第31話 蛇は語らう。

 荒野での戦いの後に起こったことについて、レクトが身に染みて知っていることはとても少ない。何故ならば、彼はその時間の殆どを柔らかい布団の上で寝て過ごしていたからである。


 こう記述すると彼がさも怠け者のように映ってしまうかもしれないが、当然ながらそういうことではない。


 だがそれら事情の全てを此処で、冷たい平文のみで表現してしまうことは非常に味気ないため、コモモを始めとした彼を想う可愛らしい少女たちのやり取りを添えて明かしていこうと思う。


 始まりは、倒れてしまったレクトの介抱について。


 コモモらが荒野から戻り、昨夜に続き宛がわれた宿屋の一室で彼の世話をするところから、話は始まる。



 ―――卓上ランプの橙色の光が、レクトの頬を照らしている。



「……どう、呼吸は落ち着いてる?」

「はい、今はすっかり」


 メメがお盆に二杯の水を載せて持って来て、コモモはそのうちの一つを受け取り口をつける。残った一杯はベッドの横のテーブルに置いたものの、その水を飲むべき者は未だ眠りの中にいる。


 布団の中ですやすやと寝息を立てているレクトの表情は、最初とは打って変わってとても穏やかなものになっていた。その姿は眠っているだけの人間と然して変わらない状態でありながら、しかし彼は半日近くに渡って目を覚ましていない。


 これで何度目か分からないがコモモは布団に手を入れて、その中でレクトの手をそっと握る。肌を伝わる体温にも一切の異常は感じられない。


 ただ眠っている。


 彼はただそれだけなのに、次の瞬間に彼の呼吸が突然止まってもう二度と目覚めなくなってしまうのではないと、コモモは恐ろしくて堪らなかった。


 不安が手に力を込めさせる。

 その所為で強く握りすぎたのだろうか、彼は僅かに顔をしかめたように見えた。


「あっ…」


 その変化に気付いて慌てて手を引っ込めたコモモは、申し訳なさと一緒に泡のような安心感を覚えた。


 彼はまだこちらに反応を返してくれる。例えそれがネガティブなものだったとしても、彼女の不安を払拭してくれるものに違いはなかった。


「大丈夫だよ。きっと目を覚ますから」

「……メメさんは、何を知っておられるのですか?」


 するとここで、コモモが追及の矛先をメメに向ける。


「レクトさんがのは、貴女から受け取った力を使ったから……ですわよね? 何故、こんな危険なモノを彼に与えたのですか…っ!?」


 彼女の指摘通り、彼はあの機械仕掛けの衍獣との戦いでメメに与えられた毒の力を初めて解き放ち、不思議で型破りな水流の円舞曲を踊った。その戦いの直後に意識を失い今に至るのだから、原因がメメの毒であることにほぼ間違いはない。


 その加護が無ければあの戦いはとても厳しいものとなったであろうが、故に仕方ないと簡単に割り切れるような問題でもない。


「あたしも予想外だったんだよ、まさかこうなるなんて…」

「……だったら! どうして知った様な態度を取っていたのですかっ!」


 先程の楽観的な態度から一転してしおらしく振る舞うメメに、コモモの語気は最高潮に強まった。不条理な言動の温度差がコモモの肌に怒りを結露させ、その水滴は今にも気化してしまいそう。


 けれど、横目にレクトの寝顔が映る。


 彼にストレスを与えてしまってはいけないとコモモは思い直し、努めて冷静な声色を装ってメメに弁解を要求した。


「せめて、説明してください」


 数秒の沈黙。

 二人は無言で見つめ合う。


「―――ま、コモモちゃんならいっか」


 メメは、コモモに自らの事情を語るかどうかを悩んでいたようだ。だが結局は口にすることを決心し、近くのソファへと歩み寄ってそこに深々と腰を沈める。


 部屋はまた静かになり、ランプの光が微かに揺れる。


「あたしはね、世界で一番最初にアニマルガールなの」


 そしてゆるりと。

 独白は彼女の生い立ちより始まった。


「最初に、生まれた…?」


 コモモは驚き、まるで図鑑の中から飛び出してきた偉人を見るかのような表情をしてメメを見つめる。


 予想通りの反応だったのだろうか。

 メメは息を吐き出すように弱く笑った。


「コモモちゃんも少しは聞いたことあるよね。ある日突然、世界中に地虹サンドスター衍獣セルリアンがたくさん現れ始めて、ヒトの文明はぐちゃぐちゃにされちゃったの」


 それは人類史に深く刻まれた歴史。

 少なくとも文明が完全に滅び去るまで、決して忘れられはしない大災害。


 その災害による産物が。

 地虹サンドスターと。

 衍獣セルリアンと。

 亜人アニマルガールなのである。


「アニマルガールは地虹サンドスターを浴びた『けもの』から生まれる。その最初の個体が他でもないあたしだったの」


 茶目っ気たっぷりに舌を出しながら紡がれる言葉は、その仕草では誤魔化しきれない重みを持っている。


 メメは自分のシッポの先をぱくりと口に含みながら過去を想起して、忘れ難い思い出を吐き出してゆく。


「初めはなんて呼ばれてたっけ……まあとにかく、あたしはそういう特別な存在だったんだ。だから、悪い人たちに狙われちゃった」


 声がトーンダウンする。

 コモモへの問い掛けを通し、一歩ずつ核心に近づく。


「ヒトはこの不思議な現象の研究を始めた。なんでだと思う?」

「地虹の力を役立てたり、衍獣から身を守るため。……そうではありませんか?」

「だいたい正解」


 そんな試みは現在でも尚活発に行われている。実験室の中だけではなく、今を生きる人々の手によっても。


「でも少し足りないかな」


 何故なら、彼女が胸の奥に抱え持っている答えの色はどす黒い。


 普通の人が目を向けもしないような欲望の死角から持ち出された、気が遠くなるほど純粋な望みだ。


「権力を握るとか、誰かを支配するとか、そんなの眼中にもない。ただ研究をして地虹や浸衍の正体や、それらが持つ力の限界を確かめたい。そんな人たちにあたしは騙されて、湖の中に閉じ込められちゃったんだ」


 単純なる力、そして真理の追求。


 そんな野望がメメの四肢を絡めとり、底のない沼の奥深くへと彼女を押し込んだ。


「ですが、貴女なら簡単に逃げ出せたのでは?」

「それはできなかった……というより、しようと思えなかった」


 自嘲の溜め息を吐き出す。


「あたしだって分かってたんだよ。世界が化物と一緒に水浸しになって、その原因になってるモノを自分が操れてしまうこと。『もしかしたらあたしのせいで』って思うと、何をする気も起きなくなるの」


 そんなメメの心情を理解し、彼女を効果的に閉じ込めておくことに利用していたのだとしたら、件の研究者たちは少なくとも人の感情に明るかったのだろう。


 尤も、その知識の使い方は決して誉められたものではなかったが。


「そうやって湖の中でだらだらと過ごしていたある日、こっそり湖に忍び込んできたレッくんと出会ったの」


 その声には深い懐かしさの色が宿っている。

 彼女にとってその記憶は、他のどの思い出より尊く美しいものだ。


「当時のレッくんはまだ小さい子供で、あたしの加護もないから戦う力も持ってなかった。だけど落ち込んでたあたしを沢山励ましてくれて、『ずっと一緒にいる』とまで言ってくれた」

「…なっ!?」


 コモモから漏れる驚愕の声。


「えへへ、やっぱりコモモちゃんはそこが気になるんだ」

「……続けて下さい」


 幼いレクトが口にした衝撃の一言に動揺を全く隠せていなかったが、幸いにして話の続きを促すだけの理性はあった。


 メメは話を続ける。


「だからあたしはレッくんに毒という名の加護を与えて、を残したの。彼はあたしの大切な人って、どうなっても分かるように」


 つまり彼に注がれた毒は、謂わばメメからのだった。あらゆる障害を薙ぎ払えるような並々ならぬ力を与えることによって、メメは彼の優しさに報いようとしたのだ。


「その結果がですか?」

「もう、厳しいなあ。そのおかげで助かった命もあるんだよ?」

「……レクトさんに危害を加えたことも事実です」


 だがコモモの声は冷たい。

 そして彼女の追及に宛がわれた反論も、同様ひどく冷淡なものであった。


「それはコモモちゃんも一緒でしょ」

「……っ」


 何と悲しいことだろうか。


 お互いが起こした事件に至る経緯や気持ちの重さは違えど、彼女たちはどちらも自分自身の毒によってレクトを傷つけてしまっている。


 もしもヤマアラシのジレンマにおいて針を持つのが片方だけだったなら、その哀しいヤマアラシはどうすればよいのだろう。相手を慮り、自らの心を殺して行方を晦ますことができるのだろうか。


「レッくんは優しいから全部許してくれるよ。あたしが何をしてたって最後には許してくれるの」


 けれどもメメはそう言った。

 そこには盲目な信頼があった。


 故にこそ、コモモの脳裏に疑問が過った。


「一つ聞かせてください」

「いいよ」

「何故、長い間レクトさんから離れていたのですか?」


 メメがあの湖に眠って、何年も彼のことを放っておいた理由が解らない。彼女ほどの執着心を持つ少女ならば、きっと片時も大好きな彼の傍を離れることを好としない筈なのに。


「―――先にいなくなったのはレッくんの方だよ」

「…えっ?」


 その疑問に対する答えは、ある種当然でもある発想の転換によって与えられた。


 メメが離れたのではないなら。

 レクトが離れたとしか考えられないからだ、


「だからあたしは待ってただけ。その間に色々と面倒なことが起きて、力を失って眠りに就く羽目になっちゃったけど」


 彼女はそうなった理由について詳しく語ることはしなかった。その原因を直視したくないかのように、淡々とした口調でやったこと、そして起きたことをひどく大雑把に話すのみ。


 そして、半ば無理やり説明を切り上げた。


「ど、納得した?」

「……わたくしには、できません」

「それは困っちゃうなぁ。言えることはもう全部言っちゃったよ」


 するとギュッとスカートの裾を握りしめて。

 メメの瞳をまっすぐに見つめて、コモモは言う。


「お話だけで納得することなんてできませんわ。ですから、調ください」

「調べるって、何を?」

「貴女の毒です」


 キッパリと言い放つ姿には強い決意が感じられた。


「レクトさんの身を案じる者として、そして一人の毒の探究者として。わたくしには、貴女が持つ毒の正体を解き明かす使命があります」

「そういうことなら……いいよ」


 メメもその気迫に感銘を受け、二つ返事でその申し出に頷いた。


 彼女は少しの間だけ席を立ち、数分ほど部屋の外で何かをしてくると、やがて手に透明な液体の入った瓶を持って戻って来た。


「はい、これ。気を付けて扱ってね? レッくん以外の生き物の身体に入ったら、どんな作用が起こるか分からないから」


 コモモはその瓶を確かに受け取った。


「じゃあ話も済んだところで、これからどうしよっか」

「決まっておりますわ」


 またしてもコモモには迷いがなかった。彼女は毒の瓶をポーチの奥に仕舞い込むと、レクトの身を覆う布団を少しほど持ち上げて一緒にその中で横になった。


「わたくしはレクトさんと一緒に床に就きます」

「わあ大胆。役得ってヤツ?」

「万一に備えて、傍に控えているのは当然のことですわ」


 そうは言いながらも、コモモは寝ているレクトを横からぎゅうっと抱き締めていて、他意があることは丸わかりである。


「そしたらあたしも反対側に~……いたぁっ!?」

「あら、ごめんなさい」


 便乗しようとしたメメが反対側から布団を持ち上げるも、ベッドと布団の間に燻ぶる暗闇の中から尻尾による鞭のような一撃を与えられ、彼女は大きく悲鳴を上げながら後退ってしまった。


 くすくすと、コモモの笑う声がする。


「夜になるとわたくしの尻尾は少々荒っぽくなってしまうので、貴女が一緒に寝るのは難しいかもしれませんわね」

「……わがままなコモモちゃん。いいもん、あたしはソファで寝るよ」


 どうやらメメに争うつもりはないらしく、彼女は口にした言葉通りに寂しそうな足取りで向こうのソファへと寝そべりに行った。


 そして一人、添い寝の権利を勝ち取ったコモモは、未だ何も知らずに眠るレクトの頬にそっと口づけをする。


「レクトさん、寝顔も愛しい方」


 穏やかな寝息。

 身を火照らせる体温。

 共鳴する脈拍。


 コモモはずっとこうしていたかった。


「―――わたくしが必ず、守って差し上げますから」


 そのためにできることは、きっと何だってするだろう。

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