第3話 至上主義

 この宇宙の中に、パラレルワールドが存在するとすれば、その範囲はどこまでなのだろうか?

 人間が認識できるだけの範囲に存在していると考えるのはおかしなことなのかも知れないが、それをパラレルワールドだとすれば、ありえないことではない。つまりは、パラレルワールドの世界でも、こちらと同じ人間がいるのと同じで、科学の発展レベルも同じで、人間が発見するのと同じように宇宙の神秘を解明していっているという、まるで鏡のような世界ではないかということである。

 もし、そう考えるのであれば、こちらが向こうの世界を知ることができないだけで、向こうはこちらの存在を分かっていて、ただ、こちらの影響を加味して、こちらにやってこないだけなのかも知れない。

 なぜなら、こちらに進行してしまい、こちらを変えてしまうと、自分たちもただでは済まないという考え方だ。それは、

「タイムマシンの発想」

 と同じで、

「もし、過去に行けたとして、過去の世界を変えてしまうと、未来まで変わってしまう。つまり、過去に行って過去を変えてしまってから、また未来に戻ろうとすると、戻った世界はまったく違う世界になっていて、戻る世界がなくなってしまった」

 などということがありえるということである。

 まだ、未来が変わってしまうだけならいいが(いや、決していいわけではないが)、下手をすれば、変えてしまった瞬間に、自分が消えてなくなるかも知れないという考えである。

 ただ、この場合は、いわゆる、

「タイムパラソックスになるのか?」

 ということが考えられる。

「タイムパラドックス」

 と呼ばれるものの場合は、自分が過去に行って、過去を変えることで、

「自分が生まれてこない」

 という発想である。

 その場合は、

「生まれてこないのだから、タイムマシンで過去に行くことはないので、過去を変えることもできないので、自分が生まれてくる。生まれてくれば、タイムマシンに乗って……」

 と、無限の矛盾ループを繰り返すことになるのだが、タイムマシンに乗って過去を変えた後に消えてしまったというのであれば、少しパターンが変わってくる。

 なぜなら、過去に行った自分が消えたわけだから、自分が生まれることに、直接影響があったのかどうか分からない。

 いや、むしろ、

「生まれてきたことが証明された」

 と言ってもいいだろう。

 なぜなら、過去に行って過去を変えたことで、自分の存在が消えてしまったのだから、自分は、少なくともタイムマシンに乗って過去に来たということは証明されたのと同じである。それなのに、自分が消えてしまったということは、過去を変えて、変わったというのは自分のことだけといえるのではないか。

 このタイムパラドックスというものが、本当はありえないということの証明として、パラレルワールドが考えられているということでもあった。

 つまり、

「タイムマシンで行き着いた先というのはパラレルワールドであり、そこで何を変えようとも、こちらの世界には何も影響を与えるわけではない」

 というものである。だから、もし、自分が消えてなくなったとすれば、それは、パラレルワールドへの道は本当はタブーであり、そのタブーを破ってしまったその人に、何かとてつもない大きな力が働いて、この世でも、パラレルワールドでもない、普通なら行くことのできない世界に行ってしまったということなのだろうか?

 タイムマシンと思っているものに乗って、パラレルワールドに来てしまうと、元の世界に戻ることはできなくなり、まったく違う次元に彷徨いこむとも考えられる。

 何かの大きな力によるものか、それとも、戻ることができないにも関わらず、パラレルワールドに来てしまったことが、その人にとっての運命として、我々が理解できる範囲から消えてしまったということになるのか。その前に、パラレルワールドに行けたということを前提の話ではある。

 つまり、タイムパラドックスの解決法として、パラレルワールドというものの存在があるという考えであるが、逆にタイムパラドックスが存在している以上、パラレルワールドの存在もこの考え方で、かなりの信ぴょう性を上げたのではないだろうか。

 宇宙空間において、

「実際には宇宙空間というものが楕円ではないか?」

 という説があるといわれているが、細かい宇宙では、楕円形をしていることからそう感じるのかも知れない。

 銀河を代表とする、

「星雲」

 と呼ばれるものは、楕円形をしているからである。

 ただ、相対性理論や、実際の時間軸というものを図にした時に考えると、時間軸が、まるで電波の波のように、上下に蛇行しながら、永遠に続いている形、これは、病院の手術中に見ている機械の中で脳波を見ている機械に類似しているものだが、

「時空を飛び越える」

 というものが、その頂点から頂点に飛ぶことによって、ワープが完成し、光を超える速度で飛ぶことができると考えられている。

 それによって、できた歪が、矛盾を起こし、時間がついてこれないことで、

「光速を超えて時空を飛び越えた時、普通の速度で暮らしている人間に比べて、時間がたつのが遅くなる」

 というのが、相対性理論というものであるが、これを中学時代の草壁は、

「慣性の法則のように、動いている電車の中で飛び上がった時、電車の中に降り立つというような現象の証明になるのではないか?」

 と考えたのだった。

 理屈としては、実は当たり前のことで、電車の中で飛び上がっているのだから、その飛び上がった時に、自分もすでに電車と一緒に動いているわけだから、

「揺られながら、空に向かって飛んだのと同じことなので、助走して飛び上がったのと同じ、一種のトリガーのようなものだ」

 と考えれば、納得がいくことなのだろうが、最初から、それを

「当たり前のことだ」

 と考えると、相対性理論はおろか、慣性の法則すら理解することはできないだろう。

 力が一方向だけに作用しているわけではないところがミソであるが、そう考えると、パラレルワールドの存在も、それに対しての、タイムパラドックスという考え方。さらに、総他愛性理論と、慣性の法則を結びつけるという考え方も、決して無理なことではないような気がしてきた。

 パラレルワールドというものが存在し、それが宇宙のどこかにあるのだとすれば、こちらからは、決してパラレルワールドの存在を創造することはできても、証明することはできない。

 なぜなら、パラレルワールドというのは、決して見ることができないもので、観測は不可能だということになれば、その存在を否定することも、肯定することもできないのだ。

 もし、できるとすれば、向こうの世界からこちらの世界にやってきた、パラレルワールドの住人がいて、その人の存在を証明できれば、パラレルワールドを証明できるに違いないのだが、まず無理ではないか。

 ここで、

「パラレルワールドの人間が、こちらにやってくる」

 という仮説を立てたとすれば、彼らがこちらの世界をどこまで熟知できているのか分からないが、少なくとも、

「もう一人の自分のところに現れるであろう」

 と考えられるのではないだろうか。

 そう考えた時、

「おや?」

 と頭の中で、一つのことが思い浮かぶのであるが、その発想が、

「ドッペルゲンガー」

 というものであった。

 ドッペルゲンガーというのは、

「世の中には自分に似た人間が三人はいるという」

 という、

「酷似した人間」

 ではなく、あくまでも、

「もう一人の自分の存在」

 ということである。

 そこで、

「ドッペルゲンガーというのは、パラレルワールドからやってきたもう一人の自分ではないか?」

 という発想である。

 あくまでも、似た人間ということではなく、本人そのものということであり、しかも、それが、同じ世界のという但し書きがついていないことで、パラレルワールドの人間だと考えると、これも、まさか、パラレルワールドが、タイムパラドックスの証明と考えられているのと同じように、

「パラレルワールドは、ドッペルゲンガーの証明だ」

 と考えるのは、無理もないことだが、そう考えると、

「パラレルワールドという考え方は、この世に存在しているさまざまな都市伝説であったり、科学では解明できないことを証明するための創造物だ」

 と思うことも無理のないことに思えた。

 そもそも、ドッペルゲンガーというものは、都市伝説的な話が多い。

 たとえば、言われていることとして、

「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来、死んでしまう」

 ということであった。

 しかも、歴史上の有名人、著名人が、ドッペルゲンガーを見たということで、それからすぐに亡くなってしまったという事例が数多く残されている。しかも、縁もゆかりもなく、時代も場所もさまざまな人間がである。

 もっとも、現代に近い人が、自殺をするつもりで、最初から死を計画していて、最後にさらに名を残そうとして、ドッペルゲンガーを捏造したといえなくもないが、

「果たして複数の人間が、そんな心境になれるのだろうか?」

 ということである。

 ただ、逆の発想として、

「人間というのは、死を前にした時、皆あの世に導かれるようにして、今まであれば、見えもしないものを見たり、想像するのだとすれば、それが妄想となって、皆同じ心境になるのかも知れない」

 とも言えないだろうか。

 ドッペルゲンガーを実際に見る見ないは別にして、心境としてみたような気がすることから、他の人には見えない、

「死を目前にしたことで見える鏡」

 のような媒体が存在しているとすれば、それをドッペルゲンガーだと考えたとしても、無理もないことだろう。

 しかし。もっと言えば、ドッペルゲンガーを見たといわれる著名人のエピソードを聞いていると、皆、ハッキリとドッペルゲンガーを見たと言っている人はいない。

「自分を見た」

 という人はいたようだが、それによって、その人がドッペルゲンガーを逸話を知っていたとしても、普通であれば、

「そんなの迷信だ」

 と思うことだろう。

 だとすれば、普通なら、そんな不吉なことを自分から口に出すことはしないはずだ。そんなことを口にしたから、命を失うことになったといって、あの世で悔やみたくはないと思うだろう。

 そう思うと、ドッペルゲンガーというものが、普通の人の精神にもたらす影響と、これから死んでいく人間に与える影響にかなりの差があるとすれば、ひょっとすると、ドッペルゲンガーを意識したことで、その人が死を初めて意識することになったのかも知れない。

 存在だけが、人の死に影響をもたらすのだとすれば、本当にドッペルゲンガーというものが存在する必要はないのかも知れない。

 必要なものは、自分を映す鏡という媒体であり、その媒体が本人にしか見えないことが重要なのだ。

 そう考えると、ドッペルゲンガーの存在よりも、パラレルワールドが存在していて、そちらの人間が、こちらの人間の死に何かしらの影響をもたらしていると考えた方がいいのではないだろうか?

 ちなみにドッペルゲンガーというものの特徴として、いくつかある中で。

「決して言葉を発しない」

「この世界での本人の行動範囲以外には現れることは決してない」

 という点においてだけでも、それなりに。信ぴょう性のあることではないだろうか。

 鏡であること、そして、その鏡が映しているのが、自分なのか、それとも、パラレルワールドの自分なのかということである。

 ドッペルゲンガーと呼ばれているものが、パラレルワールドにおける個人であると考えると、いろいろ納得できることもあったりするのではないだろうか。少なくとも、鏡という発想は、媒体としてはありえることではないだろうか?

 そんなことを考えていると、もう一つの考えが浮かんでくる。

「パラレルワールドという世界は、本当の世界ではなく、虚偽の世界だ」

 というものであり、そこには、

「パラレルワールドが、魂だけの世界ではないか?」

 という考えに至ったからだ。

 これはあくまでも、

「本人至上主義の発展形」

 とでもいうべきかも知れないが、要するに、

「こちらの世界が本当の世界であり、パラレルワールドという、科学では証明できないことを解決してくれるトリガーとしての世界を作り出すための、虚像の世界だ」

 という発想である。

 そもそも、この発想がどこから来たのかというと、死後の世界の発想からだ。

 死後の世界というのは、いろいろな発想があるだろうが、言われていることとして、人は死んだら、魂が身体から離れて、どこかの世界。いわゆるあの世に行ってしまうという話である。

 魂が肉体から離れることで、

「魂は死なない」

 ということになり、逆に、

「形あるものは、必ず滅びる」

 という、

「諸行無常」

 という発想が生まれてくるのだ。

 つまり、

「人間は決して死ぬものではなく、魂となって別の世界にいくというもので、形あるものが滅びた後は、この世の中の循環にしたがって、土に返るということで、そこから、人間は土から生まれた」

 という発想も成り立つのではないかと思うのだった。

 生物に限らず、いわゆる有機物というのは、滅びても形を変えるだけで、そこから違うものに生まれ変わるという発想である。

 では、人間をはじめとした生き物はどうだろう?

 死んでしまって、魂だけになると、いわゆるあの世にいくのだろうか? そして、あの世で再生の機会を待つことになる。しかも、生まれ変わるとしても、何に生まれ変わるというのか。

 同じ人間に生まれ変わるのか、それとも、今度は植物になるというのか。そんなことを考えていると、今自分が、考えることのできる人間に生まれて、そして生きているということは奇跡のようなものだといえるのではないかと思うと、同じくらいの可能性として、

「同じ宇宙に、人間と同等か、あるいは、それ以上の生物が生存している可能性があるのではないか」

 という発想も可能ではないかと思った。

 もっというと、

「人間に限らず、どこかに生物が存在している可能性は、自分が死んだら、何になるか分からないが、生まれ変われる可能性に近いのではないか?」

 と考えるのも、無理のないことのように思うのだった。

 ただ、これも、地球という世界を、

「至上主義だ」

 と考えるからで、死んでからいく、あの世が、その次の世界と考えるから、

「あの世は魂だけの世界だ」

 と考えたとしても、無理はないといえるのだろう。

 これは、人間が生まれながらに持っている感覚なのか、それとも、育ってきた環境や教育の中で学習したことで備わっていくことなのだろうか?

 考えられるとすれば、持って生まれたものだという方が、かなりの信ぴょう性が高い。なぜなら、生きていく環境は人によって違っている。人間は、生まれてくることを自由に選べないのだから、当然のことである。

 せっかく生まれてきたのに、あっという間に死んでしまう人もいれば、世の中で何をなすわけでもなく、ただ、寿命を全うするというだけの人もいる。

 人の死に、善悪という考えがあるのかどうか分からないが、どうしても勝手な発想になってくるのだった。

 そんな、

「至上主義」

 という考え方であるが、個人という考えではなく、

「時間軸」

 という考えで、物事を見てみると、いろいろと面白いものが見えてくる。

 例えば、時間というものが決まった感覚で動いていると考えると、

「過去があって、現在がある。そしてさらには未来が広がっているのだが、今の現在が過去になり、一番近い未来が現在になる」

 ということなのだが、それをたとえとして、

「打ち寄せる波のようだ」

 と考えることはできないだろうか?

 目の前に見えているものが、波に攫われて、波打ち際までもってこられる。しかし、そのうち返しによって、また沖に流されそうになると、またしても波が襲ってきて、波打ち際に持ってこられる。その繰り返しなのだが、至上主義というものを現在ということに限っていうと、過去や未来は、生きていくうえで、直接は関係してこない。もちろん、次に判断が必要なことであれば、過去を思い出して、未来に対しての選択を最善にしようと考えることだろう。

 しかし、普通の人はそれを無意識にできるのだ。それが、人間の本能であり、その本能を証明するものとして、前述の、

「フレーム問題」

 が、関わってくるのではないだろうか。

 フレーム問題を、人工知能は解決できないが、人間は無意識のうちに考えることができる。それを、本能であったり、遺伝子による伝承されたものだと考えることもできるが、これを、

「前世からの記憶によるものだ」

 と考えるのは危険なことであろうか?

 ここには、

「人間至上主義」

 というのがあるからで、

「人間だけが、思考能力を持っていて、頭で考えて判断することができる」

 と思うからだった。

 逆に、本能と遺伝子によるものだといえるのは、人間に対してではなく、他の動物に対してのことだ。

 人間にそう思ったのは、あくまでも、人間も他の動物と同じ、動物という括りで考えているからであって、基本的に人間というのは、

「考えて行動できる唯一の高等動物だ」

 といえるからではないだろうか。

 それがいわゆる、

「人間至上主義」

 であり、この考え方を正当化させるために、

「人間は、神を創造した」

 といえるのではないだろうか。

 つまりは、

「人間が、他の動物よりも偉く、選ばれた生物であることから、他の動物を支配したり、同じ人間をまるで家畜のように支配することのできる世界を肯定するために生まれた発想だ」

 ということになれば、それこそ、

「ニワトリが先かタマゴが先か」

 という、禅問答のような言葉が出てくるのである。

 何しろ神話では、

「神が人間を作った」

 と語られているのであって、

「人間が神を作った」

 などという発想は出てこない。

 この発想は、一石二鳥のような二段論法であり、

「人間が神を作ったという発想を打ち消すことで、人間には他の動物、同じ人間でも支配階級と支配される階級に分けることができる」

 という発想に正当性を与えるもので、なぜなら、

「人間というものは、他の動物と違って、生きるために仕方がないという理由以外の、自分の利害だけを持って、平気で人を殺すことができるからである。神によって、その力が認められてないと、できない発想である」

 それを、

「生殺与奪の権利」

 というのである。

 そんな論理は、自分たちよりも偉い存在がなければ、正当化はできないだろう。つまりは、人間至上主義に対しての矛盾である。

 そのために、作られたのが神だとすれば、ギリシャ神話のように、

「オリンポスの神ほど、人間臭い存在はない」

 といってもいいのではないだろうか?

 だからこそ、神を創造する必要があったと考えると、そこに潜んでいるものが、

「人間至上主義」

 だといえるだろう。

 これは人間だけではなく、支配階級にいる者であれば、誰もが至上主義になり、生殺与奪であろうが、支配者としてであろうが、権利を持っていれば行使したくなるのは当たり前のことである。

 人間至上主義という言葉の定義として、

「農業革命の際に、宗教 (神と契約すること)によって 他の動物を支配することを正当化するようになり、人間中心的思想が台頭した」

 という発想があるようだ。

 これは、支配する側が人間であったというだけのことで、他の動物であっても、同じことであろう。

 しかし、他の動物は、同一の種族同士で支配しあうだろうか? 人間だから人間を支配できるのである。それは、神というものを自分たちの支配する言い訳に使えるからだといえるだろう。

 ただ、他の動物ということになると、なかなか解釈が難しいところがある。

 たとえば、犬で考えた場合であるが、

「犬というものを、一括りで考えた時に、支配するのがドーベルマンという種類であった場合、他の種類の、たとえば、シェパードなどという犬は支配される側ということになるのだろうか?」

 ということである。

 つまりは、犬の中にも種族がいて、その間で、支配する側、される側と別れているとすれば、人間も、人種によって差別を受け、先進国の人種と、後進国の人種、あるいは、戦争によって、勝者側と敗者側に分かれることで、支配は確立するということになる。

 それは、人間の場合は、同じ民族であっても、同じ国家であっても、主義が違えば実際にあることだ。粛清などという言葉の下に、支配階級にとってふさわしくない思想を掲げる連中は、容赦なく粛清する。それこそが、人間の人間たるゆえんだといえるであろう。

 そういう意味で、人間至上主義というのは、

「人間が一番偉い」

 というわけではなく、人間の中にも、差別や階級が存在し、支配したりされたりすることが存在する。それこそ、最小単位は個人でしかない。

 実際に殺しあわなくとも、一般企業や、団体が出来上がれば、そこに統制する側される側が存在する。そうしないと、秩序を保つことができず、社会を回していくことができないからだ。

 そのためには、少々であれば、理不尽なこともしょうがないといわれる。

「大勢のために、少数派は切り捨てる」

 という民主主義の考えが台頭してくるわけだ。

 それが貧富の差を呼び、自由がゆえに、リスクも大きいということで、生まれた社会主義であったが、社会主義も結局は秩序を保つためには、支配階級による、

「恐怖政治」

 が存在し、それが独裁者を生むという結果に結びついてくるのだった。

 どちらも一長一短はあるのだろうが、どうして、

「いいとこどり」

 ができないかというと、結局は支配する側のエゴで世の中が動いているというわけだ。

 神様を創造しないと、自分たちの至上主義を証明することができないということが、それこそ証明している世界ではないだろうか。

「人間至上主義」

 それこそが、ひょっとすると、神だけではなく、宇宙というものを創造し、ありもしないものをでっち上げたというのは、大げさだろうか。

 ただ、

「ありもしないこと」

 というのは、真実という意味で、事実という意味ではないということを、ここで記しておくことにしよう。

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