第17話 唸る水。
一人で湖に向かうつもりのレクトが、必死に付いて来ようとするコモモを何とかして説得した顛末を、果たして詳しく語るべきだろうか。
それとも、道中で彼がティレッタの言葉を思い返しながら悩み考えた、コモモへの接し方について記しておくべきだろうか。
否、今はそうではない。
彼がこれから巻き込まれていく運命について記すにあたって、決して欠かす事の出来ない出会いが存在する。今日がなければ明日もないのと同じように、彼の眼前に広がるあらゆる景色はその出会いに紐づいている。
ああ、楽しみだ。
早く会いたいな。
§
レクトは槍を片手に携え、一直線に湖を目指す。
平地もあり森もあり、回り道をした方が楽であることには間違いないのだが、ここで長いこと暮らしている彼には土地勘があるので、一刻を争う事態にはこうして最短距離を突っ切るようにしている。
前に彼がそうしたのは何年前だろう。
もう記憶には残っていないだろう。
そうして急ぎつつも、道半ばの彼はエピリが言った”緊急事態”という言葉をあまり信じてはいなかった。
理由は幾つかある。
長い間何も無かったから。
異常発生なんて話も初耳だから。
何より事実なら、自分一人だけを行かせる訳がないから。
しかし万が一のことを考えて、彼は湖にひた奔っている。
そしてその懸念は、残念なことに当たってしまっている様だった。
湖に近づいていくにつれ、空気が彼の肌をチクチクと刺すようになった。それは実在の現象であったかもしれないし、或いは錯覚だったかもしれない。
だがその痛み、そして脳髄を締め付ける様な圧迫感は、足を進めていくほどに強くなっていく。
彼はどんどん、自らを死地へと近付けている。
「……っ!」
そして、ついに現れた。
緑と紫色の衍獣。
湖の周囲に蔓延る、毒素を振り撒く怪物。
だがここはまだ湖から遠い。
本来ならば、彼らはもっと進んだ先でしか見られない。
つまり。
「マジで、大量発生って訳か…!」
彼は足を止めて周囲の様子を探る。
目の前の一体を除いて、衍獣がいる気配はない。大量発生といってもかなり早い登場だったから、アレは群れからはぐれた個体とみて間違いないだろう。
槍を一旦背中に仕舞い、彼は木に登る。
枝を伝い、あの衍獣の真上まで動いた。
そして懐から一本の水が入ったペットボトルを取り出すと、真下にいる敵をめがけて投げ付けた。
直後、手を伸ばして。
「―――弾けろ」
その言葉と同時にペットボトルは破裂した。
内側に蓄えていた水が外殻を突き破り、その破片が高速で飛散する。
無数の弾丸が身体に深々と突き刺さってしまい、衍獣は声にならない悲鳴を上げた。
そしてレクトはどうしたか。
爆発と同時に枝から飛び降り、槍を構えていた。
彼は槍を大きく一回転させ、ペットボトルから溢れ出した水を切先に纏わせた。量にしておよそ0.5リットル程度、決して大量ではないが、少なすぎることもない。
彼は素早く槍を突き刺して重い一撃を食らわせる。
その勢いで切先からはぐれた水を、今度は右足に纏わせた。
槍を逆手に、衍獣を引っ張り、その右足で蹴っ飛ばす。
人間の蹴りと侮るなかれ。
それは水を湛えた、紛れもない激流なのだ。
その連続攻撃を受ければ、いくら体躯の大きな衍獣でも一溜りもない。
彼が僅かな追撃を加えてやると、もう二度と動かなくなった。
天晴れな戦いぶり。
しかし、彼の表情は芳しくない。
「……倒せない訳じゃないが、これが大量にいるのか」
不意打ちをした。
仕込みのペットボトルを使った。
一対一だった。
様々な有利条件が重なっての余裕の勝利。
一気に大勢とは戦っていられないと、彼が考えるのも無理はない。
「こりゃさっさと湖まで行って、最強の武器を手に入れないとな」
そう。
それがいい。
早くおいで。
「……誰か、喋ったのか?」
緊張からだろうか。
それとも、近いから?
もう、声まで聞こえるようになってしまったみたい。
けど彼はすぐに先程のそれを幻聴と断じて、歩みを急ぐ。
湖まではきっとすぐ。
辿り着くまで、あと少しの辛抱だ。
§
「……着いた。で、この惨状か」
彼が湖畔に足を踏み入れて、遠く広がる水と草花の境界線のこちら側に蔓延る、悍ましい数の衍獣がそれを出迎えた。
1,2、3……彼はそれぞれ指を向けながらそれらを数えようとしたが、すぐにその行為の無意味さを思い直し手を引っ込めた。
まだ気付かれてはいない。
しかしたった一度の不意打ちが何の役に立とうか。
数多の不利を強いられることに変わりはない。
(こりゃ、あの人に感謝するべきかもな)
エピリのおかげで同行者はいない。すると彼が、周囲の目を気にすることなく力を振るうことができるようになる。
今の彼にあの人の本心は見えないが、恩恵は有難く享受するべきだろう。
槍先をそっと湖に浸して、彼は大きく息を吐く。
「ふぅ~……」
時折。
”質”より”量”とか、或いはその真逆のことが言われたりする。
しかしそれは片方しか選べないからこその葛藤であって、両方を恙無く揃えることが出来るのならそれに越したことはない。
そうでしょう?
だから。
その双方を兼ね備えたもの。
単純な”質量”が、何よりも強い。
そして、そんな凄まじい攻撃を放つことができるのが彼だ。
「天に昇れ…!」
槍を掲げる。
少し前に、川でやったのと同じように。
しかし今度の規模はそんなモノじゃない。
湖に巨大なディッシャーを突っ込んで力任せにアイスクリームの玉を掻き出すかのように、湖面が一瞬盛り上がったかと思うと弾けて、あり得ない大きさの水の球体が宙に浮き始めた。
ただの水。地上数十メートルの星。
彼はその球の位置を槍先一つで、顔色一つ変えることなく自由自在に操る。
そして地面にそれを落とそうとしたのだが……ふと思い留まった。
(少し大味だな。倒せないことはないが、効率的じゃない)
空いている方の手で指を鳴らす。
水玉は一瞬にして散り散りに砕けて無数の水滴となり、それらが宙に浮かぶ様はあたかも時間が止まった雨のよう。
彼は槍を地面に突き刺し、それらの水滴に意識を集中させた。
一部を切り出し、群れから離し、弾丸の如く地に墜とす。
轟音と共に、遠くで怪物が息絶えていく。
どうやら一部の衍獣はレクトの存在に気付いたらしいが、既に弾丸の雨が降り始めてしまった現状、彼の元に無傷で辿り着ける個体はいないだろう。
少しずつ。
少しずつ。
片付けていく。
言うなれば戦いというよりも作業であって、何の起伏も期待できないまま終わってしまうかにみられた。
”でも、そんなことは許さない。”
(……ん?)
ゴゴゴゴゴ。
彼の左耳に響く不穏な振動。
それは先程、湖から水を抉り出した時のような音。
しかしただの揺れではない。
目を向けることに不安を抱かせ、無視することへの恐怖を与える。
そんな絶望の足音のようなものだった。
落ち着かぬ気分に際限なし。
余りにも気になって、音の方を見てしまった彼は。
「……ッ!?」
驚愕した。
何故ならば湖が渦巻いていたから。
水が怒り狂っていたから。
液体によって形作られた巨大な蛇が、彼を睨んでいたから。
それは食い入るように鎌首をもたげて彼を見つめていた。彼の者の悠然たる振る舞いはその大きさだけで恐怖を誘い、何かすることもなくそれが振るい得る力の大きさを十分に誇示していた。
「っ……」
彼は手を止め、蛇に向き合う。
地上の細々とした衍獣など問題ではない。
アレを倒すか、或いは逃れるかする方法を考えなくては。
じりじりと、後ずさり。
だがあの蛇はずっと彼を向き、一挙一動を見守り続けている。
こっそり逃げるなんて出来そうにもない。
”ああ、そろそろ我慢の限界だった。”
―――ついに動き出す。
蛇は頭を突き出した。
湖面から限りなく胴体の続きが姿を見せる。
目標地点は疑いようがなく。
彼にどんどん近づいていく。
大きく口を開けている。
濁流のように迫っている!
湖は溢れた。
氾濫し、湖畔を浸し、自らを
「嘘だろ、こっちに来―――――」
彼も同様。
呑んでしまった。
§
―――邂逅。
とても長く短い眠りから覚めたあたしがこの世界に戻って来た瞬間、視界と意識の中心に捉えたのは彼ただ一人。
寝起きとは思えないくらいハッキリと意識が醒めて。
ついつい
その瞬間にじわっと。
喜びのように。
脳裏に焼き付く言葉。
捕まえた。
捕まえた!
捕まえた!!!
―――やっと、また逢えた。
ねぇ、レッくん。
あたしという蛇に吞み込まれた、この世の何より愛しい人。
ちゃんと
ちゃんと
ちゃんと
忘れてたら思い出させてあげるから。
何もかもを思い知らせてあげるから。
『ただいま』
あたしは、自分の身体の中で眠っている彼の頬にキスをした。
暖かいあたしで彼を包んで、水の底へと連れていこう。
……ぎゅっ。
抱きしめてみた。
そうしたらあたしなんかよりもずっと、彼の方が暖かくて。
すごく懐かしくて、涙が出てきちゃった。
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