第21話 此処から、また始まる。
その日、彼は初めて日記帳に手を付けた。
机の引き出しの奥に眠っていた手の平大のメモ帳を思い出したかのように引っ張り出して、鋭く尖った鉛筆の先を紙面に当てて……そしてそのまま、一切手を動かせずにいた。
明らかに書く意思がなさそうに見える彼であったが、どうにか何かを記しておこうと頭の中で使い慣れない言葉をこねくり回す。
そうして長らくの苦悩の末、彼は漸く今日の日付を書かなければと思い至った。
「……何をやってるんだか」
その先は、今日起こった出来事を箇条書きのようにして書き記していく。
綺麗に繋がった文章を作ろうと試みていたが故に手が止まっていたらしく、事実だけを淡々と書き連ねていくことによって彼は存外簡単に筆を進められた。
最後の一文には『日記を書き始めてみた。』と添えて。
一通り書き終えた彼は、憑き物が落ちたかのように落ち着いた表情をしていた。
「レッくん―――」
「レクトさん―――」
そこに、二人の声が重なる。
レクトの後ろに控えて彼が手帳を閉じるのを待っていたメメとコモモは、ほとんど同時に彼に向かって話し掛けたのだ。
驚いて互いに顔を見合わせ、皮肉めいたやり取りが交わされる。
「……貴女、まだ起きていらしたんですね」
「あたしの夜は長いからね~」
彼女らの軽い口調から深刻な対立は読み取れないが、腹の内を染めている色は見えない。特にコモモなんかは、突然現れてレクトに馴れ馴れしくするメメに敵愾心を抱いていて不思議ではないだろう。
ただ仮にそうだとして本人がその感情を惜しげもなく露わにしない限りは、それを指摘すること自体が所謂”やぶ蛇”という現象を引き起こしてしまうため、その可能性は胸に仕舞うべきである。
つまり、長々と述べこそしたが。
レクトはごく普通に二人に声を掛けた。
「二人とも、こんな時間までどうしたんだ?」
「それはわたくしの言葉ですわ。レクトさんこそ、まだ床に就かなくても宜しいのですか?」
そう言われて、彼は机の上に置いてあった懐中時計に目を向ける。伏せられた文字盤をひっくり返してやると、日付が変わる寸前の時刻を針は指していた。
このまま起きていたら明日に響く。
もう寝るべきだろう。
頭ではそう分かっているものの、彼はどうにも寝る気になれなかった。
「俺は……まだ、考えることがある」
喉に小骨を引っ掛けたまま床に就くことはできない。
それと同じように、この問題に片を付けないまま熟睡することは難しい。
「レッくんの悩みって、あの胡散臭いお兄さんの話でしょ?」
「どうして……ってそうか、お前には見えるんだったな」
「そそっ、メメちゃんの不思議なお目目でね!」
横向きのダブルピースを目元に添えて、メメはドヤ顔をする。
レクトは何も言わなかった。
戸惑うべき彼女の言動に、何故か懐かしさを感じてしまって。
「あの、何の話をしているのでしょう…?」
その場で一番困っているのはコモモだった。彼女はメメの奇行についても、二人の間にある共通認識についてもさっぱり理解できていなかったからだ。
そんな風にコモモを困らせた原因の半分が、レクトの肩を叩いて言う。
「ほらレッくん、コモモちゃんにも教えてあげて」
「……まあ、口止めはされなかったしな」
彼は脇に寄せていたマグカップからただの水を飲み、ぽつぽつと昼の出来事について語り始めた。
§
「……つまり、どういうことだ?」
「簡単です。我々の研究に力を貸していただきたい、ただそれだけでございます」
長々と自身の素性、そして目的について明かしたタルジャは、最後にそう付け加えてレクトへの説明を締めくくった。
「具体的に、アンタらはどんな研究をしてるんだ?」
だがそれを聞いてもレクトは目の前の男性に対する初歩的な警戒心を拭い去ることができず、更に手の内を明かすことを求めた。
「わかりました」
タルジャは嫌な顔をすることもなく話し始めた。
「浸衍にまつわる現象―――地虹、セルリアン、アニマルガールなど、我らが研究所が取り扱う分野は様々ありますが、レクトさんにはセルリアンに纏わるご研究に助力いただきたいと考えています。……貴方の、戦いの腕に期待を寄せて」
尻尾に添えられた一言にレクトの眉が動く。
彼の目前にいる男は彼について、単なる名前以上のことを知っていたようだ。
そして、戦闘能力にフォーカスを当てている。
タルジャが”都会人”である事実も加味すると、彼にそのような情報を与え得る存在を、レクトはとある一人以外に知らなかった。
「エピリさん、か?」
「ええ。彼女から推薦を貰いまして」
「……そうか」
余計な真似を、と。
コンマ一秒後の感想はそれだけだった。
レクトは別に力の強さを売りにしている訳ではない。
水を操る力も未だコモモ以外の前で堂々と使えはしないため、外部の人間にそれを頼りにされても正直困ってしまう。
だから、彼は悩んでいた。
「ハッキリとした契約の内容については、この書類をご覧ください」
そんな彼の気乗りしない表情を察し、タルジャは現実的な利害の計算に引き戻すべく数枚の紙束を渡した。
「今日から丁度一週間後に、ここでエピリさんと他の仕事のお話をする予定なので……お返事はその時でも構いません。よい返事を期待しております」
「キタイしておりますっ!」
タルジャに続いて、猫耳少女も頭を下げる。
本心ではこの場で断りたいレクトだったが、こう言われては無情に切り捨てるのにも気が引けてしまい、一先ずこの話を持ち帰らざるを得なかった。
「…こらこら、お仕事の邪魔はしない約束だろう?」
タルジャは少女の頭を撫でて、レクトに向き直る。
「では、また来週」
それが、彼に纏わる記憶の終わりだった。
§
一通り話し終えた後、彼は紙束を引っ張り出す。
「…それが、例の?」
「ああ。仕事とやらの内容と、俺に求める契約の詳細だ」
コモモはその紙束を受け取ってすぐさま目を通す。
難解な言葉がつらつらと並べられており、お堅い書類を読むことに慣れていないコモモは古代の碑文を眺めているような気分になりながらも、なんとか最後まで文字を追いかけ切った。
無論、だからといって内容を理解できる訳ではないが。
しかし一つだけ良く知る言葉があり、それが彼女を目を引いた。
「……湖の、調査?」
この紙束によれば、彼らはレクトにそれを望んでいるらしい。
「ですがこれは、レクトさんが元々やっていたことでは…?」
「ああ、そうだな」
それを聞いて、コモモは自分事のように気が軽くなった。
難しい仕事を託される訳ではないと知ったからだ。
「であれば、今までと同じように…」
「いいや、無理なんだ」
「…えっ?」
対してレクトは苦々しい表情を浮かべている。
「俺はもう確かな手掛かりを手に入れてしまった」
これを受け取ったのが数日前ならば、こんな風に悩みもしなかっただろう。
だが現実はそうではない。
彼は、もう出逢ってしまったから。
「もしも俺が彼の調査に協力して、知っていることを残らず報告するとしたら……」
すでに知っている彼が。
誠実であるには。
最大限協力的であるには。
一つしか道はない。
「―――俺はお前を差し出すことになるんだ、メメ」
「……まあ、そうなっちゃうよねぇ」
湖に際立った異変が起きた当日に、そこに赴いたレクトを呑み込んで姿を現したメメは、敢えて言うまでもなく湖の秘密に直結した存在である。
であれば。
彼女について黙っておくことは、真に協力的な姿勢ではない。
タルジャの研究に助力するか否か。
どちらにせよ、レクトはメメをどう扱うか選ばなければならない。
「お前は、それでも構わないのか?」
「ねえレッくん、質問する相手が間違ってるよ」
「なんだと?」
戸惑う彼に向かって、メメは自分の胸元を叩いて言う。
「ココに、自分の心に聞いて」
穏やかな微笑みだった。
揺るぎ無い信頼が見て取れた。
「キミは、あたしをあんな人間共に明け渡しちゃってもいいの?」
その言葉には、この場にいない人物への怨みのような感情が籠っていた。
「…答えは、決まってるよね」
「……」
彼は何も答えなかった。
何を言えばいいのか、判断が付かなかった。
「安心して、戸惑わないで。キミがそう強く思ってるのは、キミの心が何もかもを覚えているからなんだよ。慌てなくても、いつか本当の意味で思い出せるから」
その言葉はまるで神託だった。
全てを知っている者の視点から、無知の濃霧に進むべき道を見失った者へと与えられる燦燦と輝く道標。
彼女自身を信じられるのか、という問いは在る。
だが彼女を否定できるのは、同じく全てを知ってからだ。
だから、願うしかない。
彼女の言った通りに世界が進んでいくことを。
「ね、今からあの湖に行ってみない?」
彼の心が決まったところで、メメがそんなことを言った。
思惑があるのか、はたまた突然故郷が懐かしくなったのか定かではないが、少なくとも今この瞬間が呑気な外出に適さないタイミングであることに間違いはなかった。
故に、コモモも大反対。
「危ないですわ! こんな暗い時間に、しかも怪物が出る場所に…!」
「平気だよ。少なくとも、後者についてはね」
「えっ?」
メメは誰かを戸惑わせることが好きなのだろう。彼女はいつも半分ほどの誠実さを見せて、後になってから意味の分かることばかりを言う。
ただまあ、今ばかりは。
やめておくのが賢明だとレクトは思った。
「……いや、明日にしよう」
「そう? まあいいけど」
その後、彼は思い出したように日記帳を開き直して。
懐中時計を覗き、意味もなく日付が変わっていることを確かめて。
表紙裏のページに一言記した。
『毒には要注意』と。
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