第6話

 翌日、登校するなり直人に耳打ちされた。


「お前さ、昨日文系クラスの子と一緒にいなかった?」


「え?あ、うん。そうだけど」


「は~。お前も隅に置けない奴だな」


 直人は時折勝手に理解をする節がある。


「そういうふうに見えるか?」


「え?逆にそれ以外になんかあるの?」


 こうなるともう手が付けられない。ノリで周囲にべらべらと話すに決まっている。この辺りのふるまいは完全に男子中学生のそれで、高校にあがっても精神が成長していないかと思うほどだ。


 そういうときはあまり反応せずに、適当にあしらうに限る。


「たまたま遊びに行こうってなってたってだけだよ。悠花とは中学校一緒だったんだよ」


「あ~、なるほどね」


 以外にも、それで納得したらしい。


「まあ、攻めるときは攻めろよ?」


 ニヤリと笑った彼がそう言った。キャラじゃないだろ、それ。ただ放課後に準備室に行っていることをわざわざ伝える必要はなさそうに見えた。


 放課後、少しだけクラスメイトとしゃべってから準備室に行くと、悠花が先に来ていた。彼女はコンサートで聞いた曲の楽譜を持って練習していた。ここがどうなんだろう、こう弾いていたよね、と時折呟きながらピアノを触っていた。


「昨日の曲?」


「そう。ちょっと気になってね。家で探したら楽譜があったから、持ってきちゃった。本当は練習しなきゃいけない曲があるんだけど、少しはやってみてもいいかな?って」


 外は三日連続の雨だった。多少降りすぎるらしく、今朝の天気予報では深夜に大雨に注意との予報だった。古い校舎だから隙間が空いているらしく、この準備室の中も雨のにおいで満ちている。その中に聞こえるピアノの音も湿度が加わっているような気がする。


「私ね、音大に行きたいんだ」


 ふと悠花が呟いた。いつもぼくに話しかけるときは必ず自分の方に顔を向けるのに、そのときだけは顔をピアノの鍵盤に手を乗せて、それを見つめたままだった。


「でも、お母さんは行ってほしくないみたい。お母さんはピアノの先生なんだけど、音大卒業してから就職に苦労したからって。普通の大学に出て就職したほうがいいから、そうしなさいって。ピアノはサークルとか、個人でもできるからって言ってた」


 準備室の窓から見えるどんよりとした雨雲が、西から東へ動いているのが見えた。ぼくはそれを聞いて、やっぱり何を返せばいいのかわからなくて、ただただ彼女の話を聞くことしかできない。ぼくは一度目線を悠花から漫画に戻した。ページは全く進めていない。目は漫画に落としているが、絵も文字も全く頭に入ってこかった。だからといって、悠花のほうを向く勇気もなかった。


「でも行きたいなぁ。音大。」


 そう言いながら、彼女はラの鍵盤を押し込んだ。ぽろーん、と雨の音の中に優しく弦を木槌がノックする音が響き渡る。


「勉強もしなきゃいけないし」


 音楽室に響いていたラの音が消えていった。校舎の屋上と壁を打ち付ける雨の音が、一段と強くなったように感じた。


「勉強でよかったら教えるよ」


 沈黙が嫌で必死になって言葉を探して、思わずらしくない言葉が出た。


「いいの?」


「うん。自分でよかったら」


 話に聞く限り、お世辞にも悠花の成績は良いとはいえないものだった。ぼくが教えることができれば、音大を受けても良いと言ってくれるかもしれない。


「勉強できるようになれば、音大を第一志望にして普通の大学を第二志望にすることができるかもよ」


 思い付きの提案だったが、よくよく考えると悪くない提案のように思える。


「本当?高瀬くん」


 成り行き任せだったが、以外にも彼女は喜んでくれたらしい。


「ありがとう!」


 それ以降、悠花は苦手な数学や英語をぼくに教わりにやってきた。彼女は最初こそ四苦八苦していたが、次第に小テストの点数を挙げることができていったようだった。普段授業を話半分にしか聞いておらずテスト勉強もあまりしないぼくが悠花に授業の中身を教えることは大変ではあったけれど、それでもぼくの話を真剣な顔をして聞いている彼女の顔をみるのは好きだった。


 悠花にはピアノのレッスンもあったから、レッスンがある日はピアノの音が相変わらず準備室に鳴り響いていたけど、それ以外の日は代わりにシャープペンシルがノートを擦る音がするようになった。

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