第24話 眩い理性に誘われて。
「おはようございます、レクトさん」
「ああ、おはよう…」
瞼を半分ほど閉じたまま眠たそうな受け答えをして、起きたばかりのレクトは壁に掛かった時計の針を確かめる。
今は、午前五時ほど。
普段の起床よりもかなり早い時間だ。
今日は朝早くからエピリの所に行き、配達の荷車に相乗りして新地球街の近くにあるアニマルガールの集落に向かうことになっている。そこであの街に対する情報を収集する予定だ。
「はい、冷たいタオルですよ」
目覚ましの助けになるよう、コモモはタオルを水で濡らして持って来てくれた。それで顔を覆うと、すぅっと爽やかな涼しさが顔いっぱいを包んで、文字通り『水に溶ける』ように眠気が消えていった。
「……ふう。ありがとな、コモモ」
「お安い御用ですわ」
「ところで、メメは?」
「あら、こちら側の部屋にはいませんよ」
顔を拭き終わった後のタオルを受け取って畳みながら、コモモはそう答えた。
レクトは不思議そうに口元に手をやる。
大したことではないが、予想が外れたからだ。
「コモモの実験室に行く用事なんて無いし、外で散歩でもしてるのか? それとも、また俺の布団に潜んでるとか……」
「それも無いはずですわ! 今朝はレクトさんのお部屋やお布団には他に誰もいないと、わたくしが確かめていますから!」
幾つか適当に推論を挙げてみると、突如としてコモモからきっぱりとした否定の言葉が飛んできた。なんと驚くべきことに、彼女はレクトの寝床に誰もいないことをしっかりと確かめているのだという。
「……コモモ?」
「…あっ!」
語るに落ちるとはこのことか。
彼女は溢れる気持ちを抑えられなかったのだろう。
「と、とにかくっ、お家の中にいないのであれば、先程言った通りお外にいらっしゃるのだと思います!」
彼の側にしても特に実害はないので、無罪放免としておくことにした。
「まあ、メメも後で呼べばいいか」
それはさておき、寝起きはいつも喉が渇いて仕方ない。
ひとまず水でも飲もうとレクトはキッチンに行く。
自分のマグカップを棚から取り出して、シンクの前に立つ。
「……」
一瞬過る、嫌な予感。
だが、何もある訳がない。
彼はその悪寒を早起きの代償と割り切って……蛇口をひねる。
「……っ!?」
間髪入れぬ答え合わせ。
予感は当たってしまった。
常識的な開き具合だったにも拘らず蛇口から夥しい量の水が凄まじい勢いで流れ出し、シンクを瞬く間に乗り越えて部屋中に広がっていく。
最初の方はドカドカと、まるでシンクを力強く叩きつけるような騒音が響き渡ったが、嵩が増していくにつれてその音は水中に消えていき、屋内に似合わぬせせらぎの音色へと変わる。
慌てて蛇口を閉めるレクトだったがそんなことで水が止まる筈もなく、辺りの床はすっかり水浸し。
さらにそれらの水は重力を無視して動き出し、まるで蛇のようにうねり渦巻いたかと思えば次に人間の形を取り始め、最後に見知った形状に……メメの姿に、その形を変える。
「ばあっ! 驚いた?」
思いもせぬ朝の挨拶。
メメは悪戯好きの子供のようにキラキラと笑って、レクトの目の前で飛び跳ねた。
「ぇ…ぁ……」
「ありゃ、驚きすぎて固まっちゃってる」
彼は完全にフリーズしていた。
ただ、マグカップを落としていないことは不幸中の幸いだ。
割れてしまったらメメにとっても後味が悪い。
「言ったよね、レッくんの力は元々あたしがあげたものだって。だから、あたしが同じように水を操れても不思議じゃないでしょ?」
せめて彼の耳は正常に機能していることを期待して、メメは蛇口から出てくるという特大級ドッキリの種明かしをする。
というより、冷静に考えれば他に候補もないのだが。
「そうじゃ、なくて…」
「ん? もしかして、水になってたこと?」
メメにとっては疑問に思われるようなことでもなかった。
数日前、彼女が湖でレクトを呑み込んでしまった時も、湖の水を大量に使って大蛇の身体を構築していた。それを踏まえれば彼女が水になっていたとしても何も可笑しくはないのだが……。
まあ、驚かした側だ。
メメはあまりアレコレ言うのをやめにした。
「う~ん……まあ、頑張ればレッくんにも出来るかもだね♪」
「誰がやるって言った?」
「え~、いつか役に立つかもじゃん!」
出来るかどうか以前に、レクトにとっては”自分の身体を水に溶かす”という発想がそもそも悍ましいと言って差し支えない。
まあ、やり方を訊こうとは金輪際思わないだろう。
「もういい。そろそろ出発するぞ」
「え、朝ご飯は? コモモちゃんの作った朝ご飯はっ!?」
「楽しみにしすぎだろ…」
自身に対する馴れ馴れしさもそうだが、メメがコモモに対して向ける好意の強さもハッキリ言ってレクトにはよく分からなかった。前者は彼にその確信がないとはいえ、昔ながらの顔馴染みだとメメが主張しているのだからいいとして、後者については本当に―――メメが惚れっぽすぎると、そう考えるしかない。
どうあれ嘘ではなさそうだから、そういうものとして扱うのが良いだろう。
「あまり時間が無いんだ。パンならあるから、歩きながら食べればいい」
「…はあい」
メメは素直に朝食のパンを受け入れた。
そして彼らは間もなく出発して、エピリが待つ彼女の自宅へと向かう。その間じゅうずっとメメはもきゅもきゅと、パンでいっぱいに膨らませたほっぺを揺らし続けていた。
「―――やあ、みんなおはよう」
彼らが森林の集落に着くと、エピリは既にその入り口のアーチの前で待っていた。
隣には明らかに人を運ぶために手配されたような大きさの荷車があって、その中には御者の他にもう一人、誰かが乗っている。
「彼女は向こうの村に住んでいるアニマルガールの子でね、私が君たちをそっちに向かわせると聞いて、大喜びで迎えに来てくれたんだ。可愛くて優しい子だから、きっと道中で直ぐに仲良くなれる筈だよ」
エピリがそう言うと、荷車の中の影が小さく跳ねる。
どうやら彼女は少々恥ずかしがっているようだ。
「そうだレクト君、これが件の荷物だ。宛名は箱に書いてあるから、向こうに行く序でにその子を探して渡してやってほしい」
エピリは手に提げたトートバッグから手の平より少し大きいくらいの箱を取り出して、レクトに渡した。
どう考えても、こっちがおまけだ。
「……俺に郵便屋をさせる気か」
「まあまあ、情報収集の一環だと思ってさ。こういう形で自然に関わりを作って話を広げていくんだよ」
言い分は真っ当だ。
本気かは知りようがないが。
「今だから聞くだけ聞いとくが、アンタが直接タルジャの奴のことを教えてくれはしないのか?」
レクトのその要求に、エピリは複雑な表情をする。
「……彼の話だけならそれで済むけどね、現実はそう簡単じゃない。私の印象が大いに混ざってしまうし、そもそも不十分なんだ。あの場所をちゃんと肌で感じなければ、きっと真の意味では理解できない」
あれこれ理由を付けてはぐらかす、まるでいつもの振舞い。
だが珍しくその声色には奇妙なまでの真剣みがあった。
「でも焦る必要はないよ。今日のお出掛けは、オリエンテーションのようなものだ」
そこまで言うと、彼女は皆の背を押して荷車に乗せる。
後は、自分の目で確かめろということだろう。
「いってらっしゃい、楽しんできてね」
そして荷車は走り出す。
真実の。
その、一歩手前を目掛けて。
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