姥皮
増田朋美
姥皮
その日、杉ちゃんと蘭は、この暑い中だというのに、刺青のお客さんから招待を受けて、ある合唱団の定期演奏会にでかけた。蘭はお出かけ用の絽の着物を着てでかけたが、杉ちゃんは黒大島のままだった。蘭は、そんな格の低い着物は、演奏会にふさわしくないと彼に注意したのであるが、杉ちゃんは何も聞かなかった。
コンサートは、高田三郎とか、ジョン・ラターの歌を歌う平凡なコンサートであった。みんな大きな拍手をしていたけれど、杉ちゃんは、どうせなら、メサイアとか、そういう大作を聞きたかったなとか、そんな事ばかり言っていた。
アンコールに木下牧子のかもめが歌われて、杉ちゃんたちは、出演者たちに見送られて帰ることになった。二人が、かかりの人に手伝ってもらいながら、ホールの廊下を移動していると、蘭の目の前を、黒に地紋も何も一切ない着物を身に着けて、金の袋帯を文庫結びに結んだ美しい女性が通り過ぎようとした。しかし、その着物は、本当に、黒一色で柄がなく、両肩と背中と袖に桐紋が入れられてあるだけの着物であった。蘭は、思わずそれが気になって、
「ちょっとあなた。黒紋付で、コンサートに来られるなんておかしいじゃありませんか。本来は、お葬式で使う着物ですよ。」
と、彼女に声をかけた。女性は、足を止めて蘭の方を見た。確かに、西洋的な雰囲気は無いが、東洋的な、いわばアジア的な美女である。ヴィヴィアン・リーの様な美女というより、小野小町の様な美女というべきなのかもしれない。
「だから、その着物はですね、お葬式で使う着物で、こういうコンサートに着るものではありません。ご存知なかったんですか?」
蘭は彼女にいうと、杉ちゃんも、
「確かに、黒大島と黒紋付ではちょっと意味が違うぞ。まあ確かに、宝塚音楽学校では、卒業生に黒紋付を着せることもあるし、邦楽などでは礼装として用いられることもあるが、でも、こういう洋楽のコンサートに着用してしまうのは、間違いじゃないけど誤解されるからやめたほうがいいよ。」
と、注意をした。彼女は、やっぱりだめだったかという顔をして、
「すみません。着物に詳しい人は、やっぱりわかってしまうんですね。単に目立ちたくないというだけで、この着物を買ってしまいましたが、やっぱり間違いだったんですね。申し訳ありません。」
と、杉ちゃんたちに素直に頭を下げるのだった。
「そうだよ。着物のルールは守ってもらわなくちゃいかん。ある人は、邦楽の発表会に黒紋付を着ていたそうだが、タクシーの運転手にお葬式ですかとからかわれたそうだ。そういうこともあるから、黒紋付を善の意味で使うのは間違いではないけれど、今は、葬式にしか着ないと言うやつが多すぎるから。」
と杉ちゃんがまたいうと、
「そうだったんですね。てっきり、黒で下半身に華やかな柄の着物もありますし、色一色で何も柄のない着物もありますから、それと同じだと思ってしまいました。ごめんなさい。」
と、彼女は言った。その発音は極めて不正確で、蘭は東洋的な美女ではあるが、日本人ではないと直感的に思った。
「はあ、お前さん知らなかったの?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、知りませんでした。誰も教えてくれる人が居なかったから。」
と、彼女は答えた。
「おかしいね。今は文献とか、インターネットでも情報は拾えるはずなんだけどねえ。そういうものも持ってなかったの?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。日本語の着物についての本はまだ読んだことがなかったんです。」
彼女は答えたのであった。
「失礼ですが、中国の方ですか?」
蘭はそう彼女に聞いた。女性は、やっぱりわかってしまったかという顔で
「そうです。ですが、漢民族ではありません。一応、漢語は習いましたけど、こちらに来るまでは、ビジ語を使ってました。」
と、答えたのであった。
「はあなるほどねえ。まあ、部族名はわかんないけど、いずれにしても、日本人ではなかったんだね。そういうことなら、しょうがないな。じゃあ、日本の着物のルールをもう一回ちゃんと勉強するんだな。黒紋付は、こういうコンサートでは着用しない。わかった?もしするんだったら、訪問着とか、そういうのを着るんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、女性は、とてもうれしそうな顔をして、
「ありがとうございます。漢語で表記されていた着物にまつわる本で覚えるのでは、やっぱりだめですね。そういう親切な方が居てくれて嬉しいです。何かお礼をさせてもらえませんか?なんかせっかく教えていただいたのに、こんなところでお別れしてしまうのは、なんだか申し訳なくて。」
というのだった。そういうところは、やっぱり、日本人ではなく、漢民族でも無いんだなということが杉ちゃんにも蘭にもわかった。
「いいよ。時間あるし、ここのカフェでお茶していこう。」
と、杉ちゃんが言ったため、三人は、コンサートホール付属のカフェに言った。女性は自分が出すので何でも食べてくださいといった。杉ちゃんたちはとりあえず、アイスコーヒーを一杯頼んだ。
「それで、お前さんは、どっから来たの?相当な田舎者のようだけど?」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、湖南省です。日本に比べると、一年中暑くて、不便なところですよ。スマートフォンも通じないし、電気もガスも無いところもあります。何より私達ビヅカには、文字がありません。」
と彼女は答えた。
「へえ、なんか本当に未開の部族だね。まあ確かに、文字を持っていないというのは、インカ帝国などでもあったけどさ。この便利な時代に文字が無いというのは、相当な田舎者だ。」
杉ちゃんに言われて、彼女はとても恥ずかしそうな顔をした。
「いやあ、恥ずかしいことではありません。そういう人たちは、家族のありがたさとか、当たり前のことに感謝する気持ちがあることはちゃんと知ってますからね。別に未開の部族の出身であっても、僕は気にしませんよ。差し支えなければ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
蘭は、彼女に聞いた。それはもしかしたら、また何か考えているような言い方だった。
「はい、野上と申します。中国語で別の名字がありましたが、それを名乗っていても損をするばかりなので、日本の男性と結婚して野上梓と名前を改めました。名前は梓を訓読みしてあずさです。」
「野上梓さんね。日本では、なにか仕事をされていたのですか?」
彼女、野上梓さんが答えると、蘭はすぐに聞いた。
「はい。サービス介助士の資格をとって、タクシーの運転手をしています。中国に居た頃は、さんざん人にバカにされていじめられて来て、日本にきてやっと立ち直ることができたから、それでは、こちらにお返ししたいと思いまして。」
「サービス介助士。ああ、電車とかタクシーに乗るときに、歩けないやつとか手伝う仕事だね。なるほど。それじゃあ、見かけによらず、力持ちだね。」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、こう見えても、体力と根性なら自信がありますよ。」
と、彼女は答えた。
「それなら、ちょっと、お願いがあるんです。連絡先を教えてもらえませんか?」
蘭はなにか思いついたように言った。
「はあ、お前さんまた何か企んでいるのかい?」
杉ちゃんがそうきくが蘭はそれを無視して、自分のラインを出して、彼女に、QRコードを見せた。彼女がスマートフォンを出して、急いでそれを読み取ると、
「お話の内容はラインでお話します。人助けだと思って、手伝ってください。あなたが、トゥチャ族であることは誰にも言いませんから。むしろ、そういう人種差別を体験している女性であったほうがいい。そうすればあいつだって、心を開くと思うんです。」
蘭はもう一度頭を下げた。杉ちゃんは、蘭が考えていることがすぐに分かってしまったらしく、やれれまたかという顔をしたが、
「まあ、お前さんの魂胆は、いずれも失敗しているけどさ。でも、やれるだけやってみな。」
と言った。そのうちに三人の前にコーヒーが配られたので、杉ちゃんたちはそれを飲んだ。予定通り彼女が代金を支払って、その日はそれぞれの家に帰った。
その翌日のことである。製鉄所に、大変美しい女性がやってきたということで、利用者たちは噂話で盛り上がっていた。なんでも、製鉄所に自ら女中さんになりたいということでやってきたという。最近はいくら女中さんを募集しても、全く応募がなかったので、ジョチさんは、彼女を採用することにした。名前は野上梓という女性であった。確かに、風呂掃除や、庭の掃除など彼女はよく働いてくれた。
「本当によく働いてくれますね。」
と、水穂さんが彼女に声をかけると、彼女は雑巾がけをしていた手を休めて、
「ええ。私の故郷も、こういう蒸し暑い気候だったのを更に強化した様なところです。だから、このくらいの暑さなんて全く平気ですよ。」
と言ってしまった。
「はあ、そうですか。随分暑さに強いんですね。」
水穂さんは、そういった。野上梓さんは、ちょっと恥ずかしそうな顔をして雑巾がけを続けた。
「雑巾がけが終わったら、ご飯にしましょうね。おかゆを作って置きました。たくさん食べさせてくれと要請がありましたので、たくさん作っておきました。」
「は、はい。」
梓さんは、廊下の雑巾がけを終えて、急いで台所に行き、おかゆを煮ていた鍋をあけてお皿におかゆをたくさん盛り付けた。
「どうぞ水穂さん。あたしは、ご飯を食べさせる手伝いもできるんです。寝たままで結構ですから、食べることはちゃんとしないとだめですよ。それでは、どうぞ。」
野上さんは、そう言って、おかゆのはいったお匙を水穂さんの口元に持っていった。水穂さんはそれを口に入れたが、咳き込んで吐き出してしまった。
「あら、あたしの味付けはまずかったですか?」
水穂さんは首を横に振った。
「変ですねえ。あたしはおかゆをちゃんと味付けしたつもりなのに。」
そういうおかゆは、唐辛子が効いていて、非常に辛い味付けであった。水穂さんは、咳き込んでしまって、返事ができなさそうであった。それを製鉄所の利用者たちが見ていて、
「あの女性は本当に、日本の人なのかな?」
とボソボソ呟いていた。
「もしかしたら違ってたりして。」
と別の利用者が言った。
「まあいずれにしても水穂さんを看病するには、向いてないかなあ。よく働いてくれる女中さんだけどさ。」
「まあねえ。ちょっと、ピントがズレているっていうか、何というか、、、。」
利用者たちも噂し合うほど、野上梓さんという人は、変なところがあるような気がした。
それからも、彼女は毎日製鉄所に来てくれて、一生懸命掃除をしたり、料理を作ったり、水穂さんの世話をしてくれたりした。確かによく働いてくれる女中さんである。こんな暑い中、何も文句一つ言わず働いてくれるのだから。野上梓さんが、一生懸命廊下を水拭きしているのを眺めながら、利用者は、
「ほんとよく働いてくれますね。」
なんて声をかけてしまった。
「どうしてそんなに、一生懸命働いてくれるんですか?それはもしかしたら、裏があるのでは?」
ちょっと好奇心のある利用者が、彼女にそう言ってしまった。
「い、いやあごめんなさい。だって雑巾かけるって、ホント珍しいじゃない。今の人は、大体の人が掃除機を使うはずだから、珍しいなと思って。」
「ごめんなさい。使ったことが無いんです。」
野上さんはそう答えた。
「え?掃除機を使ったことが無いの?」
利用者たちは顔を見合わせる。野上さんは、
「あ、いや、最新型のものは使ったことが無いだけで。」
と言ったのであるが、
「本当に掃除機で掃除したこと無いんですか?」
と、利用者の一人に言われてしまった。梓さんは、ちょっと、困った顔をして、
「ええ。」
とだけ答えたのであった。
「はあ、それはまた変わってますね。掃除機を使ったことが無いなんて。」
利用者は変な顔をしていった。
「なんだか当たり前のように、水拭き雑巾で掃除しているけど、それもまた何か理由があるんですか?」
別の利用者がそう言うと、
「いえ、単に水拭きが好きなだけで。」
と梓さんは答える。
「野上さん。」
不意に、水穂さんがやってきて、梓さんに言った。
「本当によく働いてくれることはとても嬉しいんですが、あなた、もっと大事な事隠してませんか。あなた、明らかに他の人とは階級が違うでしょう。もしかしたら、」
「いえ、あたしは、何も。」
梓さんはそう言うが、他の利用者が、それを止めることがなく、
「何もじゃないでしょ。なんか明らかにわけありでしょ。ねえ、ここに来ているんだったら、皆訳ありなんだから、もう話しちゃってよ。」
と、梓さんに言ってしまった。
「あたしたちも、みんな、家に居場所がなかったり、事情があって、家では、勉強できなかったりするんだから、あなたもおんなじよ。」
別の利用者がそう言うと、
「そうかしらね。」
と、野上梓さんは言った。
「そうかしらねってどういうことよ。あたしたちは、みんな裏ではつらい事情を抱えていたりするのよ。それならおんなじじゃないの。そう思ってさあ。もっと仲良くしましょうよ。」
はじめの女性が、梓さんにそう言うと、
「いえ、おんなじじゃありません。日本は、みんな同じ民族だからあたしのような苦労はしてこなかったと思います。」
梓さんは、雑巾がけをしながらそう言ってしまった。
「苦労?みんな同じ民族?」
利用者たちは顔を見合わせる。
「無理して隠そうとしなくていいですよ。その話し方から、紛れもなく、中国の方であることはすぐに分かります。そんな事隠し通そうとするほうが難しいです。それに、中国から来ているけれど、一般的な中国語とはまた違うんだなってこともなんとなくわかりますよ。」
水穂さんが、梓さんに言った。
「もうバレてしまっているのでしょうか?」
梓さんがそうきくと、
「ええ、確か、55の部族があると聞いていますけど、その中のひとつなのでしょう?それも、自ら名乗りたくない部族名の。」
水穂さんは、そういったのであった。
「ごめんなさい私。どうしてこういうふうに、すぐに分かってしまうんでしょうね。」
「謝らなくていいわ。」
ちょっとたじろいでいる梓さんに、利用者の一人が、そういったのであった。
「あたしたちも、世間からしてみれば、こんな年なのにまだ高校行っているんだし。働かないで何をしているんだって言う人はいっぱいいるわ。だからあたしたちも彼女と一緒よ。少数民族みたいなもの。だから、あなたのことは、黙っててあげる。」
「そうね。日本は、あなたが言うように、肉体的に民族が違うっていう国家じゃないけど、そういう職業や、身分での酷い差別があったことは同じこと。だったら、梓さんも同じことね。大丈夫、あたしたちは、あなたのことを、バカにしたり、面白がったりはしないわ。ここに居る水穂さんだって、すごいいじめられたりしたんだから、それとおんなじだって思えばそれでいいのよ。」
別の利用者もそういった。利用者たちは、とても優しいのだった。もし、他の現場で梓さんの正体がばれてしまったら、もう女中さんとして追い出されてしまうかもしれない。
「ここの人たちは、あなたのことを、少数民族であると言って、バカにしたりは絶対しないわよ。だから、気にしないでこれからも女中さんを続けてね。」
「そうそう。日本は冷たい人ばっかりじゃないんだからね。」
相次いでそういう利用者さんたちに、梓さんは、小さな声で、
「ありがとうございます。」
と言った。利用者たちはそれ以上、彼女の事を、今詰めて聞くことはしなかった。多分そうしても何も意味がないことを知っているからだろう。なので梓さんは、安心して、床掃除を続けることができた。
「え?ばれたんですか?それではまずいですね。」
梓さんから報告を受けた蘭は、そう言ってしまう。
「ええ。トゥチャ族という部族名は言いませんでしたけど、やっぱり簡単にバレてしまいました。製鉄所の皆さんも、水穂さんも、考えは鋭いです。」
梓さんは、申し訳無さそうに言った。
「そうですか。それでは、もう女中さんとして働くことは無理なのでしょうか?」
蘭は、がっかりした様子でそう言ってしまった。
「蘭さん。」
梓さんは、そう蘭に言った。
「この仕事、やっぱりやめさせてください。あたしには、無理なんですよ。どうせ、こういう身分であることがバレてしまって、追い出されるのが落ちですよ。」
「そんな!あなたのような人種差別を経験している人であれば、水穂に近づくことも可能だと思ったのに!」
蘭は思わず言った。
「いえ、無理です。あたしは、水穂さんに近づいて、関係を持つなんてとてもできません。それより、身分がバレてしまうのではないかという恐怖と、バレたあとの待遇が変わってしまうのが怖いから、私は、こういう仕事は無理なんです。もし、蘭さんが、水穂さんのことを知りたくて、それを伝える人材がほしいのであれば、他の人を当たってください。」
流石に外国人らしく、自分の言いたいことはちゃんと言ってしまうんだと蘭は思った。
「しかし、バレたとしても、あなたのような人であれば、水穂は追い出しはしないでしょう。あいつは、そういう冷たいことができる男ではありません。だから、そのまま続けてくれたっていいじゃありませんか?」
蘭はそう彼女に言うのであったが、
「いいえ、水穂さんはとても優しい方ですし、あそこの利用者さんもみんな優しい方です。だから、そういう方々だから、身分を大っぴらにして働いてしまうとつらくなるんです。蘭さん、日本の伝説には、姥皮というお話があるそうですね。」
と、梓さんは、そう言うのだった。確かに姥皮の伝説は、蘭も聞いたことがあった。それをかぶると、姿が醜くなるとか言うものらしい。それを使うことで主人公の娘は美しいのを隠して幸せを掴むという伝説であったはずだが、
「姥皮は、今の時代には存在しませんよね。そんな事を、優しく受け入れてくれる男性なんて何処にいますか。そんな物ははじめからいませんよ。」
梓さんは、にこやかに笑って蘭に言った。
姥皮 増田朋美 @masubuchi4996
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