第2話 昭和の田舎

 その時まで、好きだという意識を持っていなかった彼女だったが、髪型が変わったことで、

「好きだったんだ」

 と感じた。

 これは女性に限ったことではないが。

「好きだと感じるのは、失った時に初めて感じたりするものだ」

 という言葉を聞いたことがあったが、まさにその通りであった。

 その女の子のことを好きだったと感じた時はすでに、嫌になってしまってからのことだったので、その好きだったということに気づかなかったのは、自分だったはずなのに、

「俺が好きだったあの彼女を葬ったのは、今の彼女だ」

 と、同じ人間だということを意識しておらず、ただ、自分で自分を葬ったのだと思うと、怒りしかこみあげてこない。

 別に彼女は自分を葬ったわけでも何でもない。ただ、自分がこっちの方がいいと思ったのか、女の子らしい、

「イメチェン」

 をしただけだったのだ。

 それなのに、勝手に好きになって、勝手に嫌いになったのは、自分であって、相手を振り回したのは自分だったのだ。

 ひょっとすると、このイメチェンだって、塚原のためにしてきたことなのかも知れない。真相は分からないが、もしそうだとすれば、本当に勝手な思い込みでしかないといえるだろう。

 女心も、自分の気持ちも分かっていない塚原は、このやりきれない気持ちをすべて彼女のせいにして、

「裏切られた」

 とまで思ってしまった。

 そう感じてしまうと、完全に気持ちは離れてしまう。一気に冷めてしまうと、今度は逆に、

「いつも一緒にいる二人だ」

 などとまわりに思われるのが嫌になる。

 当然、彼女を避けるようになり、避けているのを、今度はまわりに分からせるように、あからさまになる。

 隠そうとしても、隠しきれずに相手には分かってしまうのだろうが、それ以上にあからさまにしていると、あからさまな態度だけが、大げさなほどいやらしく感じられ、そんな嫌らしい思いを感じさせられた方は、塚原を恨むようになる。

 そうなると、塚原に味方はいなくなる。それは、自業自得なのだが、それは自分からまわりに分からせようとして、本当は自分の思いを分からせようとしたのに、実際には表に見えていることしか分かってもらえない。

 それはそうだろう。態度が露骨すぎるし、今までは、隠そうとして隠しきれなかった人間が、今度はあからさまに相手を嫌っているのを分からせようとするのだから、行動パターンという意味でも、矛盾した感情に、誰もついてこれるわけはないのだった。

 そんな中で、今回、塚原を苛めている張本人であるクラスメイトは、実は塚原といつも一緒にいた彼女のことが密かに好きだったのだ。

 そんな態度は露骨だったのだが、他の連中は、彼に好意的な目で見ていた。

 それは、彼が比較的、いつもまわりに気を遣っているような人間で、本来なら、苛めなど決してしないタイプの男の子だったのだ。

 それが苛めに走ったのだから、それなりに理由があるはずだ。

 皆分かっていることだった。苛められるのが塚原で、苛めている張本人を見れば、何がどうして苛めに走ったのかということも分かっているはずであった。

 だから、今回の塚原が苛められているのを、まわりが黙って見ていて、止めようとしないのは、ただ傍観しているわけではない。普通なら、

「ここで止めに入って、苛めっ子の目に留まってしまい、その感情を逆撫でしてしまうと、苛めのターゲットが自分に向くかも知れない。庇ったばっかりに自分が苛められることになってしまうと、これほど理不尽なことはない」

 と思うのだろうが、それも仕方のないことなのかも知れない。

 だが、社会問題の基礎がそこにあるのだとすれば、見逃すわけにはいかないだろう。

 今回の塚原に関しては、見過ごしている連中には明らかな「意志」があった。塚原が苛めつくされるという最後までいくことを、目指して、自分たちが何も言わないという感覚である。

 この「意志」には、完全に故意がある。自分たちが見逃したことで、塚原が苛められることになる。ただの意志であれば、そこまでなのだろうが、さらに、それは悪いことではなく、むしろいいことだと思い、それこそ正義だと思っているのかも知れない。

 つまり、彼らには、勧善懲悪の意識があるのだ。

 逆に勧善懲悪だと思わないと、この意志を貫くことはできない。彼らにだって、

「苛めは悪いことであり、決して許されることではない」

 という意識があるに違いない。

 しかし、だからと言って、塚原の態度は許せない。

 相手の女の子の誠意に対して、あからさまな嫌悪に満ちた態度をとった。本人にはその自覚がないから、却って許せない気持ちになる。

「気を遣った人間だけが、嫌な思いをさせられて、当の本人は、悪いとは思っていないのだ」

 と感じている。

 本人ではないから、悪いと思っていないということはまわりに分かっても、どうして分からないのかまでは理解できない。髪を切っていたことで、自分の理想とかけ離れたことで、

「もういいや」

 と簡単に相手を切り捨てたことに対して。まったく悪びれた気になっていないのだとすれば、相手に対して何も考えていないということだろう。

 切り捨てたことに対して、悪いと思っているのだが、性格的に、好きでもなくなった相手に対し、まわりから好きだった時と同じ気持ちを自分が持っているということを感じさせたくないと感じているのだとすれば、それはそれで罪深い。

 ただ、その性格は本人にしか分からないので、それを糾弾することはできない。できるとすれば、自分たちとは、もうかかわる相手ではないと感じるだけだった。

 だから、そちらにしても、彼が苛められていることに対して、自分たちが助けるなどという義理があるわけではない。むしろ、自分たちの苛立ちを、代表して苛めという行動に出てくれている人がいるのはありがたかった。

 しかし、皆が皆、苛めをしている人間が、本当は彼女のことを好きだったと知っているわけではない。

 知っている人がいたとすれば、黙っているのは、卑怯なのかも知れないが、自分ではどうすることもできないと思うのだった。

 そんな時、黙っている人間が感じることは、

「もし、俺が彼の立場だったら、絶対に苛めているに違いない」

 と思い。自分が黙っているのは、そんな彼の気持ちを察しているからだった。

 つまりは、黙っている人間は、苛めを目の当たりにして、視線は完全に、苛めている側にしか向いていない。

 苛められている方を見てしまうと、黙っている自分まで悪者に感じてしまうからだ。そして、自分も一緒に苛めをしているような感覚になることで、普段から感じている世の中の理不尽さを、この時とばかりに戒めているような思いに至るのだった。

 塚原も、

「子供だから仕方がない」

 と言って済ませられることではないというのは、中学生になってから知った。

 たぶん、思春期になった時、女の子が気になるようになってくると、気持ちが少しずつ分かってきたのかも知れない。

 自分を苛めていた子は、一年くらいすると、もう苛めてこなくなった。まるで自然消滅したかのように、ごく自然に、苛めがなくなっていった。だから、塚原本人も、

「よかった、苛められなくなった」

 という気持ちはなかった。

 苛められなくなったことに安堵がなかっただけに、逆に自分の正当性を感じることができず、気持ち悪いままに感情が落ち着いたことは、味気ない思いになってしまったのだ。

 まわりの連中はもっとひどかったかも知れない。

「なんで、苛めをしなくなったんだよ。これじゃあ、俺たちまで悪者じゃないか?」

 と思っていたことだろう。

 しかし、悪者であることには違いない。苛めっ子の気持ちになっているという理屈で、普段の自分たちが理不尽に感じていることへの、憂さを晴らそうとしていたのだから、そんな人の気持ちに便乗したような偽善者のような気持ちに対して、誰が気を遣ってやらなければいけないかということである。

 苛めている方としても、自分で気持ちを収めることができなくなってしまっていたのだから、誰かまわりの人が注意をしてくれれば、自分からやめることができると思っていたのだ。

 それができないから、結局苛めぬくしかなくなって、最後には自然消滅というような、後味の悪さとなってしまったのだった。

 最終的には、苛められていた人間が、一番後味が悪いものではなかったようだ。

 苛めている方も、やめたいのにやめることができず、最後まで行ってしまったという罪悪感。まわりの人は、そんな罪悪感を知らず、自分たちが黙っていることを最初は、苛められているやつにぶつけるつもりで、苛めている男ばかりを見ていたが、実際には、苛められているやつの姿が見えなくなってしまい、

「今感じているこの憤りは、すべて、目の前に見えている苛めっ子にしか向けられないのだ」

 という気持ちになるのだった。

 中途半端な気持ちにさせられたことへの恨みは、いじめっ子に向けられる。どうにも、最初とは違ってしまったことを理不尽さと矛盾に感じてはいるが、最終的に、

「自分ではどうすることもできなかった」

 という思いが、これからも自分の中で繰り返させると思うことで、これほどの後ろめたさはないと思い。後味の悪さは、誰よりも彼らの中にあったのだ。

 しかも、

「俺たちが何をしたっていうんだ?」

 という思いがある。

「彼らは何もしたわけではない。逆に何もしていないから、怒りのぶつけ先を見失ったのだ。本来なら苛められていたやつに対して怒りをぶつけるはずなのに、俺が見失ってしまったばっかりに、怒りの矛先が見えなくなっちまった」

 と、思うことで、結局、自己嫌悪に陥るしかなくなったのだった。

 他の、黙っていた連中はどうなのだろう?

 自然消滅した苛めに対して、きっと、

「よかった」

 と思っていることだろう。

 彼らは彼らで黙って見過ごしていたことに罪悪感があった。なぜなら、黙って見過ごすことへの正義はどこにもなく、正義がないのであれば、黙って見過ごすだけの理由がなければいけないのに、それも見つからない。

 完全に中途半端な気持ちになってしまったことが、実は、

「苛めがなくならない」

 という社会問題の一番の原因なのではないかと、大人になってから、塚原は考えた。

 ちなみに、ここでいう、

「大人」

 というのは、すでに大学も卒業してからのことだったので、どこで、大人と子供を切り分けたとしても、大人に入ってしまう年齢だった。

 その頃になると、本当に好きになれる人が現れて、大学時代まで数人の女の子を付き合った経験はあったが、その頃になって大学時代を思い起こすと、

「まるでままごとのようだったな」

 と思うほどであったのは、

「本当に好きだったといえるのだろうか?」

 と感じたかあらであって、人を好きになるということが、どういうことなのか、そればかりを考えていた時期だったのだ。

 一緒にいるだけで楽しかったといってもよかったが、それだと、小学生の時に気になっていたあの子を思い出させる。そうなると、

「もし、髪を切ってきたりして、自分の好きなタイプとは違った雰囲気になったとすれば、今までどうり、好きでいられるだろうか?」

 という思いに至ってしまうであろう。

 それを思うと、大人になったつもりでいたが、

「また子供の頃と同じことを繰り返してしまうのであれば、俺はずっとこのまま大人になんかなれないのではないか?」

 と感じるのであった。

 その頃は、

「ピーターパン症候群」

 というのが流行っていて、

「大人になりたくないという意識、あるいは、大人になることを故意に拒否している感覚になること」

 という思いのことであった。

「ピーターパン症候群」

 というのは、大人になることで、ずるがしこくなったり、本来であれば守らなければならない子供であっても、自分たちの保身のために、子供を犠牲にしてでも、という考えを持った大人が増えてきたのだろう。

「それって、まるで、苛めを見て見ぬふりしていた連中と同じではないか?」

 と思った。

 自分が苛められている頃、苛めていた人間を意識しないわけにはいかないが、それ以上に、苛めを傍観している連中ばかりが気になっていた。そのおかげで、連中の中にもいくつかの種類がいることが分かってきた。

 本当にただ、黙っている、自分だけがよければいいと考えるやつ。

「苛められているやつには苛められるだけの理由がある」

 ということで、苛めを容認するつもりで傍観しているやつ。

 さらには、自分が他のことで、理不尽に感じていることがあり、その感覚に正当性を持たせるため、強引に苛めを傍観する自分との間に関連性を結びつけることで、自分の憂さを晴らしているやつもいた。

 苛められている側から見れば、そのどれもが、嫌なものであるのは間違いない。だから、

「もっと他に傍観者の中に、違う理由の人はいないのだろうか?」

 と思って探してみたが、そんな人などいるわけもなかった。

 一人でも、納得がいく傍観者がいたら、もう少し違ったのだろうが、大人になってからの塚原は、

「いじめ問題は、絶対になくならない」

 と思うようになっていた。

 もし、なくなるとするならば、大前提として、傍観者がいなくなることだと思ったが、そんなことができるわけもない。

 つまり、矛盾が正当化されるようなことでもない限り、苛めというのはなくならないものなのだと思うようになったのだ。

 もちろん、そんなことを考えるようになったのは、大人になってからのことだった。子供の頃、特に思春期には、たえずいつも何かを考えていて、基本的には自分中心の考え方なのだが、考えれば考えるほど、

「自分中心に考えるのが、子供だといわれるゆえんなのではないか?」

 と思うようになると、そのうちに、本当に異性がきになるようになってくると、今度は、自分のことよりも、好きになったその人のことばかりを考えている自分に気づくのだ。

 無意識に考えていたようで、その感覚は。

「潜在意識のようなものではないか?」

 と感じるようになっていった。

 潜在意識というものが、本能的なもので、一種の無意識なものだということを感じたのはその頃からで、その時になってやっと、

「自分のことよりも、他人のことを気にするようになるというのは、こういうことをいうんだ」

 と、感じたのだ。

 相手は女の子で、小学生の頃に好きだった女の子と雰囲気が似ていた。

「あの子と雰囲気が似ていたから好きになった」

 ということに間違いはないようだったのだが、違っているのは、

「自分の好みというのが最初からあって、好きになる人を自分で認識しているのだ」

 ということに変わりはないのだが、

「子供の頃は、顔を見て、直観で好きだと感じたのだったが、思春期を迎えてからの自分は、まず顔を見て、それから性格を判断し、それから好きになるという一段階を踏まえている」

 ということだった。

 だが、子供の頃に、髪を切ってきたことで、遠ざけるようになったのは、髪を切っていたその顔が、好きになれなかった理由として、

「性格的に合わないと思ったからではないか?」

 と考えたが、その理由は、まるで最初から思春期になってから出てくるはずの感覚が、子供の頃にあったということである。

 潜在意識として、潜んでいる感覚は、

「大人であっても、子供であっても、関係ない。ただ、思春期を通して感じるようになるのは、その理屈を理解できるようになるから、分かったようなつもりになるのではないだろうか?」

 ということだと、大人になって感じるようになった。

 その頃には、相手も自分を本当に好きになってくれる人が見つかったのであり、こちらも同じ気持ちで結びつくことで、

「恋愛が成就した」

 といえるだろう。

 ただ、それはあくまでも恋愛が成就しただけのことでしかないというのも、真実だったのだ。

 塚原が苛められなくなってから少しして、今度は別のやつが、また他のやつから苛められるようになった。

 それは塚原を苛めていた主犯ではなく、塚原を苛めている主犯に隠れて、

「俺も苛めてやれ」

 というようなやつだった。

 それくらいのことは、塚原にも分かっていて。自分を苛めていたやつに対して恨みはなかったが、まるで火事場泥棒のように、人の後ろに隠れて、憂さを晴らしているような、卑劣なやつのことは、すぐに分かるというもので、そんな卑劣なやつに対して、怒りがこみあげてくるのだった。

 塚原が苛められなくなったが、今度は他のやつがすぐに別のやつを苛めるようになった。また今回も、その卑劣なやつは、主犯の陰に隠れて、苛めを単純に楽しんでいるのだった。

「どうやら、あいつが、苛めを陽動しているようだな」

 ということが、まわりから見ていると分かった。

 塚原は、ここで黙っていれば、今まで見過ごしてきた連中と同じで、卑劣な人間になってしまうと感じたが、しかし、ここで自分がまた表に出ていくと、苛めの対象が、また自分に戻るだけで、それこそ本末転倒もいいところではないだろうか。

 それを思うと、何もできなくなってしまう。

 自分と苛めていたやつとは、苛めがなくなってから、仲良くなった。どうやら、誤解だったということが分かってもらえたようで、

「すまなかったな」

 と言ってもらえると、その瞬間に、苛めがあったなどということすら忘れるくらいだった。

「苛めなんて、本当はなければ、それに越したことはないんだ」

 と、その友達がいったが、

「じゃあ、どうして、俺を苛めることになったんだい?」

 と聞くと、

「あれは仕方がないのさ」

 と言って、自分も彼女のことが好きだったのだというのだ。

「そうだったんだ。悪いことをしたね。でも、俺も、どうしてあんな気持ちになったのか分からなかったんだよ。自分のイメージと違うからと言って、話をしなくなるというのは、やっぱりまずいよな」

 と塚原がいうと、

「俺も同じ立場になったら、どうなんだろう? って思うんだ。やっぱり、相手に思わせぶりな態度はできないと思うだろうし、自分の気持ちにもウソはつけないって思ってしまうんじゃないかな?」

 という。

「苛めの理由なんて、意外と些細なことなのかも知れないな」

 という塚原に、

「うーん、苛められている方とすれば、訳が分からないよな。何しろ苛めている方にも、正義がどこにあるのかすら分からないんだから」

 というのだった。

 塚原は、友達と仲直りをしたのが、六年生になってすぐくらいだった。

 その時。友達から、

「田舎のおばあちゃんのところに遊びに行くんだけど、塚原君もいかないかい?」

 と誘われた。

 家でその話をすると、

「いいじゃないか、せっかくできた友達から誘われたんだろう? 小学生の最後にいい思い出を作ってくればいい」

 というのだった。

 両親は、塚原が学校で苛めに遭っていたことを知らない。塚原が必死で黙っていたこともあったが、両親は結構楽天的なところがあったので、まさか子供が苛めに遭っているなど、想像もしなかったのだろう。

 もっとも、塚原は、それで助かったとも思ったが、そんな楽天的な両親が嫌いだった。

「なんで、そんなに楽しめるんだ?」

 と、世の中を楽しんでいるようにしか見えない両親を見ていて、羨ましいというよりも、苛立ちを覚えるといった方がいいだろう。

 友達の田舎は、まだ村だったのだ。本当に田舎で、舗装もしていない道が存在したり、バスは、二時間に一本くらいしかないところだった。

 ほとんどが農家で、街にスーパーのようなものもなく、まだ昭和だったこともあり、コンビニなど、都会にしかなかった頃だった。

 学校も、小学校と中学校が一緒になっていて。三学年で十人もいないくらいなので、三学年で担任の先生は一人というくらいだった。

 まるで分校といってもいいようなところで、木造に白ペンキで塗られた校舎が、いかにも田舎を表していた。

 おばあちゃんの家というのは、結構大きなところで、庭には蔵もあり、おじさんという人は、トラクターに乗って、畑仕事に毎日精を出していたのだった。

 おばあちゃんやおばさんというのは、畑仕事を手伝いながら、内職をしていた。基本的には、力仕事をすることはない。家の仕事もしなければならないので、片手間でできるような内職がちょうどよかったのだ。

 だが、その頃になると、村の若い連中は、学校を卒業すると、都会に出てしまう。村に高校はないので、進学するには、どうしても、街の高校に通う必要があった。街の高校で、街の友達と仲良くなると、

「都会に出てみたい」

 と思うのは、誰もが必然の感情のようだった。

「ずっと田舎で暮らしたい」

 という人は、本当に希少価値で、

「昔は、村で育った子供は、村がいいといっていたものだ」

 と言っていたが、それは、戦争前後の食糧難の時代から考えると、食料も住むところも、就職先すらない都会にいることを思えば、田舎がいいのは当たり前で、

「皆都会から、着物や、家宝などを持って、田舎に買い出しに来ていたものだけど、田舎の方もそんな都会から、似たようなものばかりで、交換する気にもならないくらいだったからね。田舎に住んでいる人に対して、都会の連中が頭が上がらなかったのだよ」

 と教えてくれた。

「そんなひどい時代だったんですか?」

 と塚原が聞くと、

「ああ、そうだね、今は都会も復興して、完全に立場が逆転してしまったからね。田舎では就職先もないし、稼ぐこともできないから、中学を卒業すると、集団就職とか言って、学校と、都会の企業とで繋がっていて、どこの学校から何人という感じで、募集がかかっていて、会社の人が駅に迎えに来るまで、会社の人と、新入社員があったことがないなどというのは当たり前だったんだよ」

 というではないか。

「じゃあ、自分が行きたいところなのかどうかというのは、分からないということですか?」

 と塚原が聞くと、

「ああ、そういうことになるね。どうやって決めているのかは分からない。成績順に決めていくのか、まあ、それなりに生徒の行きたい業種の候補くらいはあるだろうけど、そんなものをいちいち聞いていたら、時間がいくらあっても、足りないだろうね」

 ということであった。

 商業高校などでは、今でも、いきたい企業の候補はあっても、希望が叶うとは言えないだろう。

 バブルがはじける前の昭和の時代であれば、行きたいところに普通に行けただろうが、バブルがはじけてからというもの、大学を卒業しても、就職ができないという就職浪人が、普通になっていったのだ。

 ちょうど、塚原が小学生の頃というと、バブルがはじけて、就職氷河期などと言われている時代だっただろう。

 そんな時代に、まだ、舗装もされていないような田舎が存在したというのも、今から思えば、

「夢だったのではないだろうか?」

 と感じるほどで、今思い出すのは、縁側でスイカを食べながら、花火をした記憶が一番大きかった。

 だが、それ以外の思い出は、なぜかほとんどなく、その村を思い出そうとすると、小学生の頃に苛められていた自分を思い出すのだ。

 ただ、一つ覚えているのは、友達のいとこが、

「今度、学校で肝試しがあるんだけど、参加しないかい?」

 と言われたことだった。

 怖がりの塚原は躊躇したが、友達は、二つ返事で、

「ああ、参加するよ。塚原君もいいよな?」

 と言われたので、むげに断ることのできず、

「う、うん」

 と言って、恐る恐る賛同したのだが、その時の友達には、塚原のことは視界に入っていなかったのかも知れない。

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