クロノスタシス
御調
第1話
一切の変化は見えなかった。
見えなかっただけではない。音にも匂いにも変化はなかった。何かに気を取られたということもない。瞬きすらしなかった。
フレデリカの目の前、今の今まで何も無かった筈の空間に男が立っていた。突然現れた、と言うべきなのだろうが、果たしてそれが正確な表現だろうか。あまりに当然のように佇んでいるものだから、フレデリカには男はずっと昔から居たのかもしれないとさえ思えた。部屋を舞う
目が合っても男は反応らしい反応を示さなかった。ピクリとも動かず、呼吸さえ感じさせることなく
思わず一歩引いたのは、見上げる角度を正すためか、それとも怯んでしまったのか。なるほど、これが。
「…悪魔」
無意識に出た自分の声で、フレデリカは目の前の存在が何者であるか認識する。そう、これは彼女が召喚した悪魔だ。本に書かれた召喚儀の手順も魔法円もそれらしく見えはしたが、本当に成功するとは信じていなかった。しかし男の異様さは理屈を要さぬ確信として、彼が本物であると告げていた。
それにしても悪魔というのは、挿絵の印象からだろうか、もっと
「用が」
何の前触れもなく、重い声が響いた。それが悪魔の口から発せられたのだと気づくまでにフレデリカは数瞬を要した。
「無いのなら帰るが」
悪魔はそれだけ言うと、必要なことは告げたとばかりに再び口を結ぶ。言葉とは裏腹に動く気配はないが、現れた時のことを考えれば次の瞬間には消えていてもおかしくない。
「・・・用は、ある」
フレデリカは努めてゆっくりと声に出す。悪魔は反応を見せないが、去る様子もない。続けろということで良いだろう。
「
フレデリカは一息で言い切る。言い淀めば落ちた言葉が永遠に失われそうだった。
悪魔は相変わらず無反応、かと思いきや少し間をおいて小さく息を吸い、最小限だけ口を動かして、問う。
「代償は理解しているな」
フレデリカは頷く。悪魔が代償について尋ねてくるのは本にあった通りだ。
「私の死後、魂は天に還ることなく
フレデリカが指し示した方へ悪魔が視線を動かす。悪魔を囲むように描かれた魔法円、幾何学模様と不可読の文字列で作られたその円の一部に、彼女の名が記されていた。
「良いだろう」
悪魔がそう言った瞬間、鼓動が一度大きく跳ねた。冷たい何かが血流に乗り、一瞬で全身を巡ったような気がした。長い間息を止めていたかのように呼吸が荒くなる。
「…契りは成った」
悪魔がそう告げる。フレデリカは呼吸を調えながら、悪魔への望みを頭の中で復唱する。死後の安寧を捨て、彼女が望むこと。
「では私の望みを聞け。死者を…私の叔父ギュンター・トラヴィスを
フレデリカは初めて悪魔の表情が動くのを見た。僅かに眉を寄せる程度であったが、これまでで最も大きな変化だった。違和感を口に出す前に、悪魔が言う。
「不可能だ」
「…悪魔は何でも望みを叶えるものだと聞いたけれど?」
フレデリカは気圧されないよう精一杯の威厳をもって答えたが、悪魔は反応しない。しばらく何か考えていた様子だったが、やがて浅くため息を漏らした。
「やけに古い召喚儀だと思った」
「?」
悪魔はゆっくりと屈む。片膝を立てる形になってようやくフレデリカと目線が揃う。
「望めば叶う。だが一つの魂に一つだ」
「だから私は死者を…」
フレデリカの抗弁を無視して悪魔はそのまま屈み込み、床に描かれた魔法円に指を置く。
「他人のものをそのまま真似たな」
内容を理解もせずに、と言外に言われているのが分かった。フレデリカは口をつぐまざるを得なかった。その反応を見てか見ずにか、悪魔は半ば独り言のように続ける。
「全て組み込まれている。望みも」
円上の文字列とそれらを繋ぐ線を指でなぞっていたが、ある一群で動きを止めた。「ここだ」と指で叩いて示し、読み上げるように言う。
「“人生で最も美しい瞬間にこの身の老いを止めよ”」
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