第三章
第9話
11月も後半になると、仙台平野にも雪が降り始める。といっても、北陸ほどは積もらない。よほどの異常気象でもなければ、雪かきが必要になるほど降り始めるのは数日あれば良いほうだろう。遠くの山々は白くなって、学校の中庭に生えている桜の木の葉もすっかり落ちてしまった。
この時期、うちの高校は少し落ち着いている。文化祭が終わって一年上の先輩たちの最後の息抜きが終わって受験シーズンに突入すると、もう目立ったイベントは年度末まで学内ではない。運動部も秋の大会が終わってしばらくは落ち着いている。変わらないのは将棋部の連中ぐらいなものだ。将棋はオールシーズンできるスポーツだから、アマチュアの大会は毎月どこかの街で開かれている。彼らは暇を見つけては大会に遊びに行って、自分の実力を確かめているらしい。ひどいのになると昼休みにも盤を広げて、
「この局面で3六角はないだろ」
「いや、でもあえてここに指すことによって…」
といった訳の分からない会話を繰り広げている。
そんな中、進路調査があった。うちの高校で進路調査は高校一年のころから何度も行われている。高校二年のこの時期に進路調査を改めて実施することによって、来年のクラス分けにも影響するからしっかり考えるように、とのお達しがあった。とりあえず大学進学、と記入して提出しておく。
親や先生からは将来のことをよく考えておきなさい、とよく言われるが、そうはいっても何か思いつくわけでもない。だからといって焦りがあるわけでもない。ゆっくりとしていればよいと思っている。
シートを早々に書き終えてあたりを見渡してみると、やはり白紙のままで困った顔を浮かべている同級生が一定数いる。彼らの右手はきっと動かない。そもそも決まりもしない先のことをわざわざ決めようとしていることがおかしいのである。なってみないと分からないではないか。ただ学校は進路希望を把握して希望通りになるように面談をしたりクラス分けをしたりしなければいけないのだから、とりあえず書いておけばよい。
結局、数人は最後まで記入できないままだった。今日渡した進路希望調査用紙は別に今日書かなければならないわけではありません。ご家族の方と相談したいかたは週末の間に話し合って、来週の水曜日までに私に提出してください。そうアナウンスがあり、進路調査の時間は終了となった。クラスメイトの何人かは、結局白紙のまま用紙をかばんの中にしまった。きっとこの用紙が、提出日の前日まで埋まることはないだろう。
この日はたまたま、音楽準備室に行く日だった。放課後になると荷物をまとめて音楽準備室へ歩く。廊下に暖房が効いているほど贅沢な学校ではない。
さび付いて開きにくくなったドアを開けるとそこにはもう見慣れた顔がぱっと笑顔になりぼくを出迎えてくれる。そのまま他愛のない雑談を続けていると、悠花が
「進路希望調査の紙、書いた?」
と話題を変えた。悠花のクラスも、今日が進路希望調査が配られたらしい。
「うん、書いたよ」
一部のクラスメイト同様、悠花もかけていないのかもしれない。といっても、自分のことは参考にならない。別に気にするようなことでもないのだ。決めてしまい、出してしまえばよいと考えている。将来の夢などあるはずもないから、逆に話が早いのだ。効率よく稼げそうな学部を志望するだけである。
「そうなんだ」
いつも全身から何かぽやぽやと陽気な雰囲気を醸し出している悠花が、珍しくしおらしい。この秋の季節の曇り空のようにしている。少しだけもったいないと思った。
「何書いたらいいか分からないの?」
こんな時の言葉選びに苦労する。どういうわけかこれまでも友人から相談を受けることが多かった。ただ、まともな答えを返せたことは一度もない。今回もそうだ。進路に悩んだことなんてない。淡々と選び、淡々とやっているだけだ。その時に一番、生きていくうえで効率が良いと思っている選択を選ぶ。それは案外、難しい事ではないと思う。
「えっとね、そうじゃなくて」
悠花が続けた。
「いざ音大って書くと少し怖くて……まだ書き出せてないの。明日になれば書けるから、大丈夫だよ」
あはは、と笑った。ここに進路を書けば、実際に音大を受験することが決まってしまう。それを目指しているのと、実際に決まってしまうのでは大きな違いがあるだろう。
「そうだね」
ぼくらにはこれから先、長すぎる人生が待っている。大学の進学は、行く場所によってはその大部分が方向づけられてしまうような大きな節目でもある。たった十年と数年しか生きていないぼくたちは、それでもこれからの人生を自分たちで悩んで、決めなけばならない。正直、誰かが決めてくれれば楽なんだと思う。例えば昔からずっとこうしています、みたいなルールがあればあきらめもつくだろうし簡単だ。ところが、すべてが自由になっている。自由に決めて、それで全部自分の責任だ。そうした不安があることは仕方がないと思って、ぼくはこれを選んでいる。
「ねえ高瀬くん、そっちに行っていい?」
「ん」
少し、他人の体温が欲しいときがある。例えば、夜に寝付けなくて目が覚めてしまったとき。そんなとき、誰かの体温がそばにあればいいのに、と思うときがある。ただ、それで実際に誰かの体温を感じようとするにはとてつもない勇気がいることなのではないかと思う。それを素直にできる悠花は本当に強いなと思う。
悠花は、少しだけ小さく感じた。これから先の闇に向かって進まなければならないぼくらでも、その闇から感じる不安を諦めてしまったぼくと、向き合い続けている彼女はひどく異なっている。できることと言えば、ただ今この瞬間、彼女の身体を受け止めることだけだ。全身で感じる彼女の体温はとても暖かい。彼女が先にぼくを望んだはずなのに、雨のにおいに混じる悠花の髪の毛の柔らかいにおいとか、制服の優しい色とかに包まれて、むしろ安心を感じるのは自分のほうになってしまった。えへへ、と言って笑う彼女を見ていると、ほかの何もかもがどうでもよくなってくる気がした。
悠花はぼくの胸のあたりに顔をやっている。ぺたりとついた頬がすぐそこにある。暖房の効きにくい、寒い校舎の中で彼女がそこに確かに存在しているという感覚でぼくの全身は満たされていた。
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