第2話 パラレルワールド
草壁少年が思い描いていたパラレルワールドというのは、まず、パラレルという言葉から、
「まるで末広がりのようなものだ」
という発想であった。
掌に扇子を持ち、能か狂言で踊っている演者が、パッと一気に扇子を開くところをイメージし、
「瞬時に広がる無限の世界」
というものを思い浮かべたのだ。
そこに。
「ワールド」
という言葉を想像した時、無限の世界という言葉の被りから、
「可能性」
という言葉を見出した。
つまりは、
「瞬時に広がる、無限の可能性」
それこそが、パラレルワールドというものだと考えていた。
確かに、時間軸というものは、現在を中心に、時間の経過とともに、時を刻みながら、少しずつ進んでいくということになると、時を刻んだ瞬間に、現在は過去になってしまい、今まで直近の未来だったものが、現在となるのである。これを目の前の未来を考えた時、そこには無限の可能性が広がっていることに気づいたのだ。
「可能性が無限にあることで、次の瞬間、自分に何が起こるのか、想像がつかない。ある程度までは絞ることができても、絞った中での可能性だって、無限にあるのだ」
と思ったのだ。
これは、その頃には知らなかったが、後で知ることになる、
「フレーム問題」
というものと密接に絡んでいるのである。
これは、ロボットの研究開発を行っている人たちにとっては常識的な考え方なのかも知れないが、一般の人間には馴染みのない言葉である。
というのも、
「人間は、確かに次に起こることを無意識にある程度まで絞って考えるので、予測しながら、次の行動を無意識に行うことができる」
と言われている。
しかしロボットに搭載される人工知能に、その、
「無意識の意識」
を埋め込むことは不可能なのだ。
というのは。あまりにも可能性が無限にあるからで、人間であれば、
「まったく関係のないことは考えなくてもいい」
ということが分かるので、考えないで済むのだが、ロボット、人工知能には分からない。
では、無限に広がっている可能性の中から、
「必要な部分だけを抜き出せばいい」
という考えが生まれた。
一つの枠に当てはめて考えることから、それを、
「フレーム」
と呼んで考えようとしたのだが、よく考えてみると、数学的な問題として、分数を考えた時、分子が無限であれば、分母をいくつにしても、得られる答えは無限でしかないのだ。
ということは、どんなにフレーム化しても、考えなければならない可能性は無限にあるということで、一切の解決には至っていないということである。
だが、命あるもの。つまり、人間をはじめとした生物は、それらの可能性を無意識に捉えることができ、生存できている。それが、本能というもののなせる業なのか、遺伝子によって受け継がれてきたものなのか、ハッキリとは分からないが、それだけ、人工知能との間に致命的な距離があるということで、これが、
「人工知能を持ったロボットを作ることができない」
という最大の理由なのではないだろうか。
自分で判断を必要としないロボットであればできるのかも知れないが、ロボット同士の意思疎通や、人間に忖度するようなロボットは開発できないのが、必定といえるだろう。次の瞬間に広がる可能性が無限であるということの証明でもあるのだ。
そんな目の前にある、
「巨大な壁」
いや、
「巨大な結界」
といえる世界が広がっているそんな状態のことを、草壁は、
「パラレルワールドだ」
と思っていたのだ。
「もし、あれがパラレルワールドではないとするならば、あの世界のことを何といえばいいのだろうか?」
と思って、いろいろ調べてみたが、言葉としては出てこなかった。
ということは、
「科学の世界では、あの状態のことを、一つの過程として、認識してないということなのか?」
と、考えたが、そうではないような気がする。もっと他のまわりを巻き込んだことが、一つの大きな状態として認識されていて、一つ一つの細かい状況を、いちいち名前を付けて分離しているわけではないともいえる。
というよりも、この関係は、
「切っても切り離せないものだ」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、今度は、実際に言われているパラレルワールドの存在が気になってきたのだった。
「パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指しており、並行世界、並行宇宙、並行時空とも呼ばれているもので、SFの世界でのみならず、理論物理学の世界でもその存在の可能性について語られている」
という風に定義されているパラレルワールドで、一番に考えることとして、
「時空というものがどういうものなのか?」
というものであった。
時空というものと、草薙少年の中で似たような存在として、ある意味紛らわしいと感じている言葉として、
「次元」
というものがあった。
この次元というのは、草薙少年の考え方として、
「同じ空間に存在しているのだが、そこには別の世界が存在しているのではないか?」
という考え方で、一般的に、
「我々が存在している三次元が、縦、横、高さを持った立体であるということであり、もう一つ低い次元として、高さのない縦横だけの平面という世界が、二次元であり、そして、点や線といった世界しか存在しないものが、一次元という世界だと考えると、四次元の世界は、縦横高さに、さらに時間軸というものが加わった世界ではないかということが、だいぶ前から考えられている」
ということだと思っていた。
三次元から、二次元、一次元というものを見ることはできるが意識することはできない。平面である二次元に世界があるという考え方は、論理でしかないからだ。
ただ、論理としてもどこまで証明できるかというのが難しいところで、ひょっとすると、
「一次元や二次元の世界を証明できれば、四次元の世界も解明できるのではないか?」
あるいは、
「四次元の世界を解明できれば。一次元、二次元というものも解明するのは難しいことではない」
という、四次元よりも、見えている一次元、二次元の方がよほど距離があるものではないかという考えも成り立つのであった。
それを考えていると、パラレルワールドと、いわゆる異次元というものの証明というのも、一緒に考えることもできるのではないかと考えていた。
そして、その求める答えというのが、
「宇宙という世界を無視して考えることはできないのではないか?」
ということを、草壁は、中学時代くらいから考えていたのであった。
宇宙というものに関しては、小学生の頃から、星座というものに、なぜか興味を持っていた。
自分でもなぜ興味を持ったのか分からない。ただ、空に浮かんでいる星を見て、
「昔の人が勝手に、自分たちの時代の出来事や、神話のようなものと結び付けて勝手に解釈したのだ」
と言われればそれまでなのだが、本当にそれだけなのかと考えさせられるのであった。
元々、地球が動いているなどということは誰も信じていたわけではない。実際に動いているという感覚がないのだから、根拠もなしに、
「地球が動いている」
と言って、誰が信じるだろうか?
もちろん、ガリレオだって、分かるように説明したつもりなのだろうが、頭の固い連中に話しても、最初から聞く耳を持っていないのであれば、ずっと描いているのは、
「交わることのない平行線」
でしかないのだろう。
しかし、果たしてそうなのだろうか?
今の人間は、
「ガリレオの言っていることが真実だった」
という認識が最初からあるので、古い頭で考えていた人たちのことを、糾弾できるのであるが、当時のほとんど、いやすべての人間が、地球が動いているなどと言われて、
「はい、そうですか」
と言って納得などできるはずもない。
時代としては、宗教的な感覚が強かった時代なので、宗教の教えに背くような発想は、当然のごとく、迫害されるであろう。ノストラダムスしかりであり。下手をすれば、
「神に近づく」
あるいは、
「神を冒涜する」
というような考えは、聖書の中にもあるような、バビロニアの王であったニムロデ王が、建設したとされる、
「バベルの塔」
の話のように、
「天に向かって矢を射ったり、紙に近づこうとするような大きな塔を建設するということが神の怒りを買う」
ということが戒めとなり、信者である人々の心の中に根付いているのだとすれば、ガリレオという存在は、このニムロデ王という存在に近いものだと思われるだろう。
しかも、当時は、
「魔女裁判」
などというものもあり、
「異端の考えを持つものは、迫害される」
ということで、それこそ、ことわざにもある、
「出る杭は打たれる」
と言われるがごとくなのではないだろうか。
そんなことを考えていると、地動説というものが、いかに異端な考えであるか、当時の人たちを一方的に、ひどいといって、事実を捻じ曲げているという発想をするのは、正直、片手落ちな考えではないかと思うのだった。
つまりは、ある科学者が言っていたように、
「科学で解明できないことはないということは起こりえないと決めつけることが、科学への冒涜だ」
ということではないだろうか?
つまり、一般的に正しいといわれていること、あるいは、正義だとされていることは、あくまでも、その反対意見であったり、悪とされているものがあってこそ、目立つ存在になっているのだ。
つまり、
「勧善懲悪」
という言葉のように、善だけを認めるのではなく、悪に対しての態度を示すということが、平衡を保つという意味で、必要なことである。
「表に対して必ず裏がある」
というように、正統派意見があれば、必ずそれに対しての、異端の意見もあるわけだ。
だが、正統派なのか、それとも異端なのかというのは、少なくとも、民主的な考え方においては、
「多数決」
でしか決められるものではない。
そうなった時の少数派である異端説を、考えようともせず、すぐに見捨ててしまうということは、それ以降の発展には、まったく寄与するものではない。
むしろ、後退することにつながってくることになるかも知れないと思うと、これほど、難しい考えにいたるわけではないだろう。
「少なくとも、理論物理学を中心とした学問には、裏表の両方を納得させるものでなければ、学説とすることはできない」
といえるのではないだろうか。
だが、実際のパラレルワールドというのは、草壁が考えていたものとは、発想から違っていたのだが、曲がりなりにであるは、
「表に対して必ず裏がある」
という共通点を、強引に結びつけることができるのではないだろうか?
パラレルワールドが裏になるのか、表になるのか分からないが、これを、
「並行世界」
というのだ。
「へいこう」
という言葉の音を踏む言葉として、
「平行」、「並行」、「平衡」
と三つ紛らわしい言葉があるのだが、それぞれに違う意味の言葉であるのは、周知のことであろうが、果たしてハッキリと言葉を定義づけできる人はどれだけいるであろうか?
「平行」というのは、二つの線が決して交わらないことである。
「並行」というのは、二つの線が、並んで走ることをいい、その時、その線は交わることがない。
そして最後に、「平衡」というのは、つりあった状態であり。偏らずに安定している状態をいうのだ。
つまりは、並行の中に、平行という言葉が含まれていて、並行の定義に、平行の定義が入っている。そして、平衡というのは、まったく意味の違う言葉だといってもいいだろう。
ただ、平行というのが、動体である必要はなく、並行には、
「進む」
という言葉の動詞が含まれているということで、平行は、完全に並行に含まれるとは言えないのではないかとも思う。そういう意味でも、言葉というものが難しいものだということを実感するのであった。
では平行というものに、動的なものは必要ないというのであれば、
「何になるのか?」
と考えると、
「概念だと解釈できないか?」
と考えるのだが、それが無難な回答ではないかと思う。
そうやって考えると、パラレルワールドというのも、動的なものであるといえるだろう。つまりは、自分たちが生きている世界も、絶えず時間軸に沿って生きているわけで、平行世界である、
「パラレルワールド」
も、一つの時空から分岐したうえで、同じ時間軸を進んでいる別の時空だと考えると、次元というものが、
「一つの時間軸のようなものではないか?」
とも思えてくる。
となると、四次元の世界を構成する、
「四次元目」
というのは、時間軸だという説は、少し違ってくるのではないだろうか。
いや、逆説を唱えるとするならば、時間軸をパラレルワールドとを結ぶ、
「並行部分だ」
と考えるならば、
「このパラレルワールドこそ、四次元の世界なのではないか?」
と考えてもいいだろう。
そして、パラレルワールドが時間軸に沿って、存在するのであれば、二次元、三次元を構成する、縦、横、高さに幅があるのであれば、時間軸にも、それに匹敵するだけの幅があってもいいだろう。
ただし、縦、横、高さには限界があるので、時間軸にも限界があると考えるのが普通である。
過去の時間軸が消えていくのか、それとも、以来の時間軸が決まっているというのか、それは個人を対象とするのか、何を対象にするのかで変わってくる。
それを考えると、四次元の世界と宇宙を結びつけて考えるとするならば、宇宙も無限ということはありえない。これは究極の考えであるが、
「無限というのは、人間が創造している、最高の指向なのではないか?」
という考えは極端かも知れないが、そう考えることが、一番の理屈なのかも知れないと思うのだった。
「人間は考える葦である」
とパスカルは言ったが、その言葉を思い出した、草壁だった。
このパラレルワールドと宇宙という感覚で、草壁は研究していた。
並行宇宙という意味の宇宙という言葉とは、少しニュアンスが違うもので、
「並行宇宙の中の宇宙は、並行しているものという意味で、時空のことを意味しているのではないか?」
と考えている。
パラレルワールドの中に存在する宇宙と比較する宇宙というものが同じものだという理屈も、普通であれば、解釈に矛盾があるといってもいいだろう。
そう、ここでいう宇宙というのは、それぞれの世界を表す「宇宙」という言葉ではなく、本当の意味で、存在している「宇宙のことである。
パラレルワールドという世界が、そのすべてを包み込むであろう宇宙に、いくつ存在するというのか?
また、いくつも存在するといわれるパラレルワールドのもとになっている世界も、本当に一つなのか?
というのが、パラレルワールドという世界を、
「同一次元の中で別の世界(時空)が広がっているものだ」
と解釈しているのであるから、
「別の次元でのパラレルワールドというものが存在している」
という考えは成り立つのだろうか?
そんなことを考えていると、次第に頭が混乱してくるのを感じた。
「一つのことを納得できない間に、余計なことを考えるのは、危険である」
という考えが本当のところなのだろうが、
「そんな余計なことが、納得できないことに影響を与え、一つの光明を示すかも知れない」
という考えも無きにしも非ずということで、あながち、否定もできないのではないかと考えるのであった。
ただ、まだ中学生だったこともあって、余計な発想が混乱を招くことになったり、メモに書いておいても、書いたことが後から見て、混乱するようでは、メモの意味がないようにも思えるのだった。だが、そんな中学時代に、
「表に対して必ず裏がある」
という考えに至ることができたのが、その後の草壁の人生において、大きな分岐点となったということは言えるのではないだろうか?
中学生の頃の頭で、宇宙というものを考えた時に、最初に思いつく発想は、
「無限」
ということであった。
そして、自分が他の人と発想が違っていると思ったのもこの時で、無限というものを考えた時、宇宙と無限が一緒のものだという発想を飛び越えて、
「無限というのは、本当に存在するのだろうか?」
という発想だった。
確かに、無限という概念を考えた時、理屈に合わないようなことを、
「無限」
という発想で考えた時、強引にでも、納得させることができると考えていた。
しかし逆に、無限という発想があるために、すべての矛盾を無限で解決しようとすると、さらにその先にある矛盾にぶつかってしまって、結局解決にならないということも少なくはなかった。
たとえば、
「無限からは、何を割っても、無限しか残らない」
という、フレーム問題にも絡むものであるが、これは、無限というものを、
「すべての一つのものだ」
と考えるからではないだろうか。
もっとも、そのように定義して考えたから、「無限」という発想が生まれてくるのであって、
「無限というものにも種類がある」
と考えると、一歩先を見ることができる。
それを、
「広義の意味と、狭義の意味」
として考えればいいのか、それとも、
「無限という言葉にいくつかの別の意味がある」
と考えればいいのか、それが難しい。
そう考えると、
「いくつかの、「無限」という言葉を示すものの一つとして存在するのが、パラレルワールドなのではないか?」
というのも、一つの発想なのではないだろうか?
そういう意味で、
「無限の多様性」
という言葉がふさわしいのかどうか分からないが、無限というものを、一つの大きなものとは別に考えてみるのも、
「物事を柔軟にみる」
という意味で、面白いことではないかと思うのだった。
別次元ということで、
「四次元の世界」
というものを創造した時、テレビドラマなどでは、三次元と四次元の間で扉のようなものが開いた時、
「姿は見えないが、会話をすることができる」
ということで描かれている。
そういう形で示さない限り、映像作品にもならないし、小説のようなビジュアルに関係のないものでも、読んだ人が自分で想像することで作り上げる世界なのだから、それこそ、自分に都合よく解釈することであろう。
それを思うと、双方向からの発想として、会話ができなければ、見ることができないので、四次元の世界の存在を証明することはできないだろう。
ただ、それをパラレルワールドに置き換えたとすればどうだろう?
四次元の世界とパラレルワールドという発想の大きな違いは、
「四次元の世界に、自分という人間は存在しないが、パラレルワールドという並行世界という発想は、向こうの世界に、自分と同じ人間が存在しなければ理屈として成り立たない」
ということなのではないだろうか。
言い方を変えれば、
「鏡のような世界」
といえるかも知れないが、鏡との決定的な違いは、こちら主導であって、相手は、媒体的な存在でしかないということなのだ。
パラレルワールドは、あくまでも、
「並行的に存在している世界」
ということであり、酷似はしているが、あくまでも、鏡のような主導がどちらにあるというものではないだろう。
そんな発想を宇宙というものと見比べて考えた時、
「広い宇宙の中には、地球と同じような星が存在し、そこには、自分と同じ人間が暮らしているとすれば、それがパラレルワールドなのではないか?」
ということである。
つまり、別の世界(時空)というものが、遠く離れた宇宙にあるどこかの星だと考えた時、同時に感じるのが、
「宇宙の広大さ」
ではないだろうか。
その広大さが、無限という発想につながるのであって、そこで無限と考えることが、一足飛びでいきなりだとは、誰も考えないかも知れない。
もし、落とし穴があるとすれば、
「無限というものを、一足飛びに考えることであり、ただこの空想が科学者としては危険であるが、クリエーターには、面白い発想になるかも知れない」
小説や、空想物語の中でのこの発想は斬新であり、無限というものを曲がりなりにも定義できるとすれば、まずは宇宙からだという発想は、仕方のないことであるといえるのではないだろうか。
アインシュタインが、相対性理論に結びついたのも、この宇宙空間というものを全体として把握していなければ、結びつくものではないだろう。
ただ、そこに、無限というものを一足飛びに発想したのだとしても、何か、
「置き忘れたものがあった」
という感覚になり、それを取りに戻ったと考えると、そこで、見えなかったものが見えてきたのだといえるだろう。
それは、最初からゆっくりと歩んできた人が見つけることができるものだったのかというと難しい。前から後ろに逆行しなければたどり着けないものがあるとするならば、前しか見ていない時系列を進む限り、永久に見つけることはできないのだ。
それができるとすればタイムマシンだけであり、その開発が難しいとされる中の発想として、このような、
「逆行を許さない見えない力が働いているのかも知れない」
と考えられるのではないだろうか。
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