第33話 草葉の陰で交わる選択。
「はぁ、はぁ……!」
場所は、レクトが眠る寝室。脱兎の如く荷車の音から逃げ出してきたメメは、大口を開けて息をしながら彼の隣にだらりと寝そべった。
「もう、危ない所だったよ~…」
彼女は布団の上で、レクトは布団の中。曖昧な彼の身体の輪郭をなぞるように手を滑らせながら、だらんと手足を伸ばして覆い被さる。穏やかな寝息を立てながら白昼になってさえも安眠に沈み続ける彼の額に、メメは自分の額をくっつけてそして、燃えてしまいそうな心臓の昂りを感じた。
全力で走った疲労故の息切れは段々と鳴りを潜めて、代わりに顔を出した興奮による荒い吐息が彼の顔を温める。
「レッくぅん……なんで起きてくれないのぉ…?」
切ない声を掛けて、仄かに開いた彼の口を自らの唇で塞ぐ。
「…ふふ」
目は潤み。
口は歪み。
瞳の色が移ったように、頬は赤らんだ。
「あの時と一緒だね。あなたはこうやってまた、あたしのことを待たせる。……でもいいの、今度はきっと離れ離れになんてならないから」
彼女の目は遠い何処かを見ている。
声が震える過去を布団の端と一緒に握りしめている。
そしてそのまま、独りごちる。
「ね、そうでしょ?」
「うむ、そうに違いない」
しかし虚空に投げ掛けた問いに、答えを返す者がいた。
「……っ!?」
ビクッと大きく跳ねて、メメの身体は素早くベッドから飛び降りる。
恥ずかしい場面を見られたという羞恥の気持ちより遥かに大きく、聞こえる筈のない声が耳に入ってきたことへの驚きが彼女の胸中を占めていた。
恐る恐るといった表情で声のした方向を彼女が見ると、そこにはベージュのスーツを身に付けた麗しい女性が、”ニヤニヤ”という形容詞のよく似合う笑みを浮かべて立っている。
「あなたは…」
「おや、まさか覚えていてくれたとはね」
「……う」
頭の中で精査しないまま生の言葉が喉を飛び出し、返す刀の声を耳に聞き自らの浅慮を悔やむばかりだ。せめて誰何の言の葉ならば、まだ無知を取り繕うことができていただろうに。
苦し紛れに出てきた言葉は、皮肉にも足らない話題逸らしとなった。
「若いね。お化粧がんばってるの?」
「あはは、そんな化粧品があるとしたら大ヒット間違いなしだね」
近くにあった椅子の配置を座りやすいように整えながら、メメの精いっぱいの皮肉に対してエピリの口は願うべくもない夢を述べた。
要は無駄口である。
メメは目を細め、より形のある質問をぶつけた。
「何しに来たの?」
「君に会いに来たんじゃないよ。偶然、仕事が舞い込んだんだ」
「…ふぅん」
胡散臭い口調と振る舞いに際限のない疑いを抱きつつも、指摘できるような矛盾の目途やその証拠など一切持ち合わせていないため、メメは不承の心持ちを鼻を鳴らすことでしか表現できない。
対してエピリは話の種をわんさか抱えているらしい。
先ずは一つ。
前菜としては重すぎる事実確認を差し出した。
「コモモちゃんから聞いたよ。レクトくんに力を使わせたんだって?」
「……っ!」
自らの特異性を隠そうともしない攻勢にメメは目に見えてたじろぐ。エピリはその反応に更に納得を深めていくのだが、そんな泥沼への入り口に意識を向ける余裕など今のメメにはない。
念のため脚注を入れておくと、エピリはこの話をコモモから聞いてなどいない。メメの秘密を守り抜くために、彼女は事の顛末を説明する際にしっかりと重要な部分はぼかして伝えていた。
つまり、元々知っていたのだ。
メメが持つ毒の効能と、それがレクトに注がれていたという事実を。
「君の力、数十年が経ってもその壊滅的な影響力は全く衰えていないらしい。お陰で窮地を脱することはできたようだけど、その代償として彼は今……こんな状態になってしまった」
ちらりと、眠るレクトの横顔に目をやる。
「君の毒は、やはりどちらに転んでも大きな爪痕を残すんだね」
「……それでも、他に方法はなかったの」
多くを知る者に対して隠し立てなど、到底できたものではない。
そんな苦々しい諦念が、切実な声で成される弁明から感じられた。
だがエピリは。
彼女の知識欲は。
留まるところを知らない。
「そうかい? 君自身が戦えばよかったんじゃないかな? つい先日、あの湖で、君は凄まじい力を振るってレクトくんを打ちのめしてしまったばかりじゃないか」
彼女は次から次へと事実に言及していく。
その驚くべき情報収集の具合を目の当たりにしてしまうと、今更になってその真偽を確かめようとすることに意味などないようにも思えるが、回る舌の追及は止まる気配がない。
何故ならば、答え合わせからこそ得られる知識もあるから。
そして、”百聞は一見に如かず”だから。
科学者は正体を知っている筈の光にさえ、手を伸ばさずにはいられないのだ。
「…できなかったの」
「できなかった?」
ぽつり、メメの弱い反駁。
その言葉の意味を思案するエピリ。
暫しの停滞がずらりと並んだ過去の記憶を眺めて、明快な答えを得るまでにそう時間は掛からなかった。
「……ああ、そうだった。君は地縛霊だから、あの湖にいないと本来の力を発揮できないんだったね。やれやれ、当時の科学者たちも君という存在を抑え込むために、随分と大掛かりな儀式をやってのけたものだ」
そう言い放つ口調の中には確かに憐みの色が見て取れた。
彼女はメメに同情を寄せながら、其の体に注がれた狂気に見惚れていた。
「彼ら狂人が刻んだ呪いは未だ残っている。だからこそ、君は彼を頼った」
「さっきから何が目的なの、まさか昔話?」
段々とメメの返事に苛立ちが混ざってくる。彼女にとってエピリとの会話はただ只管に、遠い過去に風化して既に割り切ったはずの古傷を次々に抉られる苦痛に満ちた時間だった。
ああ、”人とはどうしてこんなに自分勝手なのか”とメメは嘆く。
「あはは、良いじゃないか」
エピリは暗い表情をした彼女を宥めるように話を続けて。
そして。
「私は結局伝聞でしかその話を聞くことができなかったから、こうして当事者に事実を確かめられる機会は貴重なんだよ。………ねぇ、ウロボロスちゃん? 」
「……っ!?」
さらりと。
当然のように。
周知の事実のように。
アニマルガールとしての、メメの本当の名を呼んだ。
「あなた、どうして―――」
「それともレクトくんの気持ちを汲んで、メメちゃんと呼んであげるべきかな?」
疑問の言葉を遮ってどうでもいいことを訊く。
その態度だけで、メメは何かを察した。
「どっちでもいいよ。好きな方で呼んで」
「そっか。分かったよ、メメちゃん」
「……」
尚もエピリはフランクに話し掛けてくるのだが、いっそ返事の体を成して発される音は舌打ちの一つさえも無くなった。
乾いた笑いが浮かぶ。
「悲しいね、もう嫌われてしまったかな。私は純粋に君たちの幸せを願っているだけなんだ。世界の運命の狂いによって歩むべき道を壊されてしまい、剰えそれが誰にも顧みられることなく終わってしまったのだから」
「……終わってなんかないっ!」
今更ながらの気遣いも、メメの神経を逆撫でするだけだった。
「…そうだったね。すまない」
少なくともまた返答を貰えるようになったという点においては、悪いものではなかったかもしれないが。
「そうだ。もうコモモちゃんたちには話したけどね、明後日になったら向こうの集落に帰る予定なんだよ。セルリアンが倒されたとはいえ、私が何も調べることなく戻るのは良くないからね」
椅子を立ち、部屋の窓に手を掛け勢いよく全開にして、エピリは懐から取り出した煙管に火を点けた。そっと口を付け、外に吐き出した白い煙はもくもくと空へ昇り雲の中に隠れる。
一服の後に振り返り、彼女はこう言った。
「そこで一つ提案なんだけど。……明日、一緒に出掛けてみないかい?」
おそらく嫌われてしまっている相手にこうも堂々と逢瀬を持ちかけられるのだから、いっそ見上げたふてぶてしさだ。
「どこに行くの?」
「……聞いて驚かないでくれよ? 新地球街さ」
その地名を聞いて、メメは顔をしかめる。
「ああ、そんなに険しい顔をしないでおくれ。ちゃんとバレないように変装はさせてあげるから。それに君だって見たいはずだよ、あのマッドサイエンティストたちの子孫が今、何をしているのか」
ドスンッ!
大きな音が鳴る。
何かと思えば、メメが怒りで床を踏み鳴らした音だった。
「よく言うよ。だったらあなたは―――!」
「まあまあ、落ち着いて。私だって申し訳ないと思ってるんだ」
蛇のひと睨み、エピリは痺れず。
じっと見つめ返して、メメを諭す。
「目を背けてはいられない筈だよ。彼らがレクトくんのことをまた狙い始めていると、気付いていない訳じゃないだろう? 彼がそんな立場になった責任は、果たして誰が負うべきなんだろうね?」
その言葉。
文法上では仕方なく疑問形を取っていたが、行間に含まれる意味は容赦のない断定であった。メメに対して、とてもストレートに責任を問うていた。
誰が何と言おうとレクトに力を与え、彼と縁を結び、そして水底に招き入れたのはメメなのだから。当然と言えば当然の道理だが、彼女が最後まで面倒を見てやるべきだろう。
「……分かった、行くよ」
「うん、良い返事だ」
彼女もそれを、よく分かっていた。
「じゃあまた明日の朝、この村の噴水で待っているよ」
その約束とタバコ臭い煙を置き土産にして、エピリは部屋を出ていった。残されたメメは、こんなやり取りの後でさえ呑気に眠っているレクトの頬を撫でて、また口づけをして。
横に寝そべり、白昼夢を貪ることにした。
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