第28話 夜、蒼白い天鏡は円く。

 その日の夜。


 なんとなく眠れなかったレクトは寝室を静かに抜け出し、大きく開け放たれた窓枠に凭れ掛かりながら外を見ていた。木々の疎らで、見渡そうとする限り明け透けに姿を晒す辺りの景色。そして真っ黒な空と白い真円。


 目に映るモノのどれもが美しく、ピアノの旋律を添えてやれば一つの芸術として完成しそうだ。尤も、演奏者もピアノそれ自体もここには存在しないのだからこの感傷はいっそ夢と変わりない。


「あれ、まだ寝てないの?」

「……メメ」


 偶然起きて来たのか、もしくは彼の動向を夜がな夜っぴて見守っていたのか。彼の隣に立って横から身体をくっつける。


 月光が跳ね返って、彼女の白い鱗が蛍雪のようにキラキラ光った。


「明日に響くよ~。あのデッカイのを倒しに行くんでしょ?」

「……シベリアオオヤマネコは、そのつもりらしいな」


 彼は敢えて、自身の意見を述べることを避けた。自分がどう思っていようと、結局はあの衍獣の討伐に駆り出されると半ば察していたからだ。


 感情の面においても、いつかこの村にとっての脅威になると分かり切っている存在を放って帰るのは気が引けるというものだった。無論その反面、彼の身を一番に案じている理性は、あの荒野で見た巨大な影を想起する度に分間120回のスピードで警鐘を鳴らす。


 努めて表情の奥に仕舞い込んでいたその懸念を、メメは容易く掬い上げた。


「不安なんだね」

「なんだって…?」

「隠さなくたっていいよ」


 彼の腕を掴み、引くように抱き寄せて彼女は微笑む。


「あたしの加護を持ってるレッくんは確かに強いけど、水の少ない場所だとその力をちゃんと活かせないもんね。ヒトとして強くても、戦いが得意なアニマルガールや巨大な衍獣には敵わない」


 丁度、彼が気にしていることだった。


 戦闘力が地形に左右されすぎるという重大な欠点。槍一本でもそこそこ戦えるように訓練を積むことで克服を試みているのだが、彼がメメの加護を頼っている限り決してなくならない彼の隙だ。


「あたしもずっと眠りながら考えてたんだ、このままじゃ足りないかもって。、完全に毒を回してあげることもできたけど」


 いつだってそうだ。

 メメの言葉には含みがありすぎる。


「待て、今の言葉…」

「でもっ、”たられば”なんて意味ないよね」


 そして同様にいつも、彼女は追及を決して受け入れない。


「あたし達はを手に入れた。再びこうして巡り会って、未来へと一緒に歩いていけるようになった」


 或いは彼女と彼の間に言葉は不要なのかもしれない。


 必要なのは”行動”だけ。

 それで全てを示すことができる。

 愛を、注ぐことができる。


 彼女は更に、互いの身体が密着してしまうほどに、近づく。


「だから……ふふっ♡」

「ぁ…っ!?」


 そして噛みついた。


 白く鋭い牙を剥き出しにして、健康的な色合いをした彼の首筋にそれを突き立てて。もごもごと肉の深くまでその切先を埋め、熱い血潮の流れる太い動脈に彼女のをひたむきに注ぐ。


 数秒後。

 ぱあっと口を大きく開けて、メメは彼から離れた。


「えへへっ。噛んで、流し込んじゃった」

「何、を…」

「えぇ~、分かるでしょ~?」


 レクトの身体から力が抜けていく。どことなく甘美な脱力感で、今にも意識が飛んでしまいそうだった。


 首を強く噛まれたからだろうか?


 いいや、決してそんな筈はない。彼は何かが自分の中に入り込んでくる感覚を強く覚えていた。脳髄から末端神経までに遍く甘い痺れを齎す、道を踏み外した愛情の正体を彼はよく知っていた。いや覚えていた!


「あたしの毒。たくさん入れればたくさん馴染んで―――これまでよりもずっと強く、もっと複雑に、あたしの力を操れるようになる」


 ああ、ずっと前に感じたものと同じだ。

 子供の頃の朧げな記憶の中にある、たった一つの明るい印だ。


 彼女が、その印の主だった。


「……素敵だね」


 そう言って微笑むメメの目を、レクトは直視した。


 彼の姿がその時どう見えていたかは、彼自身には分からない。しかし頭の中は高揚と恐怖でぐちゃぐちゃになって、それらを能面で覆い隠すような余裕も彼には一切無かった。


 故に、とても素直な姿を晒していたことだろう。


「そんな怯えるみたいな目で見ないで。あたしはすごく純粋に、レッくんが幸せになることを願ってるの。それは最初にキミと出会って、キミがあたしの心を救ってくれたその時からちっとも変わらない」


 彼の潤んだ瞳にしまったのか……メメの頬も赤らみ、息が上がってきたように見える。愛を囁きながらもどこか不真面目で、隠し事を仄めかすようにミステリアスな彼女のヴェールはすっかり吹き飛び、さあ見ると良い。


 そこには一人の女性がいるだけである。


「心を、救った……?」

「いいんだよ、思い出すのはゆっくりで」


 目を閉じて静かになった彼女は、たったいま言及した記憶を脳裏に思い起こしているのだろうか。彼女は如何にして彼に救われ、また如何様にして救われなければならない窮地に陥ったのか。


 疑問は増えるばかり。

 されど、答えは出さなければ。


「それで……ね? 実を言うと、あたしがレッくんと絶対結ばれなくちゃいけないってことじゃないの。今は、コモモちゃんっていう素敵な子もいるもんね」


 だから彼女が解らない。


 メメは恋する乙女のように振る舞いながら、また別の場面では彼の姉か母親のような形で彼の幸せを願っている。恋人と保護者の両方であろうとするような言動は強欲で、しかしどちらも本心なのだとしたら翻って無欲と言えてしまい得る。


 錯覚に錯覚を重ねて、そうして彼女を一種の暖かな存在だと思ってしまった瞬間に、隠しようのない狂気に触れてしまう。


「だけど何があろうと、誰がレッくんと本当の意味で結ばれようとも、あたしはずうっと、ず~~っとレッくんの傍にいるよ。キミがそう約束した。そう約束して……くれたんだからさ!」


 けれど、その狂気も暖かであった。

 純然たる好意によってその逸脱が生まれていた。


 そして彼女が言う


 彼は、それを知っているような気がした。



『―――だったらボクが、ずっと一緒にいてあげるよっ!』



 その残響は毒の中。

 首筋から渡って脳みそを刺し、記憶を呼び起こした。


「…っ!?」

「あ、思い出しちゃった? あたしの毒を媒介して身体に流れ込んだ地虹が、レッくんの記憶に作用しちゃったんだね」


 足元に蹲って荒々しく息を吐くレクトを背中から抱き、そっと頭を撫でて呼吸を落ち着かせる。童話を読み聞かせるように穏やかな声が耳元で囁いて、彼の意識は起きながら眠っていくかのようだ。


「この毒はレッくんに力を与える加護であって、二人の約束を途絶えさせないための”運命の赤い糸”でもあるの。時間がキミを終わらせてしまわないように、永遠の約束を永遠に果たし続けられるように」


 溶けて。

 さあ溶けて。


「だから、もう―――」


 堕ちきることを、望んだが。


「……そこで、何をしているのですかっ!?」

「ありゃ、コモモちゃん」


 ドタドタと慌ただしい足音をこの夜中に響かせて、廊下の奥の暗闇からコモモが姿を見せた。彼女は苦しそうにしているレクトを見つけると、急いで彼の所へと駆け付けた。


「レクトさん、平気ですか…っ!?」


 声を掛けるも、彼は既に気絶していて返事はない。

 コモモはメメを睨みつけ、低い声で釈明を求める。


「貴女、彼に何を…」

「そう怖い目で見ないで、これは強くなるためのだから。寝て起きたら毒が身体に馴染んで、すっかり元気に戻ってるよ」


 すらすらと言葉を並べて宥めてこようとするメメに、隠しきれない不信感を見せつつも一旦、コモモは矛を収めた。


「嘘ではないのですね?」

「ホントだよ~、あたしの毒は強いからこうなっちゃうの」

「……信じますよ」


 コモモのその言葉を聞いて、メメはレクトから離れた。

 どうやら気絶した彼の身体をそのまま任せるつもりのようだ。


「明日に備えてもう寝た方がいいよ。おやすみ……レッくん、コモモちゃん」


 そして歩き、彼らから遠く離れ、白い鱗が暗闇に融け始めた頃に。


「これからもよろしくね」


 小さな声で。

 彼女はそう言った。

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