美醜の奇跡
ツキノワグマ
美醜の奇跡
狭い廊下を進み金属製の扉を開ける。まぶしい光に目を瞑る度に、タイトル戦で浴びたフラッシュライトを思い出す。
扉の先には広い講堂があり、これでもかと机、椅子、そして将棋盤が置いてある。
そこには二千人の小学生たちが座っているのだ。
対局開始の合図を待って盤を挟み、対峙している。目の前の対戦相手にちらちらと目を向ける子供や、助けを求めるような表情を浮かべて遠くで見守っている保護者の方を窺っている子供もいる。
一見将棋の大会としては小学生達が凌ぎを削る楽しそうな雰囲気である。しかしよく考えてみると大会を優勝する子以外はすべて「負けました」と言うことになるのだ。その考えは私をとても感慨深い思いにかられさせる。
うがった言い方をすれば、その子以外は「負けました」と言うために会場に集まったことになる。
将棋よりもっと気軽に遊べるゲームなど探せばいくらでも溢れている。しかし、多くの子供達がせっかくの休日に「負けました」と言うために保護者と一緒に集まってくる。翌年もさらにその翌年も。
対局開始の合図が出される。
直前の浮つきが嘘のように、会場が静まり返った。対局者の顔に幼さはなく、ただ相手の命を狙うように相手の王を睨む。初めて見る保護者はこの異様な雰囲気に圧倒されるだろう。聴こえてくるのは駒の音。それは単に木片の打ちつけられる音ではない。探り、駆け引きを含む無言の対話がたしかにあるのだ。
対局者は慎重に自分の信じる道を進む。
将棋の一手を積み木に例えると、対局するということは、自分の置いた積み木の上に相手の積み木が置かれ、さらにその上に自分の積み木を置いていくものである。百何十もの積み木が注意深く乗せられていくのである。もちろんそこには自分だけでなく相手がかけた時間と思いも乗せられている。
「負けました」
どこからか弱々しい湿気を含んだ言葉が飛んでくる。
無言の対話が終わる瞬間はいつも同じである。
誰だって負けるのは悔しい。その悔しさは将棋に費やした努力に比例して大きくなるだろう。相手を負かすことは相手の努力の否定と言える。「負けました」と口に出すには否定された悔しさに堪えなければならない。年齢問わず泣きじゃくる子供はどこにでもいるのだ。
今度は色々なところから投了の声が聴こえてくる。その後、親元に駆け寄る子、その場で泣いてしまう子、トイレに行く子、ほとんどの子は席を立ってしまう。しかし、必ず戻ってくる。今度は言葉で会話するために。
この手で形勢を損ねた、この手順で囲いは崩れてしまう、などなど。
お互いの手の内を晒け出し、将棋を語るのだ。意外かもしれないが二人でやることの方が少なく、周りで見ていた子達もその輪に入る。
私はこの時間が大好きだ。こういった賑やかな時間も将棋の醍醐味と言える。
一際周りの注目を集める対局があった。小6対小2の対決で小2の子が終始押しまくる対局である。
小6の子も必死に逃げ回ったが形勢は覆らず小2の子が勝勢で確定している。
小6の子はよほど悔しいのだろう。負けたのはわかっているはずなのに涙だけが出てきて「負けました」が言えずにいた。
その子の涙が盤に落ち、重い沈黙が流れている。
小2の子はその異常な状況で相手の心情を悟ったのか、泣き始める寸前の状態になっていた。対局は依然終わらず、二人を助ける者は現れない。
私も含め周りはそれに気付きながらも見守るだけにとどまっている。
持ち時間を使い果たす音が鳴り、小6の子がやっと「負けました」と言った時、すぐに駆け寄ったのはその子達の親ではなかった。駆け寄ろうとしたかもしれないが、周りで見ていた子供達が早かった。
さっきまでの沈黙が嘘のように子供達はわいわいと感想戦を始めた。
その輪の中心には小6の子がいた。小2の子も笑顔を見せて話している。
子供はただ無邪気でいるわけではない。泣く寸前の子を気遣い、それとなく励ますことができる。負ける悔しさを知る者同士だからこそできることなのだろう。
感想戦が終わり、両対局者は親の元に帰った。
「負けて帰ってきた我が子になんて声をかけたら良いのか?」
親御さんから時々そう聞かれることがある。
小学生ぐらいの子には「負けました」と言えたことについて褒めてください。と私は返すようにしている。
一方、逆の立場から質問を受けることもある。
「負かした子供が泣く姿を見て将棋を指したくないと言う我が子になんて言えば良いのか?」
実は負けることよりも負かした相手の悲しむ姿を見て将棋が嫌になる子の方が多い。相手を思いやることができるからこそ、勝つとはどういうことなのかを人並み以上に考えるようになり、自分も気づかぬうちに自分の心を傷つけていくのだ。これは将棋で強くなろうとした時に誰もが通る道である。むしろ私はこれを通らなければならないとさえ思っている。どんな天才もどんな努力家も、これを乗り越えずして将棋で勝つことはないし、その資格もない。
小2の子は、この一局を通して勝つとはどういうことかを知っただろう。
どんなに才能があって将棋で勝てる実力があっても職業としてやっていけない人はたくさんいる。
ふと、こちらを見つめる男の子に気がついた。男の子に向かって笑顔を見せてやる。男の子は喜んだ様子でこっちに走ってくる。後ろからその子の両親であろう二人組の男女が走ってくる。
「葉山陽翔ッ……。」
男の子は目の前に来るや否やそう叫んだ。お父さんが追いついて男の子を小突く。
「なに言ってる。相手に失礼だろう」
それでも男の子はめげなかった。
「先生、将棋指そうよッ!」
「…先生、プロ棋士の先生でしたか。うちの愚息がすいません」
「いえ、お気になさらず。坊や、対局はもうないのか?」
「ないっ!」
「あるだろうが」
父がすぐさまつっこむ。母親は静かに笑みを浮かべている。まるでコントを楽しんでいるようにも見える。
「坊や、対局があるならそれを優先しなさい。ちゃんと得られるものがそこにあるはずだよ」
少年は理解ができないと言わんばかりに眉をひそめる。
「同い年と戦うより先生と戦った方がためになるんじゃないの?」
「それは分からないよ、それにどんな相手に対しても礼儀を重んじるのが将棋なんだ。不戦敗は明らかに対局相手への礼儀を欠く行為だ。…そうだね……この大会で優勝できたらそのあといくらでも相手してあげよう、そうすれば対局する意欲もわくんじゃないか?」
少し考えた素振りを見せた男の子は納得した様子で言った。
「オッケー、いいよ。勝ってくる」
そうして次の対局に向かった。父親がすまなそうな様子で感謝を口にした。
「ほんとにすみません。割と大会で勝ち進めるようになってからずっとあんな感じで、正直嬉しさと心配が同時にあるんです。先生はどう指導なさるようにしているんですか?」
「いえ、本人がしたいようにさせていればいいんです。ああいった態度も負けを経験すれば徐々に丸くなって行きますよ。ああいう子が一番伸びるんです」
「そうですか。ではもうちょっと気長に様子を見ていこうと思います」
そう言って夫婦は自分の子供の対局を見に行った。
職業として将棋が指せるようになる子はどんな子なのかも割と聞かれる。
将棋のプロ棋士と呼ばれる職業は、小学生の頃から大会で勝ちまくる角が強い子たち数百人を十年以上共に戦わせ続けて未だに尖り続けた4名が毎年なれる。数百人の内の4人だ。大抵の子は性格も将棋も丸くなって勝てなくなり、脱落していく。一年やそこらで脱落するのはまだいい方で、戦う期間が長くなればなるほど脱落するのが悲惨なものとなる。そう考えるとプロ棋士になんかならん方がええなと思えてしまう。いや、それがきっと正しい選択だし常識的な考えだ…と、プロになってから20年越しに感じるようになった。将棋という競技は美しくも醜い奇跡のバランスを保っている。それに魅入られた私はもう健常者にはなれないだろう。
美醜の奇跡 ツキノワグマ @tukino_waguma
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