第二章
第5話
梅雨のある日、ぼくらの姿は仙台中心部のとあるコンサート会場に来ていた。
「ねえねえ!コンサート行かない?」
放課後いつものように準備室に行ったら、いつもの二倍増しで目を輝かせて悠花がそう言ってきた。セミロングの髪の毛が動きに合わせて揺れ、彼女の快活さを表現するのを手伝っている。
「コンサート?」
「うん!コンサート。お母さんと行く予定だったんだけど、急に行けなくなっちゃったみたいで。少し急なんだけど、行けない?」
「でも、ぼくクラシックなんてまともに聞いたことないんだけど。ライブすらも行ったことないのに」
「大丈夫よ、いつも私のピアノ聞いてるじゃない」
確かにぼくは悠花のピアノを聞きながら放課後を過ごしている。悠花のピアノの腕が素人目にもよく弾けていることも分かる。ただその曲がどんなものなのかはさっぱり分からない。ましてやコンサートなど、考えたこともない。そもそも、あまり興味がないのである。
悠花から言われた日程は土曜日の夜だった。たまたまその日は特に用事もなかったし断る理由もなかった。
「大丈夫よ、行ってみよう!」
そういう悠花に押し切られて、結局コンサートに行くことになった。
当日の仙台平野は列島の上に一週間以上居座っている梅雨前線の真下だった。仙台駅まで行くと、待ち合わせ場所にいた悠花は仙台駅の人混みの中ではあったけれど、休日と言うこともあってかセーラー服が良く目立ってすぐに見つけることができた。
「悠真くん!」
雨だろうと晴れだろうと、悠花は相変わらずぱっとした笑顔をこちらに向けてくる。
「じゃ、いこ!」
ああと返事をして、なんとなく悠花がいつもより楽しそうにしていることに気が付いた。子どもが親に誕生日のプレゼントを買いについていくときのように、全身から喜びを弾けさせている。ぼくは付き添いだ。
「今日の人はね、すごいんだよ!」
移動中に悠花が目を輝かせて言うには、今日来るピアニストは日本の中でもかなり有名らしく、仙台に来ること自体がかなり稀らしい。もちろん、そんなことをぼくが知るはずもない。
「クラシックのコンサートにはよく来るの?」
「うん!よく見にくるよ?でもいつもお母さんとだけだから、同級生と来たのは初めてかな」
当然、自分の家でクラシックなどは流れたことがない。親父が静かなのが好きという事もあって音楽が流れることが稀かもしれない。家の中の違いを感じる。
そんなことを話している間に、ぼくと悠花はあっという間にコンサート会場についた。制服で来るようにと言われて言われた通り着て行ったら、周りの人間はみなフォーマルな格好をしている。クラシックのコンサートは何となく敷居が高いものだと思っていたが、案外その通りなのかもしれないと思う。
ホール全体からは雨のにおいがした。
「こちらをどうぞ」
悠花から受け取ったチケットを渡すと、受付係の女性の方がプログラムとそれに挟まった大量のコンサートのパンフレットを渡してきた。片手で受け取ろうとして思わず床に巻いてしまいそうになり、慌ててしまった。横を見ると悠花が慣れた手つきでパンフレットを鞄にしまっている。
「席はこっちだよ」
大人たちにまじって堂々と会場を歩く悠花は実に頼もしく見えた。ホールには普段は嗅いだことのないカーペットのような匂いがした。中学校の合唱祭で使った地元の文化ホールよりもずっと天井が高くて広くて、ここが特別な場所であることを否応なしに刻み付けられた。
「すげえなぁ」
思わずつぶやくと、悠花がにこりと笑った。ステージの中心にはピアノが一台だけぽつんと置かれていた。ピアノはホールの灯りに照らされて妖しく光っている。
席についてからプログラムを読んでみたが、曲目に書かれているクラシック曲は「ノクターン第2番変ホ長調」とか、「平均律クラヴィーア曲集 第2巻 第1番 前奏曲 ハ長調」とかといった、何の意味だかよく分からないものばかりが並んでいる。「変ホ長調」って何だろう。
「この二番目のは、私がよく弾いてるのだよ」
目を白黒させていたのを悟られたかもしれない。突然悠花が声をかけてきたから少しだけ驚いた。知っている曲が聴けるのは少しありがたいかもしれない。悠花も楽しみにしているようだった。
ブザーが鳴り、客席の照明が落ちる。緊張感がホール全体を包んだ。さっきまでぼくに話しかけてきた悠花も、ホールの方へ意識を集中する。
黒を基調とした裾の長いドレスを着た女性が入ってきた。するとすぐに観客の万雷の拍手が出迎える。なんとなくぼくも拍手をしながら周りを見渡してみると、周囲はいかにもコンサートに慣れています、といった顔をしている。場違いなのではないかと思ってしまう。
「大丈夫だよ。座って、聞いて楽しめばいいの」
周囲を窺っていたのが分かってしまったらしい。悠花がぼくの耳元でそうささやいた。襟元を正したりなんかすれば、かえって緊張して曲を聴けなくなってしまうということだろう。
ドレスの女性は会場に一礼すると、中央のピアノに座った。観客席の照明は消えていてステージだけになっている。床の茶色と背景の壁の白色が、黒々としたピアノとドレスを際立たせて異質なものにしている。自然と拍手は止まり、逆に彼女の息遣いすらも聞こえるほど、会場に緊張感が走った。
曲は、ゆっくりとした低音から始まった。
段々と曲が早くなってくるにつれて、観客の意識が吸い込まれていくような気がした。気が付くと視線は、リズムに合わせて全身でピアノを弾く女性から目が吸い込まれる。隣で息を飲む音がしたような気がした。悠花は食い入るように十の指を操るドレスの女性を見つめていた。真っ直ぐ注がれた瞳の中にはどのようなものが写っているのだろう。自分と違って、ピアノを弾けるからこそ感じる凄さというものがあるのかもしれない。
コンサートが終わって外に出ると、。6月とはいえあたりには太陽が出ていたころの蒸し暑さが残っている。地面に染みついた雨が蒸発しはじめていて空気中に水分を感じられる。ビルとビルの間を風が強く吹き抜けてぼくたちを揺らしたが、それすらもねっとりと肌にべたつくような感覚を与えた。
「すごかったね~!」
夕食を食べようということになって入ったファミレスで、悠花はずっと喋り通しだった。
「悠花はあの曲は弾けるの?」
「ううん。私があの曲を弾けるようになるにはもっと練習が必要かな」
音の出し方一つとっても、自分やアマチュアとは全く違うものがあるらしい。指先の微細な感覚とか、リズムの抑揚とか、曲の理解において自分はまだまだだ、といったようなことを話していた。メロディをなぞることと弾けるようになることは、違うことであるらしい。
それを見ていて、少しだけ不思議だと思った。あまりの違いに落ち込んでもおかしくないのではないかと思ったからだ。
「だから楽しみ!これからもっと弾けるようになりたいな」
無邪気な彼女の瞳には確かな強さがあった。
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