第2話

 フレデリカ・トラヴィスにとって叔父ギュンターは信頼できる大人だった。厳格さと癇癪かんしゃくを取り違えた両親と違い、穏やかながら忍耐強く冷静に問題を解決へと導く能力の持ち主だった。彼の助言と人徳は実兄、すなわちフレデリカの父が経営する会社の危機を幾度も救ってきた。幼いフレデリカもそれを感じてきた。だから両親が事故でこの世を去った後、叔父が会社を継ぐことに何の疑問も持たなかった。

「全て計算ずくとも知らずにね」

 フレデリカは吐き捨てるように言う。ギュンターは忍耐強く冷静だった。愚かだと見下してきた兄はその愚かさゆえに虎穴に入ることを恐れず、幸運を味方につけて虎児を得た。狡猾な弟はそれならば兄から虎児をかすめ取ろうと決めた。幾度となく降りかかった会社の危機も、夫妻の間に撒かれた不和の種も、その先に訪れた悲劇も、全てはギュンターの筋書き通りだった。

 本来ならばフレデリカが知ることはなかっただろう。その方が幸せだったかもしれない。悲しみの記憶を薄めながら時に聡明な叔父を助け、新たな人生を歩めていたかもしれない。だが彼女は知ってしまった。何がきっかけであったかは今や思い出せないが、真相を知った瞬間から彼女の人生は重く深い海に落ちた。優しい光にあふれた日々は薄氷の上の幻想だった。砕けた氷は最早しがみつくことを許さず、温かく楽しい思い出は今や愚かさを嘲る忌まわしい過去に変わった。

「さぞ愛らしかったでしょうね、何も知らずに懐く娘は」

 事実、ギュンターはフレデリカを気にかけていた。養子に迎えた彼女に対して父親以上に父親らしく接し、小さな悩みにも親身になって向き合った。慈善家として振る舞う以上は孤児を見捨てられないという事情はあっただろうし、もしかすると従順な手駒を育てようという目論見もあったかもしれない。だがそれらを差し引いても、ギュンターはフレデリカを憎からず思っていた。ある種の親近感を覚えていたと言ってもいい。愚鈍な兄の忘れ形見はその面影を感じさせず、顔立ちや物事の考え方はむしろギュンターに似ていて、どこか他人のように思えなかったのである。

 そう、似ていた。フレデリカもまた冷静で忍耐強かった。叔父の裏切りを知った彼女は自らの人生が嘘と悪意の延長線上にあることに動揺し、それを享受してきた自分を呪った。慟哭どうこくの後に彼女に残ったのは、元凶たる叔父への怒りと憎しみであった。しかしフレデリカは怒りをぶつけることも憎しみのままにはしることもしなかった。何も知らない健気な姪を演じ続けることを選択した。その仮面の裏で重く冷たい水に身体を浸し続けた。とわかっていた。復讐心に気づかれていないことが最大の武器だと理解していた。準備を整え、最も効果的な、最も耐え難い、最も恐ろしい瞬間の訪れを待った。

 義父に似たのが冷徹さと忍耐力であるならば、実父に似たのは獲物を掠め取られてしまうすきだったのかもしれない。フレデリカの復讐の機会は唐突に、そして永遠に失われてしまった。何の因果かギュンターもまた事故に遭い、生死の境を彷徨さまよった末に帰らぬ人となったのだ。今際いまわきわに彼が悔悟かいごの念に涙したか、その罪を咎められることなく逃げ切れたとわらったかは誰にもわからない。

 復讐を失ったフレデリカに残されたのは、表面的にはこれまでと何ら変わらぬ生活であった。優しかった義父を悼むフリをして、その遺産を食い潰して生きる。簡単なことだった。誰よりも長く手本を見てきたのだから。

 それが生きているとは呼べないと彼女にもわかっていた。身を浸す冷たさを憎悪の炎で誤魔化してきたフレデリカはいま、熱量の残滓によって永らえているに過ぎない。かといって再び熱を灯す気にもなれなければその相手もいない。緩やかに死に向かうその日々を、フレデリカはもはや享受していた。

 そんな折に出逢ったのは一冊の本だった。時代が時代ならば処罰の対象であっただろう禁書は今や道楽の手段になり果てていた。面白半分に読まれ飽きられ人の手から人の手へと渡り歩いたその本は、フレデリカのもとへやってきた。

 フレデリカも軽い気持ちだった。本気で悪魔に縋るつもりなど無かった。けれど一瞬、想像してしまった。突然死後の世界から呼び出されて戸惑う叔父。狼狽うろたえるその顔を指さして「全部知っていたぞ、馬鹿にするな」と告げる自分を。それができたらさぞかし胸のすく思いだろう。そう思ったとき、久しぶりにフレデリカの口に笑みが戻ったのだ。


「で、その結果がこれとはね」

 自嘲の笑みと共にフレデリカが言う。視線の先の悪魔は相変わらず微動だにせずにいた。フレデリカの身上に興味があるようには見えなかったが、聞いていなかったわけでもないらしい。

「話は終わりか」

 悪魔が問い、フレデリカが返答する。

「ええ。願いを変えてくれる気になった?」

「不可能だ」

「そう。最悪」

 悪魔によればフレデリカの描いた魔法円は、大昔の魔女が考案したものらしい。“人生で最も美しい瞬間にこの身の老いを止めよ”。美貌に固執こしゅうした彼女はその魂と引き換えに美の永続を願った。あまりに下らない、とフレデリカは思った。死後の安寧などフレデリカにはどうでもよかったが、自分の魂がよりにもよってこんなことに消費されてしまうのかと考えると呆れてしまう。

 沈黙が流れた。互いに話すことなど無いのだから当然と言えた。フレデリカは何も考える気になれなかった。人生を為すひとつひとつは悲劇だが繋げて纏めれば喜劇だと言ったのは誰だったか。上手いことを言うものだ。こんな下らない結末、笑うほかない。

 と、悪魔がおもむろに口を開く。

「殆どの人間は」

「……?」

「遅かれ早かれ、悪魔おれたちとの契約を後悔する」

「……」

「おまえは他より少し早かった。それだけだ」

 それだけ言うとまた悪魔は黙り込む。反応を求めているようにも見えない。フレデリカには悪魔の意図が見えなかった。怠惰に沈もうとする思考を無理やり引き戻して乱暴に頭を働かせる。またもや沈黙が流れるが、先刻とは一秒一秒の密度が違う。数巡の思考の果てに、フレデリカは一つの答えに行き着いた。行き着いたのだが。

「…もしかして、慰めているつもり?」

 尋ねながらフレデリカはそんな馬鹿なと自答する。第一慰めになっていない。これまでに悪魔の力を頼った者の後悔など知ったことではないし、そもそも私は頼れていない。その前段階で転んだのだ。もし本当に慰めているつもりなら、悪魔の言葉はあまりに的外れだ。

 悪魔は肯定も否定もしなかった。その代わりにフレデリカへと向き直り、やはり感情の感じられない表情と声で、こう問うた。

「それで、俺はいつおまえの老いを止めれば良い?」

「え?」

 フレデリカは一瞬呆気にとられ、思わず吹き出してしまった。なんだこの悪魔は。まるで私が乗り気で契約に臨んだかのように言うではないか。ああ、確かに契約は成立したとも。悪魔こいつにとって大事なのはそちらで、私の都合など知ったことではないということか。それにしても、こんなに馬鹿正直に!

 悪魔とはもっと饒舌じょうぜつ狡猾こうかつで、駆け引きに長けた存在だと思っていた。目の前の男は真逆だ。フレデリカはこみ上げる笑いを抑えきれなくなっていた。それは現世に引き戻されて狼狽うろたえる叔父を想像したときとはまた別種の、そのずっと前から忘れていた、久しぶりの笑いだった。涙を拭ってフレデリカは尋ねる。

「悪魔。おまえ、名はあるの?」

 何故こんなことを聞いたのだろうと疑問に思う。きっと予感していたのだ、長い付き合いになると。

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