第3話

 思わず身構えた。知り合いだったら面倒だ。しかし、足音はぱたぱたと軽い。その主はぼくがいる音楽準備室の前で止まると、一切のためらいもなくドアを開けた。


 漫画を持ったまま呆気に取られているぼくを見て、主はこういった。


「高瀬くん?どうしたの?こんなところに」


 少し茶色っぽいセミロングの髪の毛が首のあたりで風にゆられてふわふわと揺れている。小柄な身体に纏ったセーラー服が、平坦な校内の壁や床の色と対比してよく目立つ。


 その顔に、ぼくは見覚えがあった。


 三船悠花とは中学校からの同級生だった。ただこれといってとりわけ仲が良いというわけではなく、知り合い程度のものだったと思う。同級生といっても中学校の三年間でクラスが同じになったこともなければ、部活が同じだったこともない。


 ところが、偶然クラスをまたぐ移動教室で席が隣になった。話しかけてくる悠花に適当に応対していたら、放課後や登校時にも話しかけられるようになった。天真爛漫、という言葉が良く似合っていたと思う。ただぼくは彼女の話を聞くばかりでほとんど自分のことは話さなかった。話の内容も学校のことばかりだったから、彼女のことは結局知らないままだった。


 それでも彼女はぼくによく話しかけてきた。だから、それに受け答えをする形でぼくも彼女を受け入れていった。


 彼女には周囲が認める特技があった。ピアノが弾けるのだ。それも別格の上手さで。


 彼女は中学の合唱祭でピアノを弾く担当をずっとやっていた。ぼくは合唱みたいなことには全くと言って興味がなかったから、練習は適当にこなして合唱祭本番も他のクラスのことにはまるで関心がなく、半分夢の世界にいざなわれながら何となく歌っているのを聞き流した。考えていることといえばその時やっていたソシャゲで出る新しいキャラにどれだけお金を突っ込むかという、今となっては下らないとしか思えないことだった。


 そんな眠気と怠惰の外側でピアノを弾いていたのが三船だった。その腕は確かに他とは一線を画していたと思う。合唱曲の前奏の弾き方が素人にも上手いと分かるほどだった。だから一瞬、眠気と怠惰のそこにいたぼくはステージ上に意識を引きずり出された。ホールにいた1000人ほどの全校生徒の視線が彼女に注がれていたと思う。


 ぼくの家は仙台市の中心部から少し離れた、小ぢんまりとした街の中にあった。最寄駅から東北本線に乗って、仙台駅で仙石線に乗り換えて数駅移動すれば高校に着く。生まれてからずっとこの辺りに住んでいた。高校はこの地域の中では良くも悪くもといった印象の高校で、自分にはちょうど良い場所なのではないかと思っている。


「久しぶりだね!」


 そういうと悠花が準備室の中に入ってきた。ふわりとした特徴的なセミロングが目に入る。


「私、ピアノを弾きに来たの」


 悠花の話によると、彼女はたまに音楽準備室にピアノを弾きに来るのだそうだ。不定期に夜の20時からピアノの先生のところでレッスンを受けることになっているが、自宅とピアノ教室が離れているため、学校にいたほうが都合がよい。ところが、それをすると放課後にヒマになってしまう。そこで先生に交渉して、ピアノを弾かせてもらうことになっているのだそうだ。


 特に荒れてもいないうちの高校は、音楽準備室であっても鍵が閉まることはない。自由な校風がそのような頼みも受け入れてくれるのだろう。


「高瀬くんがよかったら、ここでピアノを弾いていってもいいかな」


 断る理由もない。どうせ自分はここで漫画を読んでいるだけだし、レッスンを受ける前の練習というものも必要なのだろう。


「本当?よかった!」


 悠花は、よく笑う。中学時代から変わっていないと感じた。悠花は慣れた手つきでかばんをピアノの椅子の下に置き、その上に座った。上履きがペダルの上に置かれた。


「……。」


 そのまま、数秒間止まると、曲を弾き始めた。


 聞いたこともない曲だった。


 リズムに合わせて指先が鍵盤の上を踊っていく。


 沈みゆく西日が窓越しに、彼女とピアノを照らし出している。教室の中には、ぼくと彼女のほかに誰もいない。そこに響いている音色と音楽準備室のかび臭さは、この空間を詩的なものにするには十分すぎた。


 最後の音を静かにならすと、彼女はそっとピアノを撫でた。


「えへ、どうだった?」


 少しばかりの恥ずかしさが入り混じった笑顔が


「……すごいね」


「わたし、この曲好きなんだ~。今度のね、発表会で弾くの。だからたくさん練習しなくちゃ」


 ピアノから視線をずらして真っすぐ、こちらを見る。ピアノが大好きなことと、自分の演奏に納得がいっていないことは両立するらしい。ぼくにはどこが良くてどこがダメなのか、さっぱり分からなかった。ピアノを弾いている悠花はとても凛々しく、中学時代や今のイメージとはまるでかけ離れたものだったというのもある。普段との差がありすぎる。ピアノを弾いている彼女と普段の彼女どちらを先に最初に知るかで、彼女に対する印象が変わるのではないだろうか。


「そうなんだ」


 発表会、という場所がどのようなところなのかぼくにはよくわからなくて、それ以上の言葉を紡ぎ出すことができなかった。


「じゃあ、私はここで練習してるね」


 そういってから、彼女は鍵盤とひたすら向き合っていた。さっき弾いていた一曲を練習し続け、何が間違ったのかよく分からない場所で手を止めてはいろいろなことを考えていた。ピアノに立てかけられた楽譜にメモを書き込んでいた。


 ぼくは何となくその様子を横目に見ながら漫画を読んでいた。悪いから出て行こうか、と聞いていたが別にいいらしい。ただしばらくすると、ピアノを聞きながら読む漫画もなかなか悪くないのではないかと思うようになっていた。音の強弱や高さに抑揚のあるクラシック曲は、街やテレビで流れているポップスのそれと比較してダイナミックに聞こえた。


 次の日も、ぼくはなんとなく準備室へ向かった。特に理由はなかったと思う。ただ久しぶりに聞いたピアノの生音が、なんとなく耳に残っていたからかもしれない。

 準備室を開けると、まだ悠花は来ていなかった。薄暗い準備室にはピアノが一台置いてあって、その後ろにある小さな窓から光がわずかに差し込んでいる。カーテンを開けると、春先の太陽の明かりが一気に入り込んできた。


 しかし、漫画を読むには良い場所なのではないかなと思った。家にいると家事を手伝わされたり、お使いに行かされたりする。


「あれ?高瀬くん、来てたんだ!」


「え、うん、なんとなく」


 聴かれてもいないのに答えてしまった。今日は別に家の鍵を忘れたわけではなかった。ただ昨日家に帰っても彼女の演奏している姿を何度か思い出して、もう一度来てみようと思っただけだ。


「えへへっ、じゃあまたピアノ弾いてるけど、気にしないでね」


 そう言って悠花は、昨日と同じようにピアノを弾き始めた。ぼくはその横で借りた漫画を読む、昨日と同じ光景が繰り返された。準備室の窓が開いていて、そこからふわりとした春の風が入り込んできていた。風の音とピアノの音色と、漫画のページをめくる音だけがしばらくのあいだ準備室の中に響いていた。

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