第4話

「今日がおまえの人生で最も美しい日か」

 今日もレブラが問う。フレデリカは既にベッドを出て、鏡の前で髪を梳いている。

「あー…違う。御覧のとおり今日の私は綺麗だけれど」

 おどけてそう言ってみたのはほんの気まぐれだった。ここ数日はよく眠れているからだろうか、鏡に映る自分が普段より美しく見えたのは本当だ。髪の艶も肌の張りも良好。二十代の中頃か、もしかしたらそれ以上に若々しい。それが少しだけ嬉しくて、少しだけ自慢したくなったのも否定できない。だが相手が相手だ。

「そうか」

 返答は相変わらずだった。水を差されたフレデリカは鏡越しにレブラを睨んでみるが、既に背を向け部屋を出るところだった。その背中が見えなくなっても暫く睨み続けたが、そうしているうちに香ばしい匂いが漂ってきて、フレデリカは負けを悟った。

冗談ジョークには冗談ジョークで返すべきだと私は思うんだけど」

 出されたマグカップを口へと運びながらフレデリカが言う。いつの頃からか二人分のコーヒーを淹れるのはレブラの役目になっていた。先人の弁を借りれば、良いコーヒーとは悪魔のように黒く地獄のように熱いらしい。頑迷なまでに手順に忠実に淹れた悪魔レブラのコーヒーは少なくとも外見上は黒く、寝起きのフレデリカの身体を温めるのに十分な程に熱かった。

「なんのことだ」

 レブラは飲みかけのコーヒーをテーブルに置き、問い返す。

「さっきの会話」

 フレデリカが短く答え、レブラは少しだけ間を置いた。反芻するほどの量の会話もしていないだろうに、とフレデリカは呆れる。

「おまえは、今日は最も美しい日ではないと言った」

 まったくもって必要最低限の要約。フレデリカは一旦肯定する。

「そうね、額面通りに受け取れば」

「誤りだったと言いたいのか?」

冗談ジョーク冗談ジョーク。嘘とも誤りとも違う」

「そうか」

「わかっていないでしょう、絶対」

 フレデリカはため息をつく。話しているうちに冗談を流された不機嫌もどこかへ消えてしまった。レブラの反応は聞くまでもなくわかっていたことだった。この悪魔に気の利いた返しを期待した自分が悪い。そもそもどんな返答を期待していたというのか。

 期待したほうが悪いと言えばこの悪魔も同様だ、とフレデリカは思う。考えてみれば意地悪な契約だ。不老となる瞬間は人間が決定する。それはつまり、もっと美しい瞬間があったのではないか、或いは既に最も美しい瞬間を逃したのではないかと後悔する余地が組み込まれているということだ。その後悔をわらうのだとしたらいかにも悪魔らしい。だがそれは美に固執する人間であればの話であって、フレデリカはそうではない。今この瞬間に止めてしまおうと後悔はしないだろう。そうしないのは、あまりにレブラが馬鹿真面目に最も美しい瞬間に拘るものだから影響されてしまっているだけだ。

 互いに良くない相手と契約を結んでしまったものだね、とフレデリカはレブラを憐れむ。復讐に魂を捧げたはずが望みもしない対価を持て余す人間わたし、忠実に履行したい契約がいつまで経っても進まない悪魔レブラ。上手くいかない者同士、そういう意味ではお似合いだ。

 フレデリカがそんなことを考えていると、唐突にレブラが口を開く。

悪魔おれたちは、嘘を禁じられている」

「?」

 半ばフレデリカに話しかけるようで、半ば独り言のようだった。何が始まるのかわからず、フレデリカは黙って言葉を待つ。

 カップに手をかけ、一口含んで、レブラは続ける。

「誤りも同様だ。契約に齟齬そごがあってはいけないからだ」

 私との契約は齟齬そごまみれだと思うのだけど、とフレデリカは指摘しようとした。しかしレブラが続けた一言に、糾弾の言葉は全て吹き飛んでしまった。

「嘘でも誤りでもないのなら悪魔おれにも冗談ジョークは問題ないと言える」

「何を言っているの」

 レブラが、冗談ジョークを? つい先刻自分が要求したことも忘れてフレデリカは固まってしまう。あまりにかけ離れた二つの要素は彼女の中でどこまでも背反する。しかしレブラは至って真面目な様子だった。真面目だからこそ背反するのだが。

「おまえが言ったことだろう。冗談ジョークは嘘とも誤りとも違う」

「言ったけれど、そうじゃなくて」

「…それも冗談ジョークなのか?」

 レブラは特に答えを期待しているわけでもなかったようで、飲みかけのコーヒーを再び飲み始めた。フレデリカはどうにかして納得できない部分をを伝えようと言葉を探したが、やがて諦めた。

 私が人生で最も美しい瞬間とやらを迎えるのと、この悪魔が冗談を口にするのと、果たしてどちらが先になるだろう。どちらの瞬間も永遠に訪れないのではないかとフレデリカには思えた。

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