第32話 一部分、まさに歯車。
月が地平線の彼方で眠りに就き、代わりにカーテンの隙間から部屋に忍び込んでくる朝日。この爽やかな光に付き添って聞こえてきそうな小鳥の鳴き声は、もう数十年ほど前に涸れてしまっている。
その光を目元に浴びて夢の世界から引きずり出されてしまったコモモは、ぱちくりと怠そうに瞬きをしながら上体を起こす。
「……レクトさん」
彼女が左手の方を見ると、彼は昨晩から一片も変わらぬ姿でまだ眠っていた。
だがコモモの心には僅かながらの希望が芽生えていた。この朝の陽気にかこつけて、まるで昨日の出来事が何でもなかったかのように彼があっさりと目を覚ましてくれるのではないかと。
その幻は現世に迷い込んだ夢の続き。そんな淡い望みと一緒に、彼女は時計の長針が半回転するほどの時間を過ごした。
やがて彼女は、本当の意味で夢から醒めた。
「……今、わたくしにできることをしなくては」
そういえばソファの方を見てみると、メメはいなかった。
先に起きて、外で何かしているのかもしれない。
ベッドから出て最低限の朝の支度を済ませ、コモモは部屋を後にした。
「では行ってきますわ、レクトさん」
返事はないと知りながら、それでも出発の挨拶をする。
彼女が部屋を出るその瞬間まで持ち続けた一縷の望みは、ドアが閉まるのと同時にプツリと切れてしまったようである。
§
「……あっ、コモモさん。おはようございます!」
「シベリアオオヤマネコさん。ええ、いい朝ですわね」
コモモが宿の玄関から出ると、朝の冷たい風と一緒にシベリアオオヤマネコが姿を見せた。軽くジョギングでもしていたのか、名探偵の額にはわずかながら汗の雫が浮かんでいる。
「レクトさんは元気になりましたか?」
そして出会うや否やそう尋ねてくる。
彼女もレクトの身を案じていたようだ。
だが朗報を伝えることはできず、コモモは悲しそうに首を横に振った。
「怪我などは一切ないのですが、まだ目を覚ましていません」
「そう、なんですね…」
コモモの返答を耳にして、名探偵の表情は暗く沈んだ。
「ごめんなさい。わたしが後先考えず、あのセルリアンを倒しに行くなんて言ってしまったせいで」
「責任を感じる必要はありませんわ。レクトさんであれば、どのみちアレを放っておくことはしなかったでしょうから」
「早く、目を覚ましてくれるといいですね…」
互いに慰めの言葉を掛け合う。
どうせ他に紡げる言葉もない。
彼が昏睡状態に陥った原因は既に分かり切っていて、その上で治療法はなく早い回復を祈るしかないという状況なのだ。誰も彼もが気を揉んで、息を呑み干して目覚めの時を待っているに違いない。
―――ただ一人を除いて。
「時間が解決してくれると思うけどな~。あたしが眠りに就いた時みたいに」
この朝っぱらから昼行燈のように頼りない、ふわふわと揺れるような声がする。二人がその声の在り処を向くと、白く儚い姿の蛇が立っていた。
「メメさん。今までどちらに?」
「ちょっと調べものをねえ」
「……調べもの?」
「もしかして探偵の出番ですかっ!?」
「ほら、この歯車」
懐に手を入れて、メメは黒い歯車を取り出して見せた。この場にいる彼女らは全員、その無機質なパーツの存在と出所を知っている。すると彼女はコレについて調べていたということだろうか。
「それはあの衍獣が落とした…」
「そそっ、なんか大事そうでしょ」
”何かありそう”というメメの直感に異議はない。
しかし手掛かりは皆無と言って過言ではなく、こんな金属の塊ひとつを渡されて『何かをしろ』と言われても精々、衍獣に力強く投げ付けて投擲武器として扱うのが関の山だ。
それでもメメはここに戻って来たのだ、何か進展があると期待しよう。
シベリアオオヤマネコに宿る探偵の血も熱く疼いているようで、もう我慢ならないといった調子でメメを問い質す。
「で、何か分かったんですかっ!?」
「……えへっ♪」
「分からなくて、戻って来たんですね」
”えへっ”って何だろうか。
恥ずかしげもなく無進捗を告げるメメに、コモモも少し呆れていた。
「でもでも、絶対に何かあるよ! きっと何かの手がかりだから、レッくんが起きてくるまでこれを調べてみない?」
「確かに何もしないでいるよりは良いですが……そもそも、この歯車から何を知ることができるのかさえ、わたくし達には見当もつきませんわ」
メメの手から歯車をひょいと取り上げて、つぶさにそれを観察した。
先ずは手触り。金属製品らしくひんやりとした触り心地をしているが、メメがさっきまで触れていた部分は体温が移ってほんのりと温まっている。また指先でなぞるととても滑らかで、表面はほとんど完全に磨き上げられているようだ。
次に重さ。これもイメージ通り、持つと両手がずっしりと鉛直下向きに引き寄せられる。外面だけでなく中身もしっかり詰まっているようで、一部品としては耐久性もよく担保されているとみて間違いない。
最後に外見。真っ黒なそれは金属光沢によって光り輝き、角度を変えると鏡のようにコモモや周囲の人物の姿を映す。
「……あら?」
更によく確かめようと彼女が歯車を裏返すと、そこで見覚えのないものが目に入って来た。
それは一言で表すと紋章。地球を模すように内側に図が描き込まれている綺麗な円の周囲を、虹のような蛇のような奇妙な曲線が囲んでいる、明らかに何かの意味を持つシンボルだった。
「このマークは?」
「コモモさん、わたしにも見せてくださいっ!」
ぐいぐいと身を乗り出して、名探偵もそれを確かめる。
「このマーク、何処かで見たような…」
どうやらデジャヴを感じているようだが、彼女の記憶がその現象を乗り越えることは今のところなかった。
「あたしも全然わかんないけど、そのマークは大事なヒントだと思うよ!」
「……本当に?」
そして知ったようなことを言うメメ。
そんな彼女を訝しむコモモ。
「いやいや本当だって、きっと何か重要な…」
「そうではありません」
「…え?」
ぴしゃりと、否定する。
「その口調、何も知らない人のものではありません。本当は、このマークの意味を知っているのではないですか?」
「……知らないよ~。あたしったら長く眠りすぎてて、レッくん以外についての記憶が朧げになっちゃってるの」
彼女の詰問はどうやら核心を突いていたようで、再びへらへらと誤魔化しの言葉を並べ立て始めるまでに、メメは数秒の時間を要した。
言い訳に傾ける耳も半分。
コモモはただ、メメのその動揺を得られただけで満足していた。
「……なるほど?」
「あちゃ~。まったく信じられてないや」
「まあまあコモモさん、一旦はこのマークについて考えてみましょうよ。もう少しじっくり眺めていれば、何か思い出せる気がするんです!」
シベリアオオヤマネコが送る意識外の助け舟。名探偵がそう言うならばと、模様がある面が上向きになるよう歯車を近くの地面に置き、それを三人で囲んで本当にじっくりと観察してみることにした。
しかし、頼りになるのは名探偵ただ一人。
数か月前に生まれたばかりのコモモはこのマークについて何かを知る由もないのだし、明らかに何かを知っているであろうメメはわざとそれについて口を噤んでしまっている。
二人が手持ち無沙汰に空を眺め、一人が地を見て唸るだけの時間。
そんな空虚な朝を切り裂いたのは、ゴロゴロと村に鳴り響く車輪の音だった。
「……あら、この音は」
コモモは耳に届く音に聞き覚えがあった。
つい数日前、彼女はこれを間近で耳にした。
というより、数時間を共に過ごした。
(荷車の音ですわ。何かが運ばれてきたのでしょうか…)
彼女がそんな推測をするのも束の間、隣から甲高い声がする。
「わわっ、あたしったら用事を思い出しちゃった―――!」
「え、メメさんっ!?」
なんと突然メメがその場で飛び上がり、訳の分からないことを口にしたかと思うと宿の中へと全速力で駆け込んでいってしまった。
「い、いきなりどうして……」
只管に困惑ばかり。
追いかけて理由を問い質そうにも答えてくれるかどうか。
これからどうしよう。
メメの奇行により生まれたそんなコモモの迷いは幸いなことに、遠くから聞こえて来た声によって一瞬で霧散することになる。
「やあみんな、元気にしてたかい」
「…エピリさん!」
「こ、この方は…?」
なんと、エピリが現れた。
森の集落にいる筈の彼女が、何故だかここにいる。その事実に驚きながらも、ひとまずは面識のないシベリアオオヤマネコにエピリを紹介して、そして名探偵にも自己紹介をしてもらった。
自信に溢れた挨拶を、エピリはとても楽しそうに聞いていた。
「それで、エピリさんはどうしてここに?」
一通りの様式美を終えて、本題に入る。
彼女はさらりと、自らの事情について話してくれた。
「この近辺で困ったことが起こったらしくてね。偶然私にその話が飛んできたから、事態の確認ついでに折角なら君たちの様子も見てみようと思って」
仕事、と表現するのが最も妥当であろう。
こんな場所まで来る辺り、エピリの手が届く範囲は本当に広い。
「そういえばレクト君は? もしかして寝坊かな」
「そ、それが…」
エピリにも、昨日からの出来事について説明をした。
メメとレクトの力のことは隠して話したが、あの衍獣は非常に強かったから、彼が陥っている昏睡の原因についても上手く誤魔化せていることだろう。
ともあれ、彼女が冗談交じりに言った”寝坊”という推測が、奇しくもとてもひどい形で的中したことになる。エピリにとっても想像より大ごとであったらしく、話を聞き終わる頃には若干疲弊した顔をしていた。
「……それは災難だったね。しかし話を聞いたところ、彼が撃退してくれたそのセルリアンこそが、私の手元に舞い込んできた厄介事の正体だったと思うよ」
つまり、レクトが知らぬ間にエピリの仕事を終わらせていたことになる。
また彼に感謝しなくては、と彼女は呟いた。
そして話のついでに、二人はエピリに件の黒い歯車を見せてみることにした。
「へぇ、これが…」
慎重な手つきで歯車を手に取り、観察を始める。
さらに一瞥、例のマークを見るとよりあからさまに笑顔になって、エピリは二人に向かってこう言った。
「運がいいね。君たちは良い物を手に入れた」
思わぬところで出会った手掛かり。
驚き、反射的に小さく跳ねて、そしてすぐさま聞き返す。
「このマークを知っているんですか!?」
「ああ、よく知っているとも。―――これが持つ意味は、『新地球街』」
「……っ」
コモモは、息を呑む。
まさかその名前がここで出てくるとは思わなくて。
しかし。
予想外は続く。
エピリは次にこう言った。
「そしてこれはね、刻まれた物体が『新地球街浸衍災害研究所』によって開発された発明品であることを示す、とても大事な刻印なんだ」
「その、研究所って…」
レクトを仕事に誘った、タルジャという人間が所属している、その研究所そのものだった。
だから、何なのか。
それが、何を意味するのか。
コモモにはまだハッキリと分からない。
けれども。
この歯車が、昨日倒したあの衍獣が、何か重要な意味を持つということだけは、深く確信することができた。
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