第10話

 高校三年生に進学すると、次第に準備室に行く時間も少なくなっていった。大学受験が始まる季節になった。一応うちの大学の大学進学率は高く、高卒で就職する人間は少ない。ぼくも学校のほかに塾に通うようになり、学校の宿題だけではなく予備校の宿題もやらなければならなくなった。電車に乗って移動しているか机について勉強をしているかのどちらかしかでしかなくなってしまった。


 悠花と準備室に集まる時間も少しずつ少なくなっていった。もともと週に二回集まっていたのがあっという間に週に一度になって、それもなくなりつつあった。もうこの頃になるとぼくが教えなくても彼女は自分で勉強できるようになっていた。だから、ぼくがわざわざ教える理由もなくなっていた。


〈仕方ないね。また行けるときに行こう〉


 というLINEに返事を出した。ピアノの曲もそれに備えた練習に変わっていった。

今まで楽し気に弾いていた悠花の顔が真剣そのものになり、ピアノから流れる曲も同じ場所を何度も繰り返し練習するようになり、以前の愉快さがなくなっていった。


 将棋部の連中も次第に盤に関する話題が少なくなり、数学や化学の話をするようになっていった。どうやら夏の大会が引退試合らしい。それ以降は各々、進学先の大学で将棋を指す日々を楽しみにしているようだった。


 そのまま月日は矢のように過ぎて行って、あっさりと受験の日を迎えることとなった。


 悠花の受験は、一月の冷え込んだ日だった。受験会場の最寄り駅に降り立つと、改札の前で悠花が待っていた。天気は晴れていたけれどその日は今季一番の冷え込みとのことで、悠花は制服の上にPコートを着込み、マフラーを巻いていた。


「来てくれてありがと」


 いつも通り元気な顔を見せつつも、悠花の顔は少しこわばっていた。


「う、うん!大丈夫!」


 明らかに緊張気味の態度が心配を募らせる。


「大丈夫?カイロとか持った?」


「う、うん、大丈夫。予備もある」


「じゃあ、いこっか」


 受験会場の前まで見送りに来て欲しい、と言われた。両親はいかないのかと聞いたが、気恥ずかしいのと逆に緊張してしまうから自分の方が良いとのことだった。


 周囲を見ると受験生は一人で来ていたり、両親と来ていたり、友達同士で来ていたりと色々だった。それぞれの制服が冬の太陽に照らされている。悠花が受験する音大の倍率は決して低くない。この中の半分以上、いや、四人に三人は悲痛な現実と向き合わなければならない運命にある。


「高瀬くんも受かったんだし、私も頑張らないとね」


 悠花がそうにっこりと笑ってこちらを見た。この状況で自分のことを気遣うのかと思った。


 ぼくの受験は、受験シーズンが始まってすぐにあっさりと終わってしまった。スケジュールの都合で第一志望の私立が最初の日付で、それが受かっていたからだった。頭を悩ませて考えた第二志望も第三志望も行くだけ無駄になってしまい、ぼくは周りの人間より少しだけ早く受験が終わっている。


「はぁ!?お前終わったのかよ!いいな~、俺はまだこれからだよ」


 昨日直人が勉強に飽きて電話してきたので報告すると、そのように文句を言われた。ぼくの受けた大学は国立大学の一般入試より早いらしい。だからこのような結果が引き起こされる。


「昨日もたくさん勉強したし、受かるといいな」


 隣の悠花は、ぼくに話しかけているようで自分に言い聞かせているような印象を抱かせた。そういった悠花の言葉を聞けば聞くほど、こちらも落ち着かなくなってくる。この落ち着きのなさに少し、自分自身でも動揺した。


「そうだ、チョコとかどう?休憩時間中に食べるといいってウチの担任が言ってた。よかったらそこのコンビニで買ってきたら?」


 毒にも薬にもならなさそうな話をしてしまったが、それでも悠花は真に受けてくれたらしい。そうなの?チョコ好きだし買ってこようかな、と言ってコンビニに消えていった。受験生であふれているコンビニに入っていきしばらく待つと、よく売っている200円くらいのアーモンドチョコを持って出てきた。


「買ってこれた、ありがと!」


 こちらを見るたびにぱっと笑顔を浮かべる。笑顔は一見いつも通りのように見えるけれど少しだけこわばっていて、彼女が抱えている緊張が伝わってくる。そのまま、できる限り彼女がほぐれるように努めた。


 しかし無情なもので、受験会場にはあっという間についてしまう。開始にはまだ少し余裕があるものの、先に席についておくに越したことはない。会場は高校の教室を借り上げている。付き添いの人間が入れるのはどうやら、校門までのようだ。校門の中には、新芽を蓄えた桜の木が何本も植えられている。ふと強めに風が吹いて、ぼくらの身体を打ち付けた。


「じゃ、行ってくるね」


 そういうと悠花はぎゅっとぼくの両手をつかんだ。


「がんばって」


 そう言って手を握り返した。悠花は建物の中に入っていく少し前でぱたぱたと手を振った。それを見て根拠のない少しの安心感と不安を覚えつつ、元来た道を戻り始めた。


 それから一週間ほどで、悠花の合格発表の日が来た。

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