第22話 御姫様、青を眺めに往きましょう。

 今日という日は心まで明るくなる一直線の晴天で、遥か頭上より降り注ぐ淀みのない太陽の色が湖の水面に反射してキラキラと宝石のように光っていた。さわさわと足で雑草を撫でながら進む道のりは、当然のことながら以前の来訪より軽い足取りで地面を踏むことを許してくれる。


 晴れの日も悪くない、とレクトは思った。

 無論、”衍獣と戦わずに済む日なら”という条件付きではあるが。


 そしてメメは湖畔に辿り着くや否や、一目散に青の中へと飛び込んでいった。


 勢いよく水しぶきが舞い、爛漫な声が辺りに響く。


「みず~…うみだー!」

「……本物の海でやれよ、せめて」

「レッくん、水場に貴賤はないんだよっ!」


 不思議な理論の下に湖の浅瀬をはしゃぎまわるメメの様子はまるで子供で、ここに着いて一目散に取り組むことがなのだから、彼女は本当にピクニックをしに来ただけなのかもしれない。


「うふふ、お元気なのですね」


 メメと遭遇してからというもの、間違いなくレクトを狙っている言動を目にして彼女を警戒していたコモモも、この時ばかりはそのあどけなさに頬を緩めた。


「水が好きなだけなら近くの川でも良かったんじゃないか。わざわざこんな、毒を振り撒く衍獣の住処に来なくたって……」

「毒? そんなのレッくんは気にしなくていいじゃん?」

「……は?」


 彼は信じられない言葉を聞いた。


 彼女が遊び回っているのは、エピリの依頼を受けたレクトが長らく調査を続けてきた毒の湖で、それは今となっても変わらない筈である。メメならいっそ、そんな毒なんて気にせず遊び回っていそうな雰囲気があるが、他の者はそうはいかない。


 毒とは普通、危険なモノなのである。


「いや待て、突然そんな事言われても…」

「そうですわ! 特にレクトさんは毒に弱い身体をなさっているのですから、万が一飲み込んでしまったら危険です!」


 特にレクトについては、コモモの弱い痺れ毒を飲んで失神してしまうほどだ。

 彼の身を案じる者にとって看過できるものではないだろう。


「……へ、毒に弱い?」


 だが、困惑の色。

 どうやらメメは、さっぱり意味が分からないようだ。


 そこでコモモは彼女に対し、自分が初めて毒を調合してみた時に起きた例の事件の顛末を説明した。


 流石に遊ぶことを止めて真剣な面持ちでそれを聞いているメメだったが、その顔から不承の色が抜け落ちることはコモモの話が終わるまで一度も無かった。


「うーん……あたしの記憶通りなら、レッくんが毒にやられるなんてお空が落ちてきても有り得ない話なんだけどなぁ…」

「ですが、確かに起きたことなんです!」


 お互いに譲る気配はない。

 どちらにも確信に足る理由がある。

 晴れやかなピクニックで起きた意見の対立。


 その穏やかな空気に反して場の雰囲気は冷たく凍り付く。


 ぴちゃ、ぴちゃ。


「……ええと」


 メメはその真剣な表情を崩さないまま、嫌がらせのように湖の水をコモモの脚に掛けて遊んでいる。


 コモモは戸惑い、レクトは呆れた。



 ―――間違いなく、場の雰囲気は緊迫しているに決まっている。



「あ、もしかして感じかも?」

「…どういう意味だ?」


 いきなり明るく、メメは何かを思いついた。


「だから、そのコモモちゃんの毒とやらが彼の身体の中にあると喧嘩しちゃって、それでレッくんの体調が悪くなっちゃったんだよ」


 ”それで間違いない”と言わんばかりの得意げな態度。

 しかし未知の前提を引き合いに出されて、彼はやはり驚くしかなかった。


「……お前の毒が、俺の中に!?」


 メメはこくりと頷く。


「レッくんに力をあげるために、大昔にあたしの毒を彼の身体に流し込んだの。もうその毒はレッくんの身体に馴染んでるから、レッくんを傷つけたりなんてしないんだよ?」


 彼は思った。

 もう言ったもん勝ちだと。


「…そう、なのか」

(やはり、わたくしの推測通り…)


 コモモは彼の体調不良について、彼女自身から分泌された毒がレクトに特別影響を及ぼすのではないかと推測していた。普通の薬では彼に何も起きなかったと聞いて、なんとなくそう思ったらしい。


 その予想が今、メメの証言によって裏付けられた。


「だったらそのお前の毒って、コモモには効くのか?」

「う~ん、お腹が痛くなっちゃうくらいかな。あたし、今は気分がいいから」

「……気分で効き目が変わる毒なんて見たこともないな」

「もちろん、このあたしの毒だもんっ」

「ますます気になりますわ…!」


 ここぞとばかりに、コモモの毒に対する知的好奇心は急上昇。


「ま、いーじゃん。そんなことより遊ぼうよっ」


 しかしメメは遊びたがり一直線。


 その好奇心が何かしらの動物を死なせてしまう前に胸に仕舞って、コモモも静かに足だけを水に浸して、折角のお出かけを楽しむことにした。


「ねねっ、それだけで満足なの?」

「満足、とは…?」

「だから、もっと目一杯遊ぼうよっ!」


 足湯ならぬ足水で済ませようとしていたコモモの腕を引いて、盛大な水遊びの舞台へと引きずり込んだメメ。


「わわっ!?」


 すっかり全身を濡らしてしまった彼女を見てもう遠慮は不要と、バシャバシャ水を掛けて全力の戦いをすべくコモモを挑発する。


「ほれほれ~!」

「も、もうっ、やりましたねっ!」


 コモモも、それに応えることにしたようだ。


 尻尾を使って水を掬い上げるように持ち上げ、水面を波打たせてメメに当てる。


 ただ仕返しをしているだけにも拘らず、彼女の仕草は優美であった。当然ながらメメにやり返されて、その美しさは水浸しになるのだが。


(……楽しそうだな。俺はゆっくり眺めるとでもするか)


 レクトは湖畔の木陰に座って、そんな二人をぼうっと見ていた。


 絵画を見ているような心地がしていた。

 遠い記憶の一枚絵が、かの群青の中に浮き上がった。


 デジャヴが彼を襲った。


「うっ…」


 脳天に針を刺されたような痛み。

 その刺激は彼に何かを思い出させる。


 彼は遠く、遥か向こうから声が聞こえたような気がした。


『―――だったらおねえちゃんに名前をつけてあげる!』


 少年の声。


『えっと、おねえちゃんはおめめが赤くてキレイだから…』


 女性を見上げる。

 逆光によって、顔は見えない。


『だから―――』


 でも、相手が誰かは分かっていた。


「……だから、メメ?」



 ―――気が付くと、コモモとメメが目の前にいた。



 どうやら水遊びは一段落したらしく、ぼうっと座り込んでいたレクトの様子を見に来たようだ。まるで先程フラッシュバックした記憶の中の情景のように、レクトはメメを見上げる。


 これまた呆然としていて、視線は彼女の赤い目に吸い寄せられる。


「どうしたの、あたしをじっと見て。もしかして見惚れてる?」

「……綺麗だな、その目」

「…っ!」


 その言葉は、思考の末に出たものではなかった。

 無意識の儘に口を衝いた、反射。


 それでいて、メメにとある確信を抱かせるには十分な一言であった。


「…思い出してくれたんだ」


 胸が暖かになり、静かに頬を染めるメメ。

 その隣で、コモモは別の理由で顔を赤くしていた。


「レクトさん、急に何を言っているのですか!?」

「えへへ、嬉しいなぁ~。レッくん、もう結婚しちゃう?」

「貴女もっ、やめてくださいっ!」

「あわわわわ~」


 コモモの手がメメの両肩を力強く掴み、彼女はズルズルと音を立てて後方へと引き摺られていく。そんな乱暴を受けている割にメメの悲鳴はお道化たもので、確かな余裕を感じることができた。


 そのまま数メートルほど引っ張られたところでメメは雑にコモモの手を振りほどき、彼女の方へ向き直ってを投げつける。


「じゃあ、コモモちゃんがレッくんと結婚するの?」

「えっ!? わ、わたくしは……っ!」


 言い淀むコモモ。

 口角を歪めるメメ。


 突然の攻め手に一度は縮こまってしまう。


 だが覚悟を決めて、彼女は叫んだ。


「―――れ、レクトさんはっ! わたくしと一緒にいるのが一番なんですっ!」


 ド直球の宣戦布告が湖に響き渡る。


 微かに波打ち、透き通るような静寂が辺りを包み込んだ。


 元よりレクトはに首を突っ込みたくないため沈黙を守るのも不思議ではないが、メメの口に暫しの封をしたのは、吹っ切れた想いの発露を見せたコモモの叫びへの……紛れもない愛おしさだった。


 白い影がコモモに飛びつく。


「きゃあ~~、かわいい~~~!」

「え、えっ?」


 小動物でも見つけた時のような黄色い声を上げて、メメはコモモに抱き着いた。


 困惑するコモモを余所にほっぺをすりすりと胸元に擦り付け、レクトに向かって以前の自分を否定するようなことを言い放った。


「ねぇレッくん、コモモちゃんあたしの子にしていい?」

「ああ、好きにするといい」

「レクトさんっ!?」


 さっきの覚悟と同じくらいの声量でコモモは驚いた。

 なんというか、さっぱり信じられないのも仕方がない。


 メメの発言にも、レクトの投げ遣りな態度にも。


「もちろんレッくんもあたしのモノにするよ♪ あたしの計算だと、二人ともあと一押しで落とせる気がするからっ」


 とんでもなく強気なこの見通しを、ただの能天気さの表れと切り捨ててよいものか。


 そしてもう一つ。


 ”計算”なのに”気がする”と表現していることをツッコむべきか、二人は悩み……いっそ呆れてやることにした。


「随分と計算がお下手なのですね」

「…俺はお前がさっぱり理解できない」

「えへへぇ、それほどでもないよぉ…」


 褒めてない。

 直ぐに思いついた月並みな返し。


 しかし一呼吸。


「……ああ、お前はすごいよ」


 胸に仕舞って、頭を撫でた。

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