第14話

 案の定、酒は身体にぐるぐると回った。


 咲夜が買ってきた500ml缶はたった一本でぼくの身体を侵食し、地べたに押しつぶすには十分すぎるほどだった。気が付くと辺りは既に明るくなっており、周りには同じようにぶっ倒れているのが3人いる。


「……」


 何か言葉を発しようとしたけれど、のどのあたりにつっかかるものがある。二日酔いで喉が焼けてしまっているらしい。身体の怠さと頭痛も残っている。普段酒を少しくらい飲んだとしても悪酔いしないから、相当あの酒は悪いのだろう。


 時計は既に10時を回っていた。貴重な休日を頭痛とともに過ごさなければならないらしい。


「ほら、起きろ起きろ」


 眠がる咲夜をたたき起こして、残り2名も順番に部屋から追い出した。人間三人分のスペースが空いたが、床にはポテチの欠片が散乱し、空き缶がそのままになっている。


「あ~……」


 口から出た言葉はいつもの調子では考えられないくらい低く、かすれていた。最後のほうは記憶が残っていない。足元に落ちた空き缶を拾い、台所のゴミ箱に捨てに行く。ワンルームの6畳に差し込む陽の光が鬱陶しい。


 ポテトチップスの袋を見ると、まだ中身が残っていた。欠片が敷いた絨毯の上にいくつも落ちている。


「……」


 今すぐベッドに寝転がりたい気持ちを抑えて、なんとか袋を拾って捨て、掃除機をかけた。


 途中から、昨日の記憶が断片的にしか残っていない。けらけらと笑う咲夜、川瀬、一宮の顔を覚えている。話の内容もはっきりとは覚えていないが、ほとんどが覚えるに値しないくだらないものばかりだった。


 そして、なぜか悠花の顔が浮かぶ。途中から、彼女のことばかり浮かんでいたような気がする。音楽準備室に置かれた数多くの楽器が共鳴するアップライトピアノの音と、差し込む西日と湿気の香り。前のことばかりを考えていたのは、酒がそうさせたのかもしれない。


 一通り部屋がきれいになったと判断したのちに、ベッドに倒れこんだ。頭痛も喉の違和感も、寝てしまうことですべて綺麗にならないかと思った。窓から光が差し込んできて邪魔だったから、カーテンを閉めて薄暗くする。


 沈黙が6畳の部屋を支配した。そのまま意識を失おうと思ったけれど、一度覚めた目はなかなかもう一度閉じることができない。


 折角思い出したことだし、久しぶりに悠花に連絡を取ってみようかな。


 そう思ってスマホを取り出した。LINEを開き、悠花とのチャット欄に入る。ただ、何を打ち込めば良いか分からない。酔っ払ってしんどい、とか送れば良いのだろうか。そんなくだらない話題、送ったところで返事が面倒なだけだろう。


 代わりに動画サイトを開き、ピアノの再生リストを開いた。悠花が弾いていたショパンのピアノソナタの名前は卒業したときには覚えていなかったけれど、後で探して第三番ということが分かっている。再生ボタンを押すと、音質の悪いメロディがスマホから聞こえ始めた。


 音楽室の中の悠花を思い出す。ぼくよりもずっと小柄で頼りない身体。それなのに安心できる優しい腕。あの手が離れてからもう一年がたった。彼女は遠いところで、ぼくとは違う毎日を送っている。彼女の瞳の中には今、何が映っているのだろう。えへへ、と少し弱弱しく、それでいて安心感を伝える彼女の笑みは、いま誰に向けられているのだろう。


 そんなことを考えているうちに、ベッドの中で眠れないまま一時間ほどが経った。さすがに何もしていないわけにはいかないともそもそと腰を上げると、まだ少しだけ荒れた状態の部屋が目に入ってきた。


 起き抜けで二日酔いの朝の頭など、信用してはいけないらしい。


 大学は遊んでても何とかなると高校の先生が何人もそう冗談で言っていたが、それは嘘ということが入学してすぐに分かった。授業を取ればとるほど課題が続々と出てきて、その一つ一つに評価がついて回るからうかつに休むこともできない。テストも小難しい専門的な内容を覚えていないと単位を落とすから、真面目に予習復習を行わなければならないことは高校時代と変わらなかった。


 教室の後ろの方で、杉並は相変わらず寝息を立てている。この男、授業は寝ているくせに後で内容を聞き出してちゃっかり単位を持っていく要領のいいやつだ。愛想がよくて方々でそれをやっているという話は聞くが、誰もそのことを咎めない。むしろそれが彼の愛嬌だと言える。


「産業革命に伴って始まった近代化とともに、社会学は存在しました。社会学というものを収めるためには、まずことのことを十二分に理解しておく必要があります」


 マイクを片手に話す教授は、自分の好きなことを話しているのだろう、とても楽しそうに話している。ただ内容が内容だけに、興味がない人間にとっては子守歌にしか聞こえないようだ。


「んご~……」


 隣でいびきを立て始めたから流石に起こすことにした。


「んあっ?」


 何度か揺すると、変な声を上げて顔をむくりと上げた。完全に夢の世界に行っていたらしく、起きはしたがぼうっとしている。大方、昨日夜遅くまでゲームでもして遊んでいたのだろう。2、3分ぼうっとしていたけれどすぐに再び眠りの世界に入り込んだ。大学での日常は、高校の頃よりも漫然としたものだった。単位のために学校に行き、授業を聞いてテストを解く(もしくは課題の論文をこなす)。それさえやっていれば、あとは寝ていようがバイトしていようが酒を飲んでいようが許されるのである。だから、生徒たちは思い思いにサークルをやったり、バイトに明け暮れたりする。今隣で寝ている杉並はいささか自由過ぎるような気がするが。


 寝ている学生はほかにも講義室の中に10人はいる。この状況で注意しない教授はどのような面持ちなのだろうか、全く分からない。眠りの世界に行ってしまっている学生を置き去りにしたまま、授業は淡々と進み、そして終了した。


 授業が終わって外に出た。まだ5月だというのに気温は25度を超えて夏同然といった状態だった。なんでも5月としては異例の暑さであるらしく、関東では一部で30度を超えているとのことだった。キャンパスの空にはこの季節には似合わない積乱雲が堂々たる姿を見せている。農作物の収穫が心配されているらしい。


 ただそのようなニュースがあろうと気温が少々高くなろうと、ぼくの日常は少しも変わらなかった。毎日大学に通って、授業を受けて帰るだけだ。友人はいるけど、自分から遊びに誘うことはない。淡々とした日々は大学一年目で完全に成立し、二年目でさらに拍車がかかっているような気がする。


 真夏ような熱気の中、キャンパスに向かって歩きだす。耳にイヤホンを入れて、スマホでショパンのピアノソナタを流した。雑踏にまみれたキャンパスが小さくなり、抑揚のついたピアノの音に覆われる。


 ふと音が小さくなった。LINEの通知音だった。ひょっとして昨夜あたりが週末に飲まないかという連絡があるのかもしれない。返事を放置しておくと電話してくるので、返事をしなければならない。ショパンの曲を止めて、LINEを開いた。


 メッセージを送ったのは昨夜ではなかった。悠花から連絡だった。


<ねえ、よかったら今度遊びに来ない?>


 すぐに行くという返事を出した。あの頃に聞いたショパンのピアノソナタを思い出す。

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