第3話

 悪魔はレブラリアトゥヌスと名乗った。身を焼く炎という意味らしい。

 舌を噛みそうな名前だったのでフレデリカは次第に縮めてレブラと呼ぶようになり、悪魔も特に咎めることはなかった。

「今日がおまえの人生で最も美しい日か」

 カーテン越しの朝陽を背負い、ベッド脇に立ったレブラが問いかける。この数年、もう何度も繰り返された問いだ。

「…たぶん違う。昨晩は飲みすぎた。こんな浮腫むくんだ顔じゃダメだ」

 身体を起こして寝癖を直しながらフレデリカが答える。日によって仔細は異なれど概ねもう何度も繰り返された答えだ。

「そうか」

 レブラの声色は特に残念そうでもない。ただ事実確認をしただけ、というよりも半ば習慣として言っているだけのようにフレデリカには感じられた。もし仮に今日がその日だと答えたらどうなるだろう。驚きを顔に出してたじろぐだろうか。目を輝かせて喜ぶだろうか。想像を巡らせてみるが、どう考えても今と同じ反応しか思い浮かばなかった。

 今も変わらずフレデリカにとって悪魔レブラとの契約は馬鹿馬鹿しいものであった。絶世の美女に変身できるというのならまだ使い道もあろうが、ただ自分のまま不老となるだけだ。かつてこの契約を結んだという魔女はさぞかし己が姿に自信を持ち、自分自身を愛していたのだろう。フレデリカとは相容れない。

 しかしどれだけ下らなく思っていても契約は成立してしまっている。老いを止めようが止めまいがフレデリカの死後その魂はレブラのものだ。茶番のような契約に人生を縛られてしまうことも腹立たしいが、魂ひとつ捧げておきながら何ら得るものがないのはそれ以上に腹立たしい。これはフレデリカの叛逆はんぎゃくであった。暗い海に大人しく沈んでやるものか。足掻いて藻掻いて、波紋の一つ、飛沫の一つでも残してやる。悪魔を呼び出したあの日、せめて迎えてやろうと決めたのだ。最も美しい瞬間というやつを。

「前から思っていたんだけど」

 トースターからパンを取り出しながらフレデリカが言う。皿は一枚。その上にパンを乗せ、ベーコンとレタスを加える。

「その最も美しい瞬間って、悪魔あなたが決めるわけじゃないの? いつ訪れるか分からないわけ? その、魔法とかで」

 言いながらマグカップにコーヒーを注ぐ。マグカップは二つ。ひとつを自分の手前に、もうひとつをテーブルの向かいに。食事は不要だとレブラは言ったが、一人だけ食べる後ろめたさに耐えきれなくなったフレデリカがせめて飲み物だけでもと強要して以来、毎朝の一杯は彼の習慣となっていた。カップを口へと運びながらレブラが答える。

「予見は可能だが、揺らぎも大きい」

 淹れたてのコーヒーを熱がる様子もなくクイと飲み干してしまうレブラを見て、やはり人ではないのだとフレデリカは思う。

「それに、俺は人間ヒトの審美を知らん」

「そんなこと気にするんだ」

 フレデリカは意外に思った。殆ど必要最低限のことしか語らないレブラがわざわざ言葉にしたということは、彼の中でそれは重要な位置づけにあるということだ。

 一方で腑に落ちる感覚もあった。相手の事情など構わず契約の履行を優先するのも、相手が望む形での契約の成就に拘るのも、根は同じだ。この悪魔はどこまでも契約に忠実なのだ。

「それじゃ、私が今じゃないと言う限りいつまでも縛られるわけだ、あなたは」

「そうだな」

 レブラが肯定するのを聞きフレデリカの口角が僅かに上がる。しかしレブラは「だが」と続ける。

「それは何かおまえに得があるのか?」

 上がっていた口角が元の位置に戻る。

「無いよ、別に」

 何が面白くなかったのかフレデリカ自身にもよくわからなかった。

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