第18話 見覚えのない水底で。
「おはよ、レッくん♪」
「……ぁ?」
白髪の少女に抱き締められた姿勢で、レクトは目を覚ました。
何が何だか分からないような様子をして彼は周囲を見回し、文字通り何も無いことを確かめる。
そこは全てが真っ青な虚無。
辛うじて地平線だけは確かめられる、本当に何もない場所だった。
右手を地面らしき平地にそっと触れさせると、水面に指を触れさせた時のようにそこから波紋が丸く広がっていく。しかし、その波紋に指を当ててみても揺れを感じるようなことはない。
ここが普通の場所でないことは明らかで、彼は警戒心を強めた。
しかし目の前の少女が調子を狂わせる。
彼女は見るからに蕩けた表情をして彼に話し掛けた。
「久しぶり、レッくん♪ えへへぇ……大きくなったねぇ…!」
その口ぶりは親戚のつもりだろうか。
にしてはとても馴れ馴れしい。
例えるならば、幼馴染のお姉さんのような喋り方だ。
そのまま周囲の普通ではない状況を全て置き去りにして、彼女は昂ったテンションで続ける。
「あっでも? あたしは全然あの時から変わってないからさ、髪の毛とかお目目とかこのキュートなお顔も、レッくんにとってはお馴染みでしょ?」
きゃぴきゃぴ、っと自由気まま。
正直そのノリには全くついて行ける気がしなかったが、レクトはなんとか記憶を自分の脳みそから捻り出し、彼女の正体を言い当てようとする。
その試みは、残念ながら上手くいくことは無かったが。
「どっかで見た気もするが………いや、俺はお前なんて知らない。それよりここは一体どこだ? 俺はさっさと湖の怪物を片付けて―――」
故に結局彼は否定した。
単に言葉をではない。
もっと大きなものを。
まるで顔馴染みのように接してくる彼女の態度と、そこから仄めかされた彼らの関係性の全てを否定した。
残酷なほどに正しい判断だった、少なくとも彼にとっては。
何故ならば彼女の一切が記憶にないのだから、当然のことである。
すれ違いとはとても悲しいものだ。
涙が止まらない。
「う、うぅ…」
「…ん?」
彼はそこで漸く勘付いた。
止まっていることを。
白髪の彼女の楽しげ、再会を喜ぶ気持ち。
つい数秒前までは何をしても躍り続けていそうだった感情。
歓喜という水の奔流。
それが、止まっている。
水の流れを食い止めるのは非常に難しいことだ。
大きな力を以てそれを成さなければならない。
―――では、いざ止まったら次はどうなるだろう?
喜びの流れを止めた力が。
まだ残っているとしたら。
進む先は一つしかない。
逆向きに。
深い悲しみに、突き進んでいくしかない。
「…うわああぁぁんっ!」
「わっ、急に泣くな!?」
「ひぃどぉいよぉぉぉぉぉっ!」
赤子のような泣き声が辺りに甲高く木霊する。
強い悲しみはダムを決壊させ、溢れんばかりの濁流が涙となって姿を見せた。あまりに予想外の反応に彼もたじろいで、つい弱腰になって彼女を慰める方へと転じざるを得なかった。
「あ、えっと、その、なんだ……お、落ち着けって」
「うぅ…ひっく……ひぃん…!」
嗚咽のままに涙を拭う。
なんとも無様な姿である。
可哀そうに思えてきた。
しかしながら彼女のペースに呑まれてしまっては仕方ないと思い直し、彼は自分自身が抱く疑問に向き合うことにした。
息を整えて、彼は尋ねる。
「…お前は」
「”お前”じゃない」
彼女はぴしゃりと言い返す。
「名前、あるもん」
聞くに、度の過ぎた無茶であった。
彼は知らないと言っているのに、其の名を呼べというのだから。
案の定困り果ててしまったレクトは、どうせ無理だと分かりながらも手を額に当てて考えてみることにした。
ぴとん。
雫が落ちる様な音。
それは天啓の響き。
或いはあの雫を呼び水にして、浮き上がってきたのかもしれない。
彼女の名前が。
「――――――『メメ』?」
自分の発話を、彼は数秒後に認識した。
メメと呼ばれた少女は涙を拭い去って。
半ば呆れた様子を見せる。
「なんだ、覚えてるじゃん」
「いや、別に俺は、どうしてこの名前を…」
口をぱくぱく動かして、彼はその言葉にならない驚きを表現する。
それが面白かったのか。
或いは名を覚えられていたことが嬉しかったのか、メメは吹き出すように笑った。
「ふふっ、なんだか安心しちゃった。他のことはぜーんぶ忘れちゃっても、一番大事な記憶は魂の奥底に残ってたんだねぇ。だけど、どうしてあたしのことを忘れちゃったんだろう…?」
首を傾げて、メメは訝しむ。
先程から彼女の見せる一つ一つの所作が子供のように無邪気なもので、レクトの頭は混乱していた。昔からの知人だというなら彼女も相応の時間を過ごし、それなりの成長をしている筈なのに。
いや。
きっとそういう存在なのだろう。
明確な答えは浮かばずとも、彼の直感はそう囁いていた。
対してメメも自分の疑問の答えを探していたが、あまり芳しい成果はなかったらしく投げ遣りな調子で結論を出すのだった。
「ま、どうせあの人間たちの仕業でしょ。大したこと出来ないくせに、そういう機械だけは一丁前に作れるやつらだったから」
「……それ、誰のことだ?」
「うん? レッくんは気にしなくてもいいよ。もう会うことはないだろうし」
メメは乾いた笑いを浮かべてそう言った。
彼らに対し一切の関心が無いことが明白な、数秒前とは打って変わって冷たい仕草であった。
くるりと一回転。
気持ちも切り替わったように今度は感情に満ちた微笑みをレクトに見せて、その溢れ出す想いのまま彼に詰め寄っていく。
「それよりっ、これからどうする? やっぱり久しぶりに逢えたんだから、その……キスとか、しちゃう?」
白蛇は飛び跳ねて、急接近。
本人も自覚しているくらいには暴走気味であった。
そんな熱情に駆られ続けるメメと対比して、レクトは未だそのように熱い気持ちを抱くことが出来ていなかった。
ただ只管に、疑問の抱擁から抜け出せず。
唖然としていた。
「…レッくん?」
「おい、本当に俺とお前は知り合いなのか?」
「あ、また”お前”って言った! メメだよ、メメっ!」
どうやら彼女は自身の名前に並々ならぬこだわりがあるらしい。
だが今のレクトにとって、そんなことは心底どうでもいい。
「本当に分からないんだ! その声もその姿もさっぱり記憶にない、お前が俺を知ってるって言ったって、そんな証拠はどこにも……」
「あるよ」
「……っ!?」
冷たい声。
まるで氷。
「おかしいと思ったことはない? どうして自分が、不思議な力で水を操ることができるんだろうって」
ある時に考えた筈だ。
そして捨て置いた。
そんな疑問で突き刺して、メメはレクトの耳を自分の声に釘付けにした。
「……」
「アレはね、元々あたしの力なの。それをレッくんに分けてあげたんだ」
「なん、で…」
力ない問い。
メメはニヒルに笑った。
「そうしたいと思ったから。レッくんには、あたしの力が必要だと思ったから」
ああ、彼はどうしてそんなことを訊くのだろう。
全てを知っている彼女にとってはその無意味さがこれ以上なく愛おしかった。
「だけどその代わり、約束したよね」
「……約束。まさか」
やっと出てきた彼にも覚えのあるキーワード。
メメは頷いて、続けた。
「そう。力の存在を誰にも明かさない、って。レッくんはすごく義理堅い人だから、約束の存在そのものを忘れちゃっててもずっと守り続けてくれたよね。……たった一回を除いて」
ビクッ。
言い当てられた恐怖。
耳元で囁かれたくすぐったさ。
もしくはその双方。
「し、知ってるのか?」
「もちろん。元気が足りなくてちょっかいを掛けることはできなかったけど、あたしはずっと見てたから」
その証拠として、彼女はコモモについて言及する。
「コモモちゃんだっけ? 可愛いよね、あの子。あたしも直接会ってみたいな」
「……何だ」
「…ん?」
「何が、目的なんだ?」
恐れを通り越し、彼の目には敵意が現れていた。
悲しそうに溜め息を吐いて、メメは言った。
「も~、そんな悪人を見るような目をしないで? あたしの望みは一つだけ。レッくんを助けてあげること。それがあたしの恩返しなの」
いっそ、分かってもらう気はなかった。
「……恩返し?」
「そっか、それも忘れちゃってるんだね」
だとしても言う必要があった。
彼女の想いを宣言して、残しておきたかった。
「いいよ、それでも。あたしはレッくんの味方だから」
まるで自分に言い聞かせるように、最後の言葉は小さな呟きだった。
俯いていてレクトから顔は見えなかったが。
目の前の彼女が悪い存在であると、そう思うことはできなかった。
「それよりそろそろ、起きないとね」
「…起きる?」
「うん、段々大ごとになりそうな気配だし」
ちょんちょんとレクトの頬を突っついて、目覚めを誘う。
耳元に口を添えて囁くような姿勢になったが、彼に届く声はまるで部屋中に木霊するかのようなものだった。
『ね。ほら、目を開けて』
その言葉と共に彼の意識は溶けていく。
再び固まり、現世に舞い戻るために。
朧げな世界の中で、彼を引き上げるカウントダウンが聞こえてきた。
―――参。
――弐。
―壱。
「……おはよう、レッくん」
「んっ…」
目覚めの挨拶は慣れ親しんだベッドの上で。
彼が身体を起こして左を向くと、見知った姿が二つあった。
一つは、先程まで共にいたメメ。
そしてもう一つは当然。
「―――――レクトさぁぁぁん!」
「う、うわっ!?」
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