第7話 副作用
自分を苛めていた友達の田舎で、一緒に鎮守の森にある神社の裏の井戸を見た時、何か不気味な感覚を思い出した気がした。井戸の奥を覗き組んでみたが、井戸の上には、網がかかっていて、事故がないように、十分な細工が施されていた。だが、友達がいうのは、
「この井戸の近くに、横穴の避難場所があったんだけど、それを俺は、戦時中の防空壕の跡なのではないかと思っていたけど、考えてみればおかしなことで、こんな田舎にまで、爆弾を落としたりはしないだろうから、別の目的で作られたのではないかと思ったんだ。それで近所のおばあさんに聞いてみたところ、その穴は、確かに防空壕ではなく、明治時代くらいに、村の秩序を守れなかった人がいれば、そこに閉じ込めるという、一種の収監所のようなところだったというんだ。しかも、そこに入れられた人は、大体、長くても二日だったらしいんだけど、少し気が変になると言われていたらしいんだ。なぜなら、出てきた時に、皆。自分が誰かに乗り移られたというような話をしていたというんだ。自分の意志とは関係なく、その檻の中で暴れているんだけど、暴れているのは自分ではなく、自分に乗り移った誰かだっていうんだ。檻の中なので誰も見ている人はいないので、信用してくれないらしいんだけど、でも、実際には、そこから出てしばらくすると、皆死んでしまうというんだ」
というのだった。
「一体どういうことなんだ?」
「それがよく分からないんだ。おばあさんの話では、死んでいった皆は、毒性のもので死んでいるというんだけど、そのほとんどが、ハチに刺されて死んでいるということなんだよ」
「ハチに刺されて? ということは、スズメバチか何かになのかな? この辺りでは、そんなハチがたくさんいるということなんだろうか?」
「うん、それも聞いてみたんだけど、塚本君は、ハチに刺されたことがあるかい?」
「うん、四年生の頃に一度刺されたことがあったんだけど、確かミツバチだったと思う」
「その時はどうしたんだい?」
「親が急いで、瓶に入った液体の薬を綿にしみこませて塗ってくれたのを覚えているんだけど、それがものすごい鼻を突くような臭いで、今思い出しただけでも、顔をしかめてしいそうなものだったんだ」
「ああ、それはアンモニアだよ。ハチの毒はギ酸と言って、酸性のものなんだ。だから、アルカリ性のアンモニアで中和させることで、毒性を引かせて痛みをとるということをしていたんだね。小学校の頃に倣っただろう? 酸性とアルカリ性を混ぜると中和するということをだね? だけど、ハチに刺された時にアンモニアを使うというのは、実は間違った方法らしいんだ。ギ酸と言っても、その成分は複雑なようで、実際にそれを遣うと、中和することは無理だという。しかも、アンモニアの作用で、皮膚炎になったりするという。さらに、おしっこがいいとか言われているけど、それこそ、不潔なだけで、何の効果もないということなんだ。つまりは、ハチの毒にアンモニアが効くなどというのは都市伝説であり。まったく科学的根拠などないということなんだよ」
と言われた。
「そうだったんだね。僕の場合はミツバチだったから、その場で何とか凌いだけど、これがスズメバチだったらそうはいかないだろうな」
「それはそうだ。救急車ものだったかも知れないね。かなりの痛みもあるだろうし、腫れあがったりもするんじゃないかな? それに医者に行かないといけない理由はそこにあるんだよ」
と言われ、恐る恐る聞き返した。
「それはどういう意味でなんだい?」
「ハチに刺されると、一度目はいいけど、二度目は危ないという話を聞いたことはないかい?」
「ああ、そういえば、ハチに二度刺されると死んでしまうというような話を聞いたことがあったけど、あれって本当のことなんだろうか?」
「うん、あれは本当のことで、アンモニアなんかよりも、よほど信ぴょう性があることなんだ。それこそ、科学的に裏付けられていることで、絶対に死ぬとは限らないが、相当な中毒状態に陥るだろうから、後遺症が残ったりもすると聞いたことがある」
「それって、相当怖いことだよね? でもどうしてなんだろう?」
と塚原は素朴な疑問を口にすると、
「それはね。アレルギーの一種なんだよ」
というではないか。
「アレルギー? それって、牛乳アレルギーとか、豆アレルギーとかいうあのアレルギーのことかい?」
「うん、アレルギーというのは、何も食べ物だけではない。植物にもアレルギーはあるし、動物だって、ネコやウサギにアレルギーを持っている人だっているだろう? それに、人によっては、ラテックスアレルギーと言って、ゴム製品を触るだけで、手が爛れてしまう人もいるくらいなんだ」
と友達は言った。
その頃はまだそこまで社会問題にはなっていなかったが、それから数年もしないうちに、アレルギーの問題が大きくなってきて、スーパーで売っている商品のラベル表記に、値段や賞味期限などと一緒に、成分も書かれている近くには、必ず、
「アレルゲン表記」
と言って、アレルギー性のものが列記されている。
もし、それが書かれていないと、販売してはいけないと法律が改正になったようで、表記漏れがあったりして、誰かがアレルギーになったり、表記漏れに気づいた製造元が、自主回収に走ったりと、相当シビアなものになってきたのだ。
アレルゲン表記の漏れは、製造者責任となるということである。
「アレルギーって怖いんだね。アレルギーを持っている人にとっては、本当に毒のようなものなんだね」
と、塚原がいうと、
「そうだよ。まさしくその通り。ちゃんと理解していないと、本当に命を失ったり、生死を彷徨った末に、後遺症を残してしまったりと、恐ろしいんだよ。アレルギーが毒になるという意味で、スズランなども実は恐ろしいものなんだ」
「スズラン? あのきれいな花を咲かせるあの植物かい?」
「そうだよ。時々、ミステリー小説なんかで、スズランの毒で殺人を行うというような話もあるくらいで、俺もこの間見た小説の中に、スズランの毒について書いてあるものがあったのを思い出したんだ」
という。
「それは。怖いね。どんな毒なんだろう?」
「花や茎に毒があるらしいんだけど、青酸カリよりも毒性は強いらしいんだ。僕が聞いたのは、青酸カリの十五倍らしい」
「だったら、ほぼ死ぬと思ってもいいくらいじゃないか?」
「そうなんだ。その毒の成分は、コンパラトキシンというらしいんだけど、吐き気や頭痛、眩暈などを引き起こすらしい。最悪の場合は死に至るということらしいんだけど、毒性から考えると、本当に恐ろしいよね。生けておいた水を飲んだだけでも、死んでしまうことがあるらしいんだ」
というではないか。
「それは本当に恐ろしいな。実際に見えないわけなので、水に溶かしていても分からないということだよね? 殺人に使うには実に都合がいいんだろうね」
「というと?」
「だって、誰にでも手に入る手軽な毒だということでしょう? 簡単に手に入るということは、もし殺人が起こったとして、誰が犯人なのかは、毒の入手経路からは分からないものだから、犯人を特定することは難しい。もし、スズランを買ったという事実があったとしても、その毒をその人が使ったという証拠にはならない。観賞用に買ったと言われれば、それ以上追及することはできないだろうからね。もっとも、よほど、ハッキリとした動機でもない限りの話だけどね」
と、塚原は言った。
その頃塚原も、友達の影響で、推理物のマンガをよく読んでいた。まだ、小説を読むのは苦手なようで、文章を見ていると、すぐに眠ってしまいそうになるのが一番嫌だった。
それを塚原は、
「文章を読むのが、よっぽど嫌なんだろうな?」
と、文章を読んで眠くなるのは自分だけで、他の人は、本を読んでも眠くなったりはしないと思っていたのだ。
「スズランは、手で触るだけでも手が荒れてしまうらしいくらいの毒性だというからね」
と友達がいうと、
「そうだね、きっとスズランの毒にやられた人は、最初何の毒カ分からないだろうから、その症状から、最初は皆、毒だとは思わずに、アレルギーによる中毒だと思うかも知れないね。さっきの君の話を聞いていて、アレルギーと似ているような気がしたんだ」
と、塚原がいうと、
「確かにそうかも知れない。だけどね、ハチの毒というのは、アレルギーと大きくかかわっているんだよ」
「えっ? どういうことなんだい?」
「さっきも言ったように、ハチには、二度目に刺された時の方が、致死率はグンと上がるといっただろう? ハチに刺されると二度目に死ぬってね。一度ハチに刺されて病院に行くと、そこで先生は必ず説明するはずなんだ。二度目に死ぬというメカニズムについてのことをね」
「うん」
「ハチに刺されると、まずハチの毒が身体に入るだろう? すると、人間というのは、その毒を追い出そうとしての働きがあるんだ。これを抗体というらしいんだけどね」
「うん、それは聞いたことがある。僕たちは子供の頃、はしかや水疱瘡やお多福かぜにか罹った時、一度罹ってしまうと、もう二度と罹らないという話を聞いたことがあったんだけど、それが抗体が影響していると思ったんだ。抗体は身体の中にできるので、それらの伝染病は二度と入ってこないってね。だから、抗体を作るというのが、どれほど大切で、素晴らしい機能なのかって思ったんだ」
「うんうん、だけどね。それはハチの毒に限っては例外的な要素を持っているんだよ」
「というと?」
「今も言ったように、一度ハチに刺されると、身体に入ってきたハチの毒素を追い出そうと、身体に抗体ができるんだ。だけどね、その抗体ができてしまうと、そのあと、もう一度ハチに刺されてしまうと、どうなる?」
「抗体が、ハチの毒が入ってこないようにするために、機能するんじゃないのかい?」
「そう、その通りなんだ。その時に、ハチの毒と、抗体とが反応して、一種のアレルギーを生じさせるようなんだ。そして、身体をショック状態にしてしまう。それが、命を奪うもとになってしまうということなんだ」
という友達の話を反芻しながら聞いていたが、しばらくして、
「そうか、じゃあ、二度目にハチに刺された時に死ぬという場合、直接の死因はハチの毒によるものではなくて、アレルギーによるショック死ということになるんだね?」
と塚原がいうと、
「そう、その通り。それを、アナフィラキシーショックというらしいんだ」
と、友達が誇らしげに話してくれた。
「よくそんな詳しいことまで知っているんだね?」
と聞くと、
「俺は将来、薬にかかわる仕事がしてみたいと思っているんだ。薬剤師か、あるいは、薬の開発に携わる仕事をだね」
と友達は言った。
「それはいいかも知れないね。君は、素直だし、勉強も嫌いではないと言っていたし、何よりも、自分の興味を持ったことは、とことん追求しないと気が済まないというその性格は、今から夢を持って突き進めば、きっと大願成就間違いないって感じじゃないかな?」
と、
――少しおだてすぎたかな?
と思ったが、実際に思っていたことだけに、言葉に詰まることなく口から出たことで、裏付けられている気がした。
友達も、まんざらでもないようで、たまに、そういう自信過剰なところを感じることがあったが、それでも、彼の長所が、短所を補ってあまりあるだけに、嫌な相手ではなかったのだ。
こんな彼と一緒にいると、
「苛められていた時の自分が、本当にいけないことをしていたんだな」
と感じるようになった。
それを思うと、
「仲良くなれてよかったな」
と感じるようになった。
「お前なら立派な薬の開発者になれる」
と、彼なら薬剤師よりも、開発者を目指すべきだと、塚原は感じていた。
それだけの素質が彼にはあるのだと思ったからだ。
「実は、俺は少しオカルト的な考えも持っているんだ」
と友達が言った。
「どういうことだい?」
「ハチに刺される場合や、さっきのはしかなどの伝染病などもそうなんだけど、基本的に刺されたり移ったりすると、抗体というものができるだろう? ハチに刺された場合は、抗体と毒が副作用を起こして、ショック状態になるのが、アナフィラキシーショックだといったんだけど、こういうアナフィラキシーショックなどを起こす時って、どうも、一瞬、魂が身体から離れるんじゃないかって思うんだ。もちろん、小学生の僕にそんなことを研究するすべがあるわけではないので、勝手な想像なんだけど、何かそれに似た発想の小説を読んだ気がしたんだよな」
「その小説家ってどんな人なんだい?」
「それが、名前を憶えていないんだ。家に帰れば分かると思うんだけど、確認するのは、だいぶ後になってしまうね」
ということだった。
「小説で見た」
という友達の話は、実に興味深いものだった。
塚原は、最近、
「小説家になりたい」
と思うようになっていた。
家で、よくミステリーやオカルト小説のようなものを読んでいて、ミステリーは、昭和初期くらいの、
「探偵小説」
と呼ばれていた頃の話が好きだったのだ。
オカルト小説としては、本当は、
「奇妙な味」
というジャンルになるらしいのだが、あまり聞かないジャンルだ。
だが、この、
「奇妙な味」
というジャンルを最初に提唱したのが、黎明期の探偵小説を支えた一人である、
「江戸川乱歩」
だというのが、実に興味深い話である。
ジャンルの枠を超え、ミステリー、SF、オカルト、ホラーなどの要素を組み込んだ、文字通り、奇妙なお話なのだ。
音楽の世界でも、六十年代後半から七十年代の前半にかけて、世界規模で流行した、
「プログレッシブロック」
というのも、似たような類の温覚である。
「前衛音楽」
ともいわれるが、ベースとして、クラシックであったりジャズなどを、ロックにアレンジした形で構成されている。
クラシックからの派生型のものは、組曲になっているものも多く、昔のレコードでいうA面すべてが一曲の組曲で構成されているというのも、結構あったりしたのだ。
そもそも、塚原はクラシックが好きだった。自分たちが通っている小学校では、毎日クラシックが流れている。休憩時間の合間や、昼休みなど、音楽の先生が毎日クラシックをセレクトして、校内放送で流していたのだ。
給食の時間など、クラシックが流れていると、まるで高級レストランか、中世ヨーロッパの優雅な食事を思わせるようで楽しかったものだ。
そんなクラシックを聴いていると、近所のお兄さんが、ハードロックに嵌っていたようで、塚原も、そのお兄さんから、ハードロックがいいと言われたが、
「僕は、クラシックが好きなので」
と言って、丁重に断っていたが、そのお兄さん曰く、
「だったら、プログレを聞けばいい」
というではないか。
「プログレ?」
と聞きなおすと、
「ああ、プログレッシブロックというのが正式名称なんだけどな」
というので、
「ロックじゃないですか」
「いやいや、ロックと言っても、クラシックやジャズの要素を取り入れた、少し変わった音楽なんだ。クラシックが好きなら、どれを聞けばいいかというのを教えてやるから聞いてみればいい」
と言われ、お兄さんが持っているというレコードを借りて聞いてみた。
「本当は、CDだったらいいのだろうけど、わざわざCDで買いなおすというのも、ちょっと忍びないので、レコードしかないけど、聴いてみてよかったら、買ってみればいい」
と言ってくれた。
「CDが出てるんですか?」
「有名なバンドのやつは十分にCDが出ているさ。もっとも、ブームが去ってから、廃盤になったものも結構多いんだけどね」
ということだった。
さっそく聴いてみると、
「なんだ、こりゃあ?」
という感じだったが、何度も聴いているうちに、クラシックよりも、柔軟な気がして、自分には合っている気がした。
クラシックは、とにかく壮大で、限界を感じないほどだが、プログレにはロックという縛りがある分、限界を感じる。しかし、その限界の中で、思う存分に音楽性を発揮していることで、前に進んでいけるだけの力を感じた。
まさに、
「前衛音楽」
と言っていいだろう。
そんなプログレッシブロックを聴きながら、ちょうど、その頃テレビドラマや映画などで、評判だった。昭和初期の探偵小説で、一人の探偵が主人公で、難事件を解決していくという話なのだが、昭和も末期に近くなってくると、戦前、戦後というと、まるで、歴史の世界であり、現代とは言いながら、まったく違った状況だったのを思うと、かつておばあちゃんなどから聞かされた戦前戦後の情景を頭に浮かべながら、自分でも、その時代背景を勉強しながら読んでいると、まさしくミステリーというよりも、ホラーに近い内容に思えてくるのだった。
そんな小説を読み込んでいくと、自分もその世界に入り込んでいく気がしてくるから不思議だった。
以前は、小説を読む時は、まわりの音をなるべく遮断して読んでいた。まわりがうるさいと集中できないということで、図書室で読んだり、静かな部屋で読んだりしていたのだが、一度、
「このプログレを聴きながら、探偵小説を読むと、どんな気持ちになるんだろうか?」
と感じたことで、少し、冒険してやってみた。
すると、自分でもビックリするくらい、音楽が小説の内容に嵌ったのだ。
すると、これも不思議なのだが、まわりから、別のジャンルの音楽が聞こえてきても、それまで気が散って読めなかったはずの本が読めたりするのだった。
「音楽が奏でるリズムとメロディの調和がちょうどいいんだろうか?」
と感じた。
小説を読んでいると、
「俺も書いてみたいな」
と思うようになっていた。
小学生の自分に、大人でさえ書けないような小説が書けるはずもなく、すぐに断念するのが関の山であったが、それでも、またすぐに書いてみたいと思うことで、何度でも挑戦し、断念するというのを繰り返していると、曲がりなりにも書けるようになっていた。
すると、そのうちに、
「せっかく書いているんだから、いつもだったら、簡単に諦めてしまうことを、諦めずに、最後まで書いてみよう」
と思うようになり、どんなに辻褄が合っていない作品であろうと、自分で納得のいかない作品であろうと、いったん書き始めたのだから、最後まで書くことに集中したのだった。
すると不思議なことに、そう思うようになると、本当に書けるようになったのだ。
書いていると、いつもなら諦めているところでも、とにかく前に進もうと思うようになると、書いている最中に言葉が浮かんでくるようになる。すると考える時間というのがなくなってきて。どんどん書けるようになる。その面白さが、自分に自信をつけさせ、途中でやめてしまうことが、愚かだと思うようになっていた。
小説を書く時も、同じように、最初は、静寂の中でしかできなかったが、プログレやクラシックを聴きながら書いていると、意外と進んだりするものだった。
最初は律義に原稿用紙を使っていたが、却って堅苦しくなってくるのを感じ、途中から、レポート用紙や、少し小さめのノートに書くようになった。
それが功を奏してか、何とか、曲がりなりにも最後まで書けるようになってきたのだった。
小説が書けるようになったのは、好きな小説を読むことで、
「自分も書いてみたい」
と思う感情。
これは、別によくあることなので、そんなに意識することではないと思うのだが、小説を読む時に、ちょうどその頃興味を持った、
「プログレッシブロック」
と一緒に聞いたことで、まるで化学反応を起こしたかのように、自分の中で、
「何かが目覚めた」
という感覚になったのだ。
プログレを聴くようになったのも、
「クラシックが好きだ」
という一言から、
「それじゃあ、これがいい」
と言って教えてもらったものだった。
プログレを聴くことになるのに、きっかけがあった。そして、小説を書くことになるのに、きっかけとして、探偵小説を読むというものがあった。その間に、
「書きながら聴く。あるいは、聴きながら書く」
という化学反応を引き起こすための、
「きっかけ」
としての、タスクのようなものがあった。
そのタスクを、塚原は、
「副作用のようなものだ」
と思っている。
何か一つの作用が、想定していなかったような、別の効果をもたらすようなことをいうのではないだろうか。
ただ、副作用という言葉は、ある意味、あまりいい意味に使われるということはほとんどない気がした。
例えば、何かの薬を飲んだ時などに、ごく稀に身体に蕁麻疹ができたりするということを聞いたことがあったが、それもまさにそういうことであろう。
副作用というのは、薬に限ったことではない。
アレルギーといわれるものも、一つの副作用なのではないだろうか。
牛乳アレルギーの人が牛乳を飲むと、痙攣を起こしたり、泡を吹いたり、呼吸困難に陥ったりするのは、一種の副作用のようなものではないだろうか。
厳密には違うものなのかも知れないが、たとえ話としては、ちょうどいい。
その頃は、なんでもかんでもが、副作用という言葉で一つになっていたが、令和の時代になってから、伝染病が世界的に流行ったのだが、その時、ワクチン接種において、重要なこととして、
「副反応の問題」
というものが騒がれるようになった。
副作用というと、基本的には、医薬品や医療行為に伴った。予期せぬ反応が起こった時のことをいうのだが、途中から、医薬に限らないところでの予期していない効果が現れたりした時にも、
「副作用」
という言葉を使ったりすることがあった。
副作用という言葉が独り歩きをしたといってもいいだろうが、
「作用」
という言葉が、医薬品に限らず広範囲の印象を与えるからではないだろうか。
逆に、
「副反応」
というのは、また別のもののようにも思えるが、実は、
「副作用の中でも、細菌やウイルスに対してのワクチンを接種することによって生じる、予期せず症状というものを、副反応と呼ぶ」
ということである。
つまり、副作用というのは、薬物関係によって生じるいろいろな反応全般のことをいうので、副反応の他にも、
「薬害」、
「薬物中毒」
などという別のものも、含まれたりするのである。
また、副作用というものは、あくまでも、副次的に起こるものなので、必ず、主作用と呼ばれる、
「本来薬を接種したことによって得られる効能などのこと」
と、対比したものである。
元々、こちらが、正統派であり、副作用は、よくないこととして得られたものなので、本当であれば、
「ありがたくないもの」
ということになるだろう。
だが、このような副作用があることで、
「科学や医学が発展してきた」
といえるかも知れない。
発見や発明の多くは、
「偶然の産物から生まれた」
と言われるものも多くあり、それらが、時として兵器に使われたりして、それが大きな富を生んだりすることもあるのだった。
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