第30話 毒、総てを拒むが為に在り。

 ぽつり、ぽつり。


「あら…?」


 これから生み出される津波が如き激流を前にして。

 一滴の雨が、コモモの頬に落ちた。


 彼女は目を丸くして空を見上げる。頭上の天蓋は僅かばかりの白雲を余所にして青々と晴れ渡っており、彼女の頬を濡らした雫の源は分かりそうにもない。


 だがそれに何の問題があるのだろう。ひと時の驚きを見せた後、彼女の意識がそんな些細な問題に向くことは一切なく、彼女の視線はひた向きにただ一点にのみ注がれ続けた。



 ―――レクト。



 彼は外見こそ先程までと全く一緒でありながら、その身に纏う雰囲気は別人のように鋭く尖っていた。目に宿る光が淡白に揺らぎ、口から発される言葉は音もなく周囲の人々の耳に、深くそのを刻み込んだ。


「お前たちは下がってろ』


 驚くことに、彼の口は全く開かれることなく声を出していた。それはまさに超常現象であり、彼が何か普通ではない状態にあることを如実に示していた。


 コモモもシベリアオオヤマネコも、この不思議な出来事に驚きを隠せない。


 唯一平然としているのは、彼を良く知っているであろうメメだけだった。


「いぇ~い、成功したねっ!」

「これがメメの……いや、今はいいか』


 当のレクト自身も現状を完全に理解している訳ではなさそうだが、身体に溢れる大きな力と彼を中心にして渦巻く巨大なの存在をこそ確かめれば、今にすべきことはたった一つと心得る。


 細かいことはその責務を果たした後に考えればよいのだ。


 水に濡れて居心地の悪そうにしている衍獣に向かい、彼は穏やかに声を掛ける。


「良い天気だろ? お前をのにも丁度いい日和だ』


 声の伴わない発話。

 言うなれば一種のテレパシー。


 その奇妙な意思伝達の手法を、レクトは早くも使いこなせてきた。


 彼の意識は今、ありとあらゆる水を通して周囲の存在と繋がっているのだ。だから念じればその内容が伝わり、相手の意識にも触れることができる。


(―――衍獣アイツは戸惑っているみたいだな。無理もないか、俺だって探り探りこの力を使ってるんだから)


 今のところ、彼は湧いて来たか降って来たかも定かではない直感に従って振る舞っていた。昨夜の出来事を考えると、このも毒と一緒に流し込まれたものとみていいだろう。


「さて、容赦はしないぞ』


 衍獣にテレパシーが通じるのか、そもそも言葉を理解できるのかさえ判ったものではないが、どうせ話すようなこともない。


 彼は右手に槍を握り、左手で空から降り注ぐ無数の水滴を自らの周囲に集めて既に臨戦態勢を取っている。


「……へえ』


 雨を呼び寄せて場所に依らず水を使えるようにするだけでなく、操り動かす力すら普段と比べてかなり強くなっていると見える。この並外れた強化には、彼自身も驚きを隠せていなかった。


「ひゅ~、かっこいい~!」

「ほ、本当にレクトさんなんですよね? 出会ったばかりでこういうのもアレですが、雰囲気が随分と変わってしまって……」


 思い通りに事が運んで楽しそうにしているメメの隣で、事情などさっぱり知る由もないシベリアオオヤマネコは戸惑い、少し怯えていた。突然に弩級の怪物が二体に増えたようなものと考えればそれも致し方なし。


「わたくしも驚いていますが、分かります。ただとても強くなっただけで、依然レクトさんに違いありません」


 対してコモモは比較的ゆったりと、この現実離れした状況を見つめていた。


「……メメさんの毒のお陰で強くなれたというのは、幾分癪ではありますが」

「あらら、嫉妬ってヤツですか?」


 コモモにつられて名探偵も平常心に戻ってきて、頬を膨らませながら飛び出した彼女の言葉に軽口を挟む余裕さえ生まれた。


「べ、別にそういうのでは…!」

「隠さないでくださいよ。わたしはカワイイと思いますよ」

「そう、でしょうか…?」


 もじもじ。

 図星を突かれて。

 ほんのり頬が赤い。


 その仕草を見て放っておけなくなったのか、シベリアオオヤマネコはコモモにちょっとした助言をプレゼントすることにしたようだ。


「一つアドバイス……というよりお節介を言っておきます。探偵として培った尋問のコツですけどね、曖昧な返事をしてくる相手を野放しにしすぎてはいけません。ちょっとくらい強引に、多少無理な手を使っても! その時々のを引き出しておいた方が、のちのち進展に繋がるんですよ」


 推理と捜査は一対のもので、事件を解決に導くため決して欠かせないものである。


 しかし何者かが起こした事件ならば、聞き込みに対して嘘を吐いたり適当にはぐらかしたりする人物が必ず存在する。しかも厄介なことに、事件の経緯によっては犯人以外もそんな風に不誠実な態度を取ることがある。


 そんな時に名探偵に必要なもの、それは様々な力。


 単なる腕っぷしだけではない。

 相手との我慢比べを乗り切る持久力。

 素直になるべきだと思わせる説得力。


 ……それと、いざという時に大声で押し切るための発声力。


 それらは時折ナイフのように心を突き刺す、普通の友人関係に必要とされるような能力では到底ないものの、名探偵の直感は告げていた。


 レクトとコモモ。

 この二人がより仲良くなるためには、これくらいのが必要だと。


(少しくらい、強引に……)

「でも、乱暴は良くないですからねっ!」

「………ええ。分かっておりますわ」


 コモモの返事が遅かったのは、この名探偵のアドバイスについて考え込んでいたからだろうか。……それとも。


 ともあれ彼女らがそんな話をしている間にも戦いは続いていた。


 レクトは衍獣の周囲を縦横無尽に走り回りつつ、無尽蔵に空の青から水を槍や腕に纏わせて強力な攻撃を絶え間なく浴びせ続けていた。一撃ごとに発される音は全て稲妻のように重く轟き、まるで戦いのクライマックスが常にそこに在るかのようである。


 十全のポテンシャルを発揮した彼の戦いぶりも恐るべきものだが、この力に殴られ続けながら未だ形を保っているあの衍獣も大したものだ。


 というよりむしろここまでしても、まだ足りないような気さえする。


 あの禍々しい機械状の衍獣を打ち倒すという目標、ただの巨大な力では成し得ないのだと、彼は薄々感じ始めていた。


『レッくん! もっと柔軟に、もっと自由にっ!』


 メメの声がする。

 レクトを応援している。


 その言葉に込められた思念が、水を伝って彼の頭に届く。


 ふと、天啓がする。


「―――そうか。今、俺は水を操っているんじゃない。なんだ。とても信じ難いが』


 思い出されるのは幾つもの記憶。


 湖で巨大な水の蛇になっていたメメ。

 水になって蛇口から出てきたメメ。

 液体に溶けて、人に戻る一連のプロセスを想起する。


 彼もメメと同じように。

 ただ水に成る。


「あっ…!」


 変化が起こる決定的瞬間を目にしたコモモは驚いた。


 本当に一瞬のうちに、砂の城が壊れる時のように彼の身体が崩れ落ちてゆき、みるみるうちにその破片は色を失い、良く透き通る液体となって地面に溶ける。


 レクトは本当に水に成ってしまった。

 そして、が戻って来た。


 近くの木の幹を根元から伝って、不定形の流体が地面から間欠泉の如き勢いで噴き出て来た。それは木を離れると瞬く間に衍獣を囲い、身体の表面を覆い尽くし、機構の隙間を通って内部へと浸入した。


 衍獣は行動の自由を失った。

 多少の身動ぎの兆候は見えるが、その努力が実を結ぶことはない。


 レクトは答えを見つけた。


 どう頑張っても破壊できそうにない硬い外殻の持ち主を打ち倒す最も効果的な方法を、思い付いたのだ。


「内側から……突き破るッ!』


 ああ、哀れな衍獣。

 残念ながら体内は、外のように硬くはなかったらしい。


 槍のような形の水が腹部から脳天をかけて体内を貫き、生命維持に重要な機構の全てを一瞬にして破壊し尽くす。身体が統制を失い、頭のてっぺんから周囲に水を撒き散らす姿は噴水のオブジェのようである。


「最後は派手に、かましてやるか』


 飛び出した水が太陽を浴び、色と人型を取り戻して一人の青年になる。


 レクト。

 彼は槍を握って。


 この戦いで使った全ての水を圧縮し、尖る槍の切先にそのを載せて、遥か上空から飛び込む一撃によって機械仕掛けの怪物の全てを荒れ狂う奔流で丸呑みにした。


 ―――ザア、ザア。


 まるで海の潮騒。

 止むまでに、数分は掛かった。


 そして視界が明けると、佇む一人の影。


 他に残されたものは、恐らくあの衍獣を生み出すきっかけになったであろう手の平大の黒い歯車だけであった。


「……なんとか勝てたか」


 彼の声は普通の響きに戻っていた。

 あの不思議な状態は解けているらしい。


 すぐさまコモモが駆け寄って、彼に労いの言葉を掛ける。


「お疲れ様です。今回は強敵でしたわね」

「ああ、だがこの歯車は……」


 一瞬屈み、衍獣の落とした歯車を拾い上げる。

 そして詳しくそれを調べ始めようとした途端に、彼は大きく息を呑んだ。


「……っ!?」

「レクトさん、何か気付いたことでも…」

「ぅ、ぁ…」


 続く呻き声。


 …カラン。


 初めに、歯車が落ちた。

 そして続く音は、とても鈍く重かった。


 ……ドサッ。


 レクトが息を呑んだのが驚きに由るものではないと彼女たちが気付いた時には、もう既に手遅れの状態だった。


「えっ…?」

「あ、あれれ?」


 突然の異常。


 コモモもメメも虚を突かれて、見ていることしかできない。


「ど、どうして…」


 名探偵もピタリと固まる。

 眼前の光景を咀嚼するのに、彼女でさえ時間が必要だった。


 訪れる、事後の危機。


 レクトは。

 鋼鉄の衍獣を撃破した強き青年は。


 他の何者に打ち倒されるまでもなく突如として意識を失い、その空っぽの身体を荒野の地面に投げ出してしまった。


 それが、初めのだった。

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