第7話

 今年の梅雨は、例年よりも早く上がったらしい。


 積乱雲が立ち上る季節になった。といっても、7月の中頃には期末考査がある。三度の飯よりピアノが好きな悠花も、一週間前からは準備室に来なくなる。ぼくもそのことはなんとなくわかっていて、授業が終わるとそそくさと家に帰るようになった。友人たちの会話も次第にテストのことが中心になり、あの直人でさえもアニメを見るのを我慢して試験勉強に励む。


 日々気温が上がって蝉の声が校舎に響く中、あっという間に期末考査はやってきた。あまり成績に関心がないから期末考査そのものに恐ろしさを感じることはないが、テストを何時間も解かなければならないことそれ自体がストレスだ。


「ああ~、あと半分もあるのかよ」


 昼休みに弁当を食べていると、直人がぐちぐち言ってきた。


「まあいいだろ。それより今日が最終日だから、終わったら将棋を指せるぜ~」


隣に座っていた鷺宮がなだめた。


「早く将棋指したいよね~。」


 その隣の秋月が相槌を打つ。この三人は仲が良く、休み時間になるといつも話している。三人とも将棋部に所属しており、県大会に出る程度の実力はあるらしい。


「この一週間部活ないのキツかったからな~」


 テストが終わると、その三人は足早に部室へと去っていった。ほかのクラスメイトも各々部活へと向かう。


「テストお疲れさま~!どうだった?」


 準備室に入ると、悠花がぼくを出迎えてくれた。窓のカーテンから西日が差し、悠花の夏服を眩しく照らしている。


「国語が難しかったかな」


「あ!わかる。私も全然解けなかった!ほかはどうだった?」


「うーん、普通だったかな?」


 テストの手ごたえはいつも通りだった。多分、今回も成績はあまり変わらないだろう。


「数学は?」


「数学はね、うん、前よりできたような気がする!少しだけ結果が楽しみかも!」


 悠花の数学は後ろから数えたほうが早く悲惨そのものだった。手ごたえがあったのであれば、自分がいろいろと教えた甲斐があったのではないかと思う。


「よかった」


 そう口から出たのは、おそらく本心であっただろう。


 それにしても、暑い。準備室のエアコンは古く元から効きが遅かった。今日の最高気温は確か37度だったはずだ。準備室の小さい窓でも部屋の中を温めるには十分すぎたようで、準備室はほこりのにおいに入り混じった熱気が支配している。


「あつい~……」


 そう言いながら悠花が手持ちの楽譜でぱたぱたと仰いだ。半袖のセーラー服がぱたぱたと揺れる。とはいえ、ほかのところに行く場所もない。この状況で漫画を読んでも集中できないだろう。悠花に勉強を教えるので、今回の期末考査は少しだけ忙しかった。先週出た新しい単行本を読みたいが、さすがにお預けかもしれない。


 後々になって思い返しているけれど、この時ぼくはかなり悠花に心を許していたのだろうと思う。悠花も、ぼくも、10代のこの時期の根拠のない焦りが心を苦しめた。


今日はどこかほかの場所に行こう。そうぼくが提案しようと口を開いた時だった。


「ねえ」


 ふと悠花がいたずらっぽい顔を浮かべてぼくの顔を見た。


「どうしたの?」


「今日さ、音楽室のほうでピアノ弾いてみたいんだよね」


「え?」


 悠花が行ったのは、隣の音楽室に置いてあるグランドピアノのことだ。

「先生に見つからないかな」


「少しなら大丈夫よ。準備室でひいていても怒られないくらいなんだし。いこいこ!」


 悠花に言われるがままに準備室と音楽室をつなぐドアに手をかけると、音楽室のドアは簡単に開いた。西日が差し込む音楽室の空気は準備室よりも強烈な熱気が控えている。


「うわっ、暑いね……」


 そういって悠花がぱたぱたとセーラー服の上から手で仰いだ。首筋を流れる汗が悠花の鎖骨のあたりを撫でているのが分かる。暑がりのようで、エアコンが効いているはずの準備室でもこの頃暑い暑いと言っていた。


 グランドピアノは教室の隅に置いてあった。悠花が椅子に座って鍵盤の上の蓋を持ち上げる。


 特に何も言わず、そのまま弾き始めた。聞いたことのある曲だった。確か、ショパンという人が作ったピアノソナタ、だっけ。もっと小さなタイトルを教えてもらったはずだけど、そこまでは覚えていない。


 指先が鍵盤の上を踊るように伝う。ピアノの前に座る悠花は、いつものときよりも少しだけ大人っぽくなっていると感じる。鍵盤が叩かれることによって紡がれる音の抑揚が、音楽室の熱気を少しだけ涼しくする。


 遠くからランニングをする陸上部の掛け声が聞こえる。窓の外には青々とした空が良く見えて、その中で入道雲が成長を続けていた。


 悠花は、いつもよりも長く最後の鍵盤を押した後の余韻を楽しんだ。


「えへ……どうだった?」


 悠花がぼくを向いてそう聞いた。


「え?うん……よかったよ、すごくよかった」


 彼女にはこれまで何度も感想を求められるけれど、一度もしっかりとした答えを返せてるとは思えない。


「ありがとっ」


 それでも悠花は、いつもにっこりと笑って答えてくれる。今日も変わらなかった。悠花はこのピアノソナタについてぼくの何倍も知っている。ピアノの弾き方も、作曲者の人生も、それらを知ったうえでピアノを弾いている。もちろん、ぼくは何も知らない。ピアノの弾き方はおろか、悠花の事すらも知らないのだ。


「高瀬くん」


 悠花がふとぼくの名前を呼んだ。いつものように呼んだのだと思って、ん、と口を開かずに返事を返した。


 次の瞬間、悠花が何も言わずにぼくのところまで寄ってきて背中に腕を回した。あまりにも突然のことであったから、一瞬、何が起こったのかよく分からなかった。


 紺色のセーラー服についた汗のにおいがする。西日が差す音楽室の熱気よりも高い彼女の体温が、全身を通して伝わってくる。呼吸する音すらも聞こえる悠花の顔の距離が、ぼくの全身を熱くさせる。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。悠花はゆっくりと腕をほどくと、えへへ…と少し恥ずかしそうに笑った。


「あついね」


 彼女の声がぼくの鼓膜を揺らした。まだ悠花はぼくに手を添えたままだった。悠花の汗ばんだ身体を見て、ぼくも同じようになっているに違いないと思った。 今、もし鏡を見せられたらぼくは恥ずかしさに耐えられなかっただろう。それくらいひどい顔をしているような気がした。


「……うん」


 そう答えると悠花はもう一度笑ってから、また身体を寄せてきた。今度は、少しだけ緊張がほぐれて、代わりに安らぎを感じるようになっていた。身体をともにしているという安心がぼくを包む。これから先に何があっても大丈夫だろうと思えるほど深いそれが、悠花と一緒にあることが分かった。


 そのまま、悠花は音楽室のグランドピアノで数曲を弾いた。エアコンも付けてしまったしグランドピアノを鳴らしたりなんかして人が来やしないかなと思ったけれども、結局お咎めを受けることはなかったし、生徒すらも来ることはなかった。


 その日の帰りは、悠花と帰った。悠花はクラスの話や最近家で挑戦している料理の話をぼくにし、終始楽しそうな表情を浮かべていた。駅の近くにあるコンビニで、半分にできるタイプのアイスを買って片方を渡してあげた。


 そのまま、学校は夏の長い休みに突入した。夏休みは将棋部の連中に仙台の青葉通りに連れ出されたり、クラスメイトとのカラオケに連れていかれたりした。悠花からは夏休みの間によくLINEが来た。家族で一週間ほど北海道に旅行に行ったらしく、それぞれの観光名所で撮影された写真が送られてきた。


一枚だけ、悠花自身が写っている写真もあった。慣れない自撮りで硬い笑顔を浮かべている悠花の私服は、普段のセーラー服とは違ってとても新鮮に映った。LINEで他愛のないやり取りを繰り返していると、


〈明日には仙台に戻るんだ。よかったら、来週どこかに遊びに行かない?〉


 という連絡が来た。別に予定も空いていなかったから、行くことにした。


 またコンサートにでも連れていかれるのかなと思ったけれど、悠花は話題になっている映画を一緒に見に行きたいと言ってきた。当日の悠花は映画を楽しみ、可愛い洋服に興味を持ち、喫茶店の小さなケーキを食べたがる普通の女子高生だった。あまりそういった一面を見せないから、とても新鮮に見えてなんだかおかしかった。

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