第16話
それからぼくと悠花は、それぞれの話をした。悠花はオーケストラ部(オケ部と呼ぶらしい)に所属してピアノを担当しているとのことだった。たくさんの楽器と合わせるのはこれまで経験してこなかったから練習から何からすべて楽しいらしい。
「高瀬くんは?」
そう聞かれて、相変わらずだよと答えた。友人に恵まれ、講義に参加しているだけだから、あまり話すこともないのだが、ちょうど数日前に昨夜がレポートをかけなくて泣きついてきたことを思い出して、その話をした。レポートや課題に追われる風景は音大よりは少ないだろうと思った。
ただ悠花はそうしたなんともない、どこにでもあるような大学生の生活の話を面白がって聞いてくれた。お互い離れていた一年間と少しの埋め合わせがこの二時間程度で収まるとは思えないけれど、それでもそれぞれがどのようなことをしてきたのかを知ることができるのはとても嬉しい事だったし、そして何より悠花が楽しそうに学生生活を送っていることに何故か安心することができた。
そうしばらく話し込んで一時間ほどが経っていた。東京に来たときにみた空の天辺から睨みつけるように光を卸していた太陽は少し西の方に進んでいる。落ち着いた緑色のカーテンから西日が差し込んで悠花がいるところをちょうど照らし、それを嫌がった彼女はカーテンを少し閉めた。
「そういえば、さ」
ぼくは一つ悠花にどうしてもやってもらいたいことがあった。
「ピアノ弾いてよ。久しぶりに」
どうしても、悠花がピアノを弾いているのを見たかった。
「え?う、うん、いいよ」
いきなりだったから、少し悠花が戸惑ったがすぐにいいよと言ってくれた。彼女はすぐにピアノの蓋を開けると電源を入れた。
「じゃあ、これで聴いて」
そういって彼女はピアノの脇についているイヤホンジャックにイヤホンをさして、片耳分をぼくによこした。音が外に出てこないかわりに、こうやって聞くらしい。ピアノ台に座る悠花のすぐ横で聞いている格好になった。こんなに近くで彼女のピアノを聞くのは初めてだと思う。
「高瀬くんに聞いてもらうの久しぶりだから、少し緊張するな」
そういった彼女は少し照れくさそうだった。それがかえって、無邪気にピアノを弾いていたころと比べて少し大人になっている姿なような気がして、少しだけ照れくさかった。
「じゃあ~……あ、これにしよっか」
しばし考えたあとに、彼女は両手を鍵盤の上に置いて、ゆっくりと押し込んだ。
曲は真夏の音楽室で弾いたピアノソナタだった。特徴的なメロディが彼女の優しい指使いと共に繰り広げられる。悠花と別れてから一年間、このピアノソナタはずっとスマホで聴いてきたけれど、やはり彼女のピアノが一番いいと思った。
最後の音を弾き終わって、悠花がゆっくりと鍵盤から指を放した。エアコンは確かに効いていたはずだった。ただ全身を動かしてピアノを弾いた彼女の額には大粒の汗が浮かんでいて、ぼくも全身が汗ばんでいるのをなんとなく感じていた。
「どう?久しぶりに聴いたでしょ」
やはり恥ずかしそうに、しかしそれでいていたずらっぽく彼女が笑った。たった一年と少しだけで、こういった笑みを浮かべるようになったんだなと思った。ぼくを置いて、彼女はどんどん大人になっていく。
「うまくなってると思う。すごく」
対するぼくは、ことば一つとってもあれからちっとも変っていない。彼女のピアノに圧倒されて、少しも変わっていない。
それから、彼女はあのときと同じようにぼくに身体を合わせた。あのときから、悠花の体温はずっと変わっていなかった。全身を彼女に包み込まれて、ぼくはこの体温を忘れないように、いつでも思い出せるようにすることで必死だった。Tシャツの向こう側の呼吸に合わせて上下する彼女は今にも壊れそうなほど華奢なのに、力強さを確かに兼ね備えていた。
小柄な彼女の身体は、前に抱いたときよりもずっと大きく感じた。信じられないくらい細い首と鎖骨が視界に入った。やっぱりここが一番落ち着く場所なんだと思った。へばりついた悠花の肌はうっすらと汗ばんでいる。
「ねえ、私ね、音大に合格することが決まったとき、嫌だったんだ」
腕の中で、悠花はささやいた。
「どうして?」
「もちろんうれしかったけれど、それで高瀬くんと一緒にいられなくなっちゃうんだなって思って」
「ありがと」
「だから、また会えて嬉しかった」
そういって彼女は背中に回す腕の力を少しだけ強くした。一年間の渇望が、ぼくらを少しだけ強くさせた。
会う前はどこに行こうかとかそういった話をしていたけれど、結局、ぼくと悠花はどこにも行かなかった。うだるような夏の中、エアコンが効いていた6畳の部屋と一台のピアノがあればそれで十分だった。夜になって、二人で近くのスーパーに出かけて夕食の材料を買って来て、二人でパスタを作って食べた。二人で野菜を切ったり、洗い物をしながら過ごす夜はとても新鮮で、もし二人で一緒の大学に進学していたらこういう毎日を送ることができたのだろうか、と考えた。
ご飯を食べ終わってからしばらくたったのちに、悠花は隣でそう言って立ち上がった。
「ね、お酒は飲める?」
「飲めるけど」
「え?うん」
「えへ、買ってきてあるんだよね」
そう言って、彼女は冷蔵庫の中から缶を二つ取り出した。
「えへへ、実は買ってきてあるんだよね」
そう言って彼女は両手に一つずつ、度数の低いチューハイを持っていた。
「あまり飲めないだけど、少しならね」
ぼくらが最後に一緒にいたのは高校生の頃だった。あの頃はこうして二人でお酒を飲める日が来ることを想像すらもしていなかったと思う。
お酒を少しだけ飲んで時間は少し早かったけれどもう寝てしまおうということになった。布団が一つしかなかったから、ぼくらはそこで横になって寝ることにした。熱帯夜でただでさえ暑く、その上そばには悠花の高い体温を帯びた身体があったけれど、ぼくも悠花も全く気にならなかった。二人で横になるとすぐに、悠花はぼくに甘えてきた。自分の頬に髪の毛が擦れて、少しくすぐったかった。ぼくもできる限り彼女のことを近くで感じていたくて、彼女の背中から手をまわした。近すぎる彼女の香りがぼくに激烈な感情を与えたけれど、それはこの場に相応しくないと思ってやめにした。
「ねえ」
ふと悠花が
「わたし、いままで言えなかったんだけどね」
と言った。
「どうしたの?」
「今度、海外に行くんだ。ピアノの練習をしに、留学しに行くの。今度の9月から二年間。その間は、日本にはほとんど戻ることができないの」
「いいよ?行っておいで、待ってるから」
自分でもびっくりするくらい、素直に言うことができた。確かに、彼女は真っすぐ前を向いていることが分かったからだ。悠花は少しだけの恐怖を残しつつも、留学を自分で決めたのだ。そう思うことができた。それであれば、彼女を送り出してやるべきだと思った。
「ありがと、高瀬くん」
ぼくのすぐそばで、彼女はそういった。彼女の体温で包まれているだけで、今後のぼくたちは全て何もかもうまくいくと思えた。
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