆発によって、今の宇宙が出来上がった」

 という説である。

 このビックバンが起こったのは、今から138憶年前だという。

 ということになれば、少しずつ宇宙は膨張しているといっても、その138憶年前に光が地球に到達していたとすれば、少なくとも、138憶光年のところに宇宙が存在していたということになる。それが証明されると、

「宇宙が無限かも知れない」

 という可能性も出てくるわけで、逆に証明されなければ、宇宙には限界があり、ビックバンという発想をそこからどう考えるかということに発展できるのではないかということである。

 ただ、

「宇宙の外にも、別の宇宙が存在しているのではないか?」

 という考え方もあり、それが、さらに、

「宇宙が多重に存在している」

 などという考えに至れば、果てという概念が最初からなかったかのようにも思えるのではないか。

 この考え方が、

「至上主義」

 ということをからきているかも知れないと思うと、面白い。

 至上主義を正当化するために、ここでも、神に近い何かを創造しているのではないだろうか?

 星座にそもそも、地球上の神話を連想したのも、地球を中心に宇宙が動いているということへの証明のようではないか。

 ということは、昔にもガリレオが考えたかのような地動説があり、昔は昔で、その説の存在すら、永久に抹殺するようなことがあったのではないだろうか。

 そのことを、中世の学者や政治家は知っていて、地動説を唱えるガリレオの存在が邪魔になり投獄したのではないかという考えは乱暴であろうか?

 やはり、古代にあった天動説を正当化させるために、神は作られた。あくまでも、人間至上主義のためであり、さらに奴隷や差別を正当化させるために、神が存在したとすれば、神話は完全に神話の域を出ないことになる。

 ローマ神話には、ギリシャ神話と同じようなものがあり、それをいかにも違うものとして扱っている。

 それは、それぞれの民族に、

「民族至上主義」

 が存在し、神をその正当性に使うことは、どこの国もやっていることで、それを正当化させるため、自分たちだけの解釈であったかのように、民衆に教え込ませる必要があることから、地域ごとに少しずつ内容が違っている。

 日本にだって、似たような話が無数に残っていて、最終的に同じもののような形で中世に編纂されたのが、

「おとぎ草子」

 である。

 そういう意味で、童話、寓話と呼ばれるものは、ヨーロッパを中心にいくつも残っていて、それぞれに似た話があるではないか。

「見てはいけない」

 などという、

「見るなのタブー」

 も、どこの国のおとぎ話には残っているというのが、一つの証拠ではないだろうか。

 多重に存在する宇宙で、

「生物が存在する星」

 というものがあるのかということを調べているのが、天文学者であるが、今の科学では、せめて火星に到達できるかどうかというくらいにしか、科学は発展していない。

 遠くを見ることはできても、実際に行くことができないのだから、理論的にも解明できないことがかなりあるに違いない。

 ただ、想像だけはできるというものだ。

「宇宙の外にも宇宙がある」

 ということで、草壁は、その宇宙にも、生命が存在していると思っている。

 もちろん、証明もできないので、本当だとも、ウソだとも断定できないことなので、想像することは自由である。そんなことなので、草壁は、実際の研究とは別に、趣味の世界ではあるが、高校生の頃から小説を書いていた。

 それは、フィクションであり、ジャンルとしては、SFはもちろんのこと、ミステリーからホラーまで、いろいろ網羅したものであった。

 もちろん、論文も別に発表をしていて、そっちらが本職なのだが、大学時代に入ると、小説の方も、出版社が注目するようになっていた。

 最初は趣味として書いていたので、誰にも言わなかったが、研究員の同期の人間に喋ってしまったことで、

「せっかく書いたんだから、新人賞にでも応募してみればいい。どうせダメだとしても、応募するのは、どうせただなんだから、気楽な気持ちで応募すればいいだけじゃないか」

 と言われた。

「それもそうですね」

 と気楽な気持ちで応募すると、なんと、受賞にまでこぎつけたのだ。

 その話は、ミステリーで、科学に関係のある言葉をふんだんに使った話だったのが、

「こんな作品、なかなかない」

 ということで、受賞となった。

 しかも、受賞者が、大学でも有望な科学者のタマゴだということで、物理学界の方でも有名になった。

 図らずも、

「どちらかを選ばなければいけない」

 ということになり、最初からの目標であった学者を目指すことにして、小説は今まで通り、趣味で書くということになったのだ。

 ただ、編集長も簡単には諦められないらしく、

「できればでいいので、できた作品を我々に見せてくれることができるのであれば、教えてほしい。できればまた本にしたいと思うような内容であれば、本にしたいと思うんだ」

 と言ってくれた。

 普通ならこんなことはない。

 受賞しても、次回作への期待というプレッシャーに押しつぶされて、次回作が書けずに、受賞作だけで終わる作家が山ほどいる。そこで諦めることができるのなら、それでいいのだろうが、そうもいかないのが、小説家を目指す人たちなのだ。

 そんな人たちは、一応、作品を書いては持ち込んで見てもらったり、アイデアを企画として提出し、何とか、再起しようと頑張るだろう。しかも、そんな人たちも山ほどいるのだ。

「一日に何人がデビューするというのか?」

 ということであり、一日に何冊新刊として出るかということを考えれば、本屋が減ってきている昨今、砂漠で金を探すがごとくのような出版の可能性に辿り着いたとしても、誰が買うというのかである。

「本屋の並べるのは、スタートライン。売れなければ、並べた分、すべてが返品だ」

 ということだ。

 マンガだって、ものすごい数が出版されている。その数の多さは、ネットカフェにいけば分かるだろう。あれだけたくさんの本棚に、漏れなくマンガが並んでいて、同じ本は二冊とあるわけではない。それを思えば、マンガも出版はされても、本屋に並んでいるのは一部だ。しかも、時間が経てば、ベストセラーでもない限り、すぐに他の本に取って変わられる。ベストセラーであっても、どれくらいの間。本屋に並んでいるというのか、半年? 数か月、下手をすればひと月で終わるものもあるのではないか?

 特に今は、ネット書籍が主となり、本屋自体が少なくなっている。ネット書籍ともなれば、話題に乗らなければ、見ようとすら思わないだろう。それを思うと、出版界が氷河期で絶滅危惧業界だということも頷けるというものだ。

 小説は、ミステリーから、SF、ホラー、さらには恋愛ものへとチャレンジしていったが、なかなか納得のいく小説は書けなかった。

 小説を書くには、自分の中で納得のいくものがいいのだろうが、そんな小説を簡単に書くことができるわけもなく、なるべくたくさん書ければいいという感覚で書いていた。

 最初は軽い気持ちで、

「書けたらいいよな」

 と、趣味のつもりで書こうと思った。

 小説を書くのが難しいのは分かっていたが、趣味でなら何とかなるだろうと思っていた。別に小説家になりたいなどと思っていたわけでもない。自分の将来は、学者のイメージしか頭の中に浮かばなかったからだ、

 小説を書くのも学者になるうえでの、鍛錬のようなものだと思っていた。論文を書かなければいけないので、文章力もつけなければいけないだろうし、発想力も身につけなければいけないと思ったからだった。

 だが、実際に書いてみると、なかなか筆が進まない。考えれば考えるほど、先に進んでくれないのだ。

 元々、いきなり書き始める方で、アイデアが一つでもあれば、それを目指して書くという程度しか思っていなかった。

 プロットなどという言葉も知らなかったし、最初から、

「小説の書き方」

 などという、本屋に売られているハウツー本を読もうというつもりはなかった。

「読むとすれば、まずは書けるようになってからかな?」

 と思っていた。

 なぜそう思ったのかは、最初は分からなかったが、書けるようになってからは、

「答え合わせ」

 に近いイメージなので、実際に書けるようになって見てみると、

「やっぱり答え合わせだ」

 と思いながら読んでみた。

 書けるようになるまでで自分の目指していたものと、さほど大きな差はなかった。ただ、この差というのも、きっと個人差があるだろう。草薙にとってのこの差は、自分の中の誤差の範囲だったのだ。

 論文を書いていると、いつも考えているのは、

「誤差の範囲」

 であった。

 論文というと、自分が考えていることと、実際に研究で得られた結果とを、どこまで近づけられるかということが大切であった。誤差の範囲とは言えないことでも、何とか文章でごまかせる部分もあり、一種のニュートラル部分といってもいいだろう。

 ニュートラル部分があることで、論文に厚みが増し、言い訳が次第に学説に代わってくる。だから、論文は長くなるものなのだと、草薙は考えた。

 しかし、小説の場合は、書き始めはそんなニュートラルな部分を描くのが難しかった。論文よりもはるかにニュートラルな部分が多いと思われるのが小説で、いきなり結論を導き出してしまう書き方もあるのだろうが、その分、そのあとのニュートラルな部分で、いかに、内容に膨らみを持たせるかというところが難しいのだった。

 最後の最後まで結論を見せない小説が、基本的には多いと思っている草薙は、

「俺は意外と、オーソドックスな書き方しかできないのかも知れないなあ」

 と思うようになった。

 ただ、いつも論文を書いているので、論文が小説の作法の中でも、オーソドックスなものだと思っていたことで、

「意外と」

 という言葉は適切ではないような気がしてきた。

 小説というものは、

「最初に結論をいうのではなく、徐々に結論に結びつけていくのが、オーソドックスなものだ」

 と思っていたはずなのに、論文では、最初に結論めいたことを書いて、そこから結論に向けての証明を書いていく手法がオーソドックスだと思っていた。

 それは、自分の中での矛盾のはずなのに、小説を書いていて、

「論文を書いている時の自分とは違う自分がいる」

 ということから、オーソドックスという意味の感覚を勘違いしていたのかも知れない。

 小説を書いている時は、とにかく、その世界に入り込んでしまうことが必要だった。

 なぜなら、考えてしまうと、筆が進まなくなるからで、小説の世界に入り込んでしまうと、書きながら、先を見据えることができるので、筆が休むことはないのだ。筆が休むという言い方をしたが、小説はパソコンで書くので、手書きとは違う。最初は、

「パソコンなんかで書けるのか?」

 と疑問だったが、実際に書いてみると、本当に先を見据えて書けるようになっていたのだ。

「まるで、一分くらい先に、自分がいて、それを見ている自分が文章を連ねていくだけのようだ」

 と思うと、

「これが集中力のたまものだ」

 と感じてきた。

 集中していると、ものすごく早く書けているような気がする。あっという間に、自分が書こうと思っていたところまで書けたことで、

「俺って天才?」

 とまで、最初はうぬぼれてしまったが、実際は、

「二十分くらいしか経っていないような気がしたが、実際には一時間以上も経っていたんだ」

 と感じた。

 つまりは、一時間なら普通くらいの量しか書いていないのに、それを二十分で書けたと思っているのだから、三倍のスピードで書けたと思う。ただ、この勘違いは嫌な気持ちの勘違いではない。それだけ、時間の感覚がマヒするほど、集中していたということになるのだと思ったからだ。

 しかも、時間を実際よりも短く感じるのだから、書いていて、やりがいを感じることができる集中度なのだろう。

 そう思うようになると、それまでは、小説を最後まで書けなかった自分が、曲がりなりにも書けるようになった。

 そもそも、最後まで書けなかった一番の理由は、

「集中することができていなかったからだ」

 と思っていたからで、集中して書いているということを自覚できるようになると、小説を最後まで書けるようになった。

 それはやはり、筆を休めないで、頭についてこさせようということができるようになったからであろう。

 曲がりなりにも最後まで書けるようになって、やっとハウツー本を読んでみると、そこには、

「とにかく、最後まで書きあげることが、第一段階では必要なことだ」

 と書かれていた。

 まさしく自分の考えと、完全に一致している。

 それを思うと、小説を書きあげることが、自分にとっての正解であったということが嬉しかった。

 これは、小説だけに限らず、研究や論文にも言えることで、書きあげることは、

「決して諦めない」

 という、研究に対しての自分の姿勢と同じことだと考えていた。

 小説に関しては、まだずぶの素人であるが、研究に関しては、すでにプロだという意識を持って臨まなければいけないと思うようになっていた。

 そこが、実益と趣味の違いである。

 小説を書けるようになると、どこまでできるようになると満足するのかというのを感が合えてみたが、

「おそらく、満足なんかできないんだろうな」

 と思うのだった。

 満足できないというよりも、満足したくないと思っているのかも知れない。満足してしまうと、そこで終わりだと思ったからだ。

 研究であれば、満足が行っても、次が待っている。何しろ研究は自分の生活の糧であり、やめるわけにはいかない大切なことだという意識があるからだった。

 だが、大学生の頃は、小説を書く方が、自分にとっては、難しいことであった。

 その理由の一つに、

「自分で満足をしてはいけない」

 という課題があったからだ。

「満足をしてしまってはいけないが、その時々で、満足に匹敵するような喜びを感じないといけない」

 と思った。

 満足してしまうと、小説家への道も考えなければいけなくなり、研究者としての道とを天秤に架けなければいけなくなる。それは、自分にとって、十字架を背負ってしまうことになる気がしていたのだ。

「あくまで、お、小説は本にすることができたとしても、趣味の世界でしかない」

 と思っていた。

 今のところ、新人賞を受賞して、その作品だけが出版化されていて、他の新人賞受賞者が、次回作で苦しんでいるのと同じような気持になっていたが、草薙としては、

「これからもずっと続けていかなければいけない職ではない」

 と思っていた。

 ここから先は趣味であってもいいのだから、出版社に縛られることなく、書きたいものを書いていくだけだと思っていて、そのことは出版社の自分を担当してくれている編集者にも話していた。

 しかし、出版社としては、

「売れる小説」

 というものを追い求めている。

 確かに小説が素晴らしいものでなければ、論外であるが、同じようなレベルの作品を二人の作者が書いてきたとすると、作品に甲乙がつけられないとすれば、出版社が選ぶのは、

「作家の知名度」

 である。

 これは、人から聞いた話だが、その人も一度受賞経験のある人だったが、

「受賞前に、他の出版社に原稿を持ち込んだ時、俺の作品を、共同出版で出さないかと絶えず言ってきた人がいたんだ」

 というのは、当時、

「自費出版社系」

 という新しいやり方が出版界に出てきた。

 とにかく原稿を送れば、評価して、出版のパターンを提案してくれるというものだ。

 協力出版とは、

「出版社と著者がそれぞれお金を出し合って、本を出す」

 というやり方で、画期的だといわれた。

 しかし、ほとんどが共同出版で、皆は、出版社が普通に認めてくれて、全額出してくれる企画出版を目指して書いているのだが、中には協力出版で妥協し、編集者の口車に乗って、お金を出してしまう人が多かった。

 それだけ、出版社に信頼を置いていたのだろうが、すぐに化けの皮が剥がれ、最後には訴訟問題から倒産、という最悪の形を描いていったのだった。

 その知り合いは、協力出版を何度も言われていて、そのうちに担当者がキレたのだという。

「今までは私の権限であなたの作品を編集会議に図って何とか、協力出版で皆を納得させた」

 という、いかにも胡散臭いことをいうではないか。

 最初は、

「あなたの作品は、新人賞を受賞する人の作品よりも出来上がっている」

 などとおだてておいてである。

 しかも、

「俺様の権限で」

 などというところが、いかにも上から目線で、胡散臭さ満載である。

 そして、こちらが、

「それでも、自分は企画出版を目指す」

 というと、完全に相手は本音をぶちまけたという。

「企画出版などというのは、百パーセントありえない。もし、出版社が企画出版をすることができるとすれば、それは、知名度の高い人、つまりは、芸能人か、犯罪者でしかないんだ」

 というではないか。

 その人はそれを聞いて、いきなり電話を切ったという。

 その出版社は、最後には生き残ったが、他の出版社は皆潰れて行った。これは業界の噂だが、その出版社が、訴訟を起こした他の出版社から本を出した連中に、自分の会社がやっているようなことを、もちろん、自分の会社はやっていないと言って、内情をぶちまけて、訴訟になるように裏で動いていたという話があるくらいだった。

 ウソか本当か分からないが、限りなく本当に近いといってもいいだろう。

 それまでは、

「本を出したいと思っている人が、こんなにもいたのか?」

 と思っていたが、これらの事件で、ことごとく出版社が潰れていったことで、結局昔からの夢だったという人しか残っていない。

 要するに、そんなブームに引っかかった連中も連中だと、言ってもいいだろう。小説を書きたいと思うようになったのは、バブルが弾けて、残業もなくなり、時間を趣味に使う人が増えたことで、このような悪徳出版社が台頭してくることになったのだ。

 そういう意味で、他の趣味を考えていた人たちも、これと似たような被害にあった趣味もあったのではないかと思うのだった。

 何となく、この業界が胡散臭いことは、草薙には分かっていたが、ここまで、自分以外の人が嵌ってしまうとは思ってもみなかった。確かに今までにないコンセプトで、原稿を持っている人間には優しく見える。実にうまいやり方だった。

 昔であれば、小説家になりたい、あるいは原稿を書いたとすれば、小説家になりたいなどと考える人は、有名出版社が応募している文学賞か、新人賞に応募して入選するか、あるいは、持ち込み原稿を直接持って行って、見てもらうかくらいしかなかった。郵送というのもあったかも知れないが、遠距離でもない限りは失礼にあたるということで、ほとんどは持ち込んで、直接編集者の人に手渡しというのが、普通だろう。

 ただ、以前は、新人賞や文学賞といっても、実に少ないもので、出版社系であれば、年間数件あればいい方だっただろう。今のように、毎月数件の応募があったりはしない。今では同じ出版社が、ジャンルごとに応募しているくらいだからである。

 昔は小説家発掘というよりも、ご当地のイベントの一環として原稿を募集するというのは今も昔も変わらないが、それに入賞したからと言って、小説家の道が開けるわけでもなく、スタートラインにも立てていないといってもいいだろう。

 さらに、持ち込みともなるともっとひどい。

 会ってもらえるだけ、まだマシだといってもいいのかも知れないが、会ってもらったとしても、持って行った原稿は、握りしめたまま、ごみ箱へポイである。

 これこそ考えれば分かるというもので、編集者の人は、自分の担当の作家の相手だけで大変なのだ。編集長ともなると、もっと忙しいだろう。

 そんな毎日を過ごしているのに、毎日のように持ち込む原稿の相手をするなど、できるはずもない。

「会うだけマシだ」

 ということだ。

 最初は、そんな状態だなどと、作家志望の人は知らなかっただろうが。そのうちに、出版社の

「仕打ち」

 が分かってくると、誰も持ち込みなどしなくなる。

 小説家になりたいという人が少し減ってきたところで、時代はバブルが弾け、趣味やサブカルチャーに力を入れようとする人が増えてきた。

 ただ、小説家になりたいと思っている人は結構いるのだろうが、なかなかそういうサークルもほとんどない。小説家を目指す人の講座などは、高い月謝を払って、講師といっても、

「売れない作家」

 などが講師になる程度で、習ったとしても、

「そんなもの、ハウツー本を見れば書いてあることばかりだ」

 と、まるでお金をドブにでも捨てたような気がしていたことだろう。

 そんな時、新聞や雑誌、電車の中吊り広告などに、

「本を出しませんか? 原稿を募集します」

 などという広告が書いてあれば、小説家になりたいと少しでも思っている人は飛びつくことだろう。

「原稿を持っている人はそのまま送っていただいて、アイデアや途中まで書いている人には、完成までうちのスタッフがお手伝いいたします」

 と言われれば、原稿を持っている人は、こぞって送るだろう、

 しかも、送った原稿に対して、批評を書いて送り返してくれる。それも褒めているだけではなく、批評するところはしっかりと書いているのだ。まず、批評が入り、そこから、褒めまくってくるのだから、感想を読んだ人は、まるで自分が天才にでもなったかのような錯覚に陥ることだろう。

「出版社というと、原稿を送っても、すぐにゴミ箱行きだ」

 と思っていた人には、ここまでの批評をしてくれただけでもありがたい。しかも、褒めてばかりではないところが、

「ちゃんと読み込んでくれたんだ」

 ということで、信ぴょう性がある。

 何しろ、出版社というと、

「持ち込み原稿は、すぐにゴミ箱行きだ」

 と分かっていただけに、信用してもいいのではないかと思うのだ。

「俺はこのまま小説を書いていていいんだ」

 と思えただけでも、よかったと思うであろう。

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