第36話 お寝坊さんと朝の猫。
『―――レクト、そろそろ起きなさい?』
「うぁ……?」
ふと懐かしい声がした。
今となっては耳にすることの叶わないあの優しい声。
幾ら望んでも戻ってこない、日常の朝。
しかし彼はまだ微睡の中。
心を打つ声も眠気を吹き飛ばしてはくれない。
代わりに彼の意識を夢中の夢から引き上げたのは、柔らかくそして暖かい肉球の感触であった。
ぎゅむ。
頬に押し付けられる足。
僅かにちくちくと爪の先が当たる。
押したり引いたり、彼の反応を待っている。
「……ん、お前は」
瞼を開いた彼の視界に、一匹の猫が映った。
綺麗に色の分かれた三毛猫がじっと彼の目を見つめてくる。
その猫を見ているとなんだか微笑ましい気持ちになってしまって、手を伸ばして頭を優しく撫でてやりながら、口を開けて呼ぼうとする。
その子の名前を。
猫の名前を。
声にするべき、名前は。
「あれ、なんて名前だったんだっけ」
靄がかったように頭がぼうっとして、思い出せなかった。
「ごめんな。忘れちゃって」
彼は申し訳なさそうにするが、猫は知らん顔。
手をほっぺに押し付け続けて、彼の起床を待っている。
「……さっさと起きろって?」
ニャオと、猫は低い声で鳴く。
”当然だろ”と言わんばかりの態度だ。
そのふてぶてしい振舞いに、彼は思わず吹き出してしまった。
「―――そうだな」
頬にくっついた猫の手をそっと振り払い、一息に身体を起こして布団をめくる。そうしてベッドから立ち上がろうとした瞬間に、彼の視界はぐらりと揺れた。
「…っ!?」
世界が黒に覆われて明滅する。
その場にさえ立っていられずしゃがみ込む。
けれど、それでもなお終わりはなく。
床の感覚が消えて、彼は夢の中の闇に落ちていった。
§
そして目を覚ます。
「………ぁ」
懐かしい声はなく。
しかし布団は温かく。
そして何より、右頬に触れる柔らかい感覚。
「お、お前は…」
「あっ、起きちゃった!?」
彼がそちらに視線を向けると、少し前に見かけたことのあるアニマルガールがそこに立っていた。三毛猫模様のスカートをはためかせて突然の起床を驚く彼女の姿は、夢の中で見たあの猫を彼に想起させる。
(もしかすると、同じ猫なんじゃ……)
いや違う。夢の中で彼が見たあの三毛猫と、いま彼の傍にいる猫耳のアニマルガールは、毛並みこそ互いによく似ているが別の存在だ。
さっきのは唯の不思議な夢。
ほんの偶然の一致が起こっただけ。
そう考えさえすれば疑問なんて残りようもないのに、何かの因果を夢見てしまう。
しかし目の前の少女のどこか気の抜けたような表情を見ていると物事を難しく考える気も失せてきて、彼の口から適当な冗談が零れた。
「まさか俺が寝込みを襲われるとはな」
「べべっ、別に、何もしてないですよ!」
「…それは、無理があるだろ」
先程まで彼女がこちらに手を伸ばしていたのは何だったのか。
彼が自分の右頬に手を添えれば、不思議な温かさがそこに残っていた。
猫耳少女は不安そうな表情で尋ねてくる。
「……その。おこって、ますか?」
「いや、何でもないさ。おはよう」
「はい、おはようですっ!」
レクトが落ち着かせるように彼女の憂いを否定すると、猫耳はピョコンと跳ね、尻尾はピーンと直立して、とても元気な声が部屋を満たした。
その無邪気さに胸が暖かくなるのを感じつつ、彼は尋ねる。
「だけど君、この前タルジャと一緒にいたアニマルガールだろ? それがどうしてここにいるんだ?」
「タルジャさんはおしごとなので、そのおつきそいです! ご主人様はいつもいそがしいから、タルジャさんがボクのおせわをしてくれるんです」
成程と、納得する仕草。
だが主人が多忙で世話役も仕事をしながらとは。
新地球街の人々には休暇がないのだろうか。
それは冗談としても、目の前の少女からはもう少し面白い話が聞けそうだ。故に彼はまだまだ会話を続けたかったが、間が悪くガチャリとドアの開閉音。
僅かな朝日が扉の隙間から滑り込み、見知った少女が姿を見せる。
「失礼しま……っ!? レクトさんッ!」
部屋に入って来たコモモはレクトを一瞥し、息を呑む。
そして次の瞬間、決壊して溢れ出す感情全てを声と両足に込めて、彼女はレクトに飛びつきベッドの上に押し倒した。
「うおっ!?」
「レクトさん、お目覚めになられたのですね!」
「え? あぁ、まあな」
自分の行動の大胆さにも気が付かぬ様子。
抱き締める腕はとても力強く引き離せそうにない。
仕方なく抱擁の温かさを受け入れて、暫しして驚きの潮が引いてくることによりレクトは彼女の行動を冷静に分析することができるようになった。
何故に彼女は涙目になっているのか。
”お目覚めになられた”と、昼まで寝過ごしていた訳でもないのに。
一呼吸をおくごとに数日前の記憶が古いものから順に蘇って来て、その想起が途切れる瞬間はあの巨大なセルリアンとの戦いに勝利した直後のこと。身体を巡るメメの毒の力を解き放って、そして。
彼は、意識を―――
「いや、待て。俺はどれくらい寝てたんだ?」
「もう少しで四日が経つところでしたわ」
「……マジか」
そうだ。
自分は気を失った。
きっとあの力に耐えきれずに。
(―――それから、四日?)
血の気が引いていくのを感じた。
自分の存在さえ信じられなくなる気がした。
そんな彼の青ざめた顔から心情を察し、コモモが一言告げる。
「少し待っていてください、お水を持ってきますわ」
彼女は素早く部屋を出て、コップ一杯の水を持って戻って来た。
ごくごくと勢いよくその水を飲む彼の姿を安堵したように見つめながら、コモモは彼が眠っていた間の出来事をゆっくりと語ってゆく。
彼を頑張って村まで運んできたこと。
メメと一緒にレクトの面倒を見たこと。
あの
そしてエピリが村に現れ、メメと共に新地球街を見に行ったこと。
危ない出来事こそ無かったが、頭を悩ませることは幾つもあった。しかしつい先程、その悩みのうち最も大きい一つがパッと消えてなくなり、コモモの心の重石はほぼさっぱりと取り除かれてしまったようである。
繰り返し述べられる安堵の言葉は、涙の味を含んでいた。
「目を覚ましてくださって本当によかったです。そうでなければ、眠ったままの貴方を集落まで運ぶことになっていたかもしれませんから」
「そう、だったのか…?」
だがとりあえず、心配事を家に持ち帰る事態にはならずに済んだ。
「……目を覚ました理由が彼女なのは、とても不服ですけれど」
「ん、ボク?」
「そうですわっ!」
頬を膨らませて、コモモはイエネコへの嫉妬を露わにする。
「わたくしの時なんて、ハグも添い寝もキスも果てには噛み付いてしまっても一向に目を覚ましてくれなかったというのに…」
「ちょ、ちょっと待て!?」
「あらっ、どうかいたしました?」
どさくさに紛れて明かされた彼女の行いの数々。
あまりに驚いてしまって、珍しくレクトの声も上ずっている。
「お前、俺が寝てるときに色々やり過ぎだろ…!?」
「うふふ、ご安心ください。最後のは冗談ですわ」
「……冗談なのは最後だけか」
相変わらず暴走気味の好意に溜め息。
アクセルを全開にして、コモモはレクトを諭そうとする。
「恥ずかしがることなどありません。わたくし達はいずれ結ばれる運命なのですから。だからわたくしがしたことは全て予行演習ですの。将来はこれよりもっと……その、す、すごいことを………」
しかし、些かペダルを踏み込み過ぎたようだ。
自分の放った言葉を話しながらに反芻し、そうしている光景を頭の中で鮮明に想像してしまったコモモ。全速力を解き放とうとフル回転するエンジンで頬が凄まじい熱を帯び、頭から湯気が立ち昇るほどの勢いで赤く色づいた。
直後に名を叫ぶ。
何か綺麗な言葉を用意する暇もなかった。
「……れ、レクトさんっ!」
「俺のせいなのか…?」
暴走車両は止まることなく、そのボルテージは単調増加。
「わたくしのしたことがそんなに不満なら、同じことをわたくしにやり返せばいいのですわっ!」
「やるわけないだろ!?」
「…そうですか」
「わわ、けんかはよくないです…!」
なんだか収拾が付かなくなりそうな気配を漂わせていたが、唯一の傍観者であったイエネコが戸惑いながらも間に入ってこのケンカらしき何かを仲裁したことにより、お互いに冷静さを取り戻すことができた。
爆発の後には静寂。
沁みるような気まずさと、恥ずかしさが残る。
「……はあ、まあいい。で、帰りの荷車はいつ来るんだ?」
「エピリさんがこの村まで乗って来て、そのまま外で待っております。出発はいつでもできて、レクトさんの様子だけが問題でしたの」
そう言われ、彼はここで過ごした数日の記憶を思い返す。
当初の目当てであった『新地球街について知る』という目標は、どうにも達成しているとは言い難い。シベリアオオヤマネコと共に衍獣による盗難事件を解決したきり昏睡状態に陥ってしまったため、仕方ないことではあるのだが。
しかし。
彼は思う。
”結論”を出すことはできると。
自分自身について、そしてメメについて。
ほとんど彼女の気まぐれによるとはいえ、幾つも思い出すことができた。
だから判断ができる。
相手の思惑どうこうではなく。
自分が、どうあるべきかによって。
「だったら、帰りは早い方が良いな」
「いえ、起きたばかりで急に動いては…」
「……うっ!」
「ああっ、大丈夫ですか…!?」
とはいえ、長い眠りから目覚めたばかり。
いくら心が決まっていても、身体がそれについてきてくれるとは限らない。
眩暈と視界を覆う暗闇と、そして押し潰されるような息苦しさに苛まれながら、彼はなんとか謝罪の言葉を絞り出した。
「……悪い」
「焦らず、体調が戻ってからにしましょう。無理に今日出発しなくても、荷車は何日か待ってくださるそうですから」
胸を押さえて苦しそうに呻くレクトの身体を慎重にベッドの上に戻し、コモモは彼の背中を撫でながらそう言う。
大きな力を持つメメの蛇毒。
それを単なる人の身で解き放った代償は、当のメメが考えていたよりも相当に大きかったらしい。
(やっぱり、完全に元通りとはいかないか)
(やはりわたくしが、レクトさんを守って差し上げなくては…)
彼が、彼女が。
そんな風に思ったところ。
ここで。
四人目の声が聞こえた。
「そうですよ。病み上がりなのですから、どうかゆっくりご自愛ください」
「……あなたは」
その声を聞いてレクトは驚くが、すぐにそう不思議なことでもないと思い直した。
何故ならばイエネコがこの部屋にいるのだ。
その付き添いが近くにいるのも当然のこと。
彼は、ニコリと笑って挨拶をする。
「タルジャです。およそ一週間ぶりですね、レクトさん」
イエネコの世話係でもある、研究者の男は。
後ろ手にゆっくりと扉を閉めて、以前と同様に恭しく頭を下げた。
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