第8話
夏休みが終わると、空はどんどん高くなっていく。仙台平野の夏は終わりが早い。テレビの天気も話題の中心が残暑から秋へと変わっていき、宮城野の田んぼで育てられている稲穂がゆっくりと黄金色に変わっていくのが、毎日の電車の中で分かるようになっていく。夏の高揚感が次第に薄れていき、西に見える奥羽山脈が初めて雪化粧をしたころ、ぼくらの制服も衣替えになった。
将棋部の連中は夏休みの間、東北大会まで行ったらしい。将棋の実力はとんと分からないのだが、県代表というのはどれほどのものなのだろうか。本人たちに聞いてみると可もなく不可もなしといった感触だった。一つのことに熱中できる凄さを彼らは持っていると感じた。ぼくは、何もやっていないし、これから何かするわけでもない。
そもそも、変化はいらない。ぼくは淡々と変わらない日々を送りたいだけだ。このまま大学に進学して淡々と就職して、老いて死ねば良いと思っている。稀に欲がない、などと叱られるが別にそれで良いのだ。
ぼくはというと、相も変わらず音楽準備室で放課後に漫画を読んでいる。このままいけばおそらく、秋の中間考査の成績も真ん中くらいになるだろう。ふと見上げると採光の悪い準備室の窓からも高くなった空がよく見える。心地よい風がそこからふわふわと入り込んできて、ピアノの前に座っていた悠花の髪を揺らした。
悠花はピアノの音に合わせて歌を歌っている。両手を別々に動かしながら歌を歌うなんて器用なことが良くできるものだと思う。久しぶりの悠花の冬服は小柄な彼女の身体に良く似合っていた。
「ん?どうしたの?」
横顔がこっちを見た。いや別に、と答えてみたが、しっかりとした返答になっただろうか。こういうときに変に勘ぐったりしないのは助かると思う。
「そういえばさ、高瀬くんも分かるような曲をいくつか練習してみたんだよね」
今まで悠花が聴いていた曲は何回も繰り返し聞かされていたからなんとなく覚えていたが、
悠花が髪をかき上げてピアノの前に座りなおす。弾き始めたのは、有名な子供向けアニメ映画の曲だった。その映画は小さいころに観て以来一度も見なかったけれど、街のどこかで流れていて耳に入っていた曲。鍵盤から奏でられる音は透き通った秋の空気と教室のほこりっぽさと混ざり合っていった。
「どうだった?」
少し照れくさそうに悠花がこちらを向いた。
そういえばとふと思った。悠花はどうして準備室なんかにいるんだろう。悠花とぼくはそもそも違うクラスだ。ぼくは理系進学を選び悠花は文系進学を選んだ。ウチの学校はどういうわけか文系クラスと理系クラスで通う校舎が違う。だから悠花の姿をぼくは登校から放課後まで見ることはほとんどない。当然、同じ授業になるようなこともない。
悠花がクラスの人間関係に困っているようなタイプの人間でもなさそうだし、放課後には部活に通っていてもおかしくない。それにも関わらず曜日を合わせてはここにきて、ピアノを弾いて帰っていくのである。
あの日以来、彼女は時折ぼくに甘えてくるようになった。普段はピアノを弾いていつも通り過ごしているのだけど、たまにこちらのほうをじっと見つめてくることがある。それにぼくが気づいて漫画本から目を上げると、
「えへへ」
と少し照れながら身体を寄せてくる。秋になって少し涼しくなったから、悠花の体温が心地よい。最初の方はどうすればいいかよくわからなかったけれど、途中から頭を撫でたり肩を寄せたりすると、悠花はますます喜ぶことがわかった。身体を寄せ合っているときはお互いは余り話すことがなかった。
特別な言葉を交わしあうことが悠花とぼくの間であったわけではなかった。ただあの日以来、明らかにぼくたちの関係は今までとは違ったものになった。悠花の体温を感じ取ることがぼくの中でとても重要なことに変わっていき、おそらくそのことは彼女も同じはずだった。正面から抱きしめられると、そばにいることによる安心感がより確かなものへと変わっていき、全身にじわじわと広がっていく。
ぼくと悠花の間で何か起こるというわけでもない。ただただ、身体を一緒にしているだけで得られるものがあった。淡々としていたが、とても貴重な時間だった。
そして少し時間が経つと、また特に言葉を交わすこともなく悠花はピアノの前に、そしてぼくは漫画に戻っていく。傍から見たらそれはとても奇妙な営みだったと思う。悠花はピアノの曲やクラスのことや家族のことをぼくに話して、それにぼくは受け答えをする。
すると、あっという間に18時がやってくる。そうするとかばんをもって制服を整えて、ぼくと悠花は駅までのバスへ乗る。部活終わりのたくさんの生徒たちに交じって、くだらないことを話しながら駅までの時間を過ごす。帰りの電車は悠花が下りでぼくが上りだから、そこでお別れだ。
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