第11話 夢のような日々。

 ”夢みたいだ”と誰かが言う。


 何故ならば彼がただ幸せであるからではなく、確かに手の中にあるが現実のものであると思えないからこそ、そんな言葉を口にするのだ。


 であれば。

 たとえ完全に幸せではなくても。

 現実味さえなければ、”夢みたいだ”と言ってもいいのかもしれない。


 ―――まだ、悪い夢とは呼ばずにいたいが。


 レクトは散文のような現実逃避を脳裏に書き上げつつ、目の前のキッチンで料理をしているコモモを、まな板に落ちる包丁の音に耳を傾けながら茫然と眺めているのであった。


 コツ、コツ。


 乾いた音が食材と共に時を刻み、うつらうつらとレクトの意識は暗闇の中に落ちていく。耳を打つ規則的なリズムが思考の行く先を示す篝火となって、まるで揺らめく炎を見つめながら催眠術にでもかかるように沈んでいって。


 しかし留まる。


 それは外から引き揚げられた故に。


「……さん、レクトさん」

「っ!」


 気がつくと、コモモがレクトの肩をトントンと叩いていた。

 彼の顔を不思議そうに覗き込んで、目を覚ましたと知ると柔和に微笑む。


「あ、起きました? 居眠りだなんて、きっとお疲れなのですね」


 彼女の言葉を聞いている間に意識はハッキリとしていって、最後の数文字が耳に入ってくる辺りには、自分が椅子の上で眠ってしまっていたのだと自覚できるまでに至っていた。


 落ち着いて息を吸ってみれば部屋中に広がる食べ物の匂いを感じ、コモモが自分を起こした理由も何となく理解した。


「お昼ごはんができましたよ。心を込めて作りましたので、レクトさんの口に合うといいのですが…」

「……ああ、ありがとう」


 今日も、コモモがレクトの為に食事を作った。


 そのまま座って待っていると、レクトの目の前に食事が並べられていく。野菜がふんだんに使われたスープに、焼いた魚の切り身、そしてふっくらと炊かれた白米。


 料理に疎い彼でも、中々の手間が掛かっていることはよく分かる。怠け者のレクトは箸とスプーンまでコモモに持って来てもらって、彼女が作ってくれた料理をゆっくりと食べ始めた。


 コモモは自らの分には全く手を付けず、レクトが箸を口に運ぶ仕草を両手で頬杖をつきながら見つめていた。


 そうして彼が半分ほど腹に収めた頃、遠慮がちに尋ねる。


「どうでしょう?」

「…美味しいよ」

「うふふ、それはよかったですわ♪」


 それを言うレクトの顔は無表情に近かったが、少なくともコモモはその声に嘘の色を感じなかった。


 彼の返答を聞き安堵したように微笑んで、温くなったスープを口に運ぶ。

 今日のスープの味は、彼女にとっても満足のいくものだったようだ。


(料理の腕が上達していること、自分でも分かるのが嬉しいですわ)


 コモモがレクトの自宅に半ば無理やり上がり込んでからそろそろ五日が経とうとしている。


 今のところは餞別としてエピリから受け取ったレシピ本に頼り切った料理をしている彼女であったが、それでもレクトが作る”ふかし芋”と比べれば遥かにクオリティも高いし、バリエーションも豊富だ。


 まだ初学者ということで拙い部分もあるが上達もしっかりと期待でき、料理の才能は充分に持ち合わせていたといえるだろう。


 しかし悲しいことに、胃袋を掴めば何もかもが上手くいくかと言われればそうでもない。


 彼はまた、使い古した問いを繰り返そうとする。


「なあ―――」

「本気ですわ」


 即答。

 というより、質問さえ聞かなかった。


「どうして…」

「もう七回目ですから、全部言われなくても分かります」

「……はは、もうそんなに聞いたのか?」


 その回数は彼の戸惑いの現れ。

 自分が誰かと共に暮らすなんて、考えたこともなかったから。


 だけどコモモはもう、その先のことばかりを考えている。


「キッチンの様子を見れば普段からお料理をしていなかったのは丸分かりですし、部屋の整理整頓もやっていませんでしたよね。他にもお洗濯とか、お掃除とか、レクトさんが面倒に思うことはわたくしが全てやってさしあげます。悪い話ではないでしょう?」


 自堕落な人間にとっては何とも魅力的な提案だった。


 レクトはエピリと違って人間ではないが、楽を嫌うようなストイックな性格をしている訳でもない。それでも簡単に受け入れられないのは、この日々が彼の記憶とあまりにも乖離してしまっている所為だ。


 どうにも落ち着かない。

 他人を演じているような気がしてしまう。


「いや、そういう問題じゃなくて」

「……ではなくて、なんでしょう?」


 コモモは距離を詰める。

 その動きは徐であったが、レクトの息は詰まった。


「もしかして、わたくしと一緒にいることが嫌なのですか?」


 上目遣いと慕情の懇願。

 ただ静かなその問いは、彼の焦りを誘うのに十分な危うさを秘めていた。


「あ、やっ、違う、だから……!」

「なら、いいですよね?」

「え、あ、ああ…」


 慌てれば、掴み損ねる。

 錯乱に乗じて、同意の言質を奪われてしまった。


「うふふ♡」


 漸く明確な言葉を以てレクトに受け入れてもらえたコモモは、とても嬉しそうに身体をくねらせていた。




§




「レクトさんのその不思議な、他の皆さんには内緒にしていますけれど、それってどうしてですか?」


 食べ終わった後の食器を片付けて、ゆったりと落ち着いて。

 同棲が正式に決まった安心感からか、彼女はそんな疑問を思い出した。


「きっと、隠すようになった理由があると思うんです」

「……理由、か」


 レクトは目を閉じて、質問の答えを思い出そうとしているようだった。


 次ぐ言葉をコモモは静かに待ち望んで。

 固唾を呑んで。

 しかし、何も無くて。


「―――あれ、何でだっけ」

「えっ?」


 しばらく後に聞くことができた返答は、なんとも拍子抜けであった。


「……」


 レクト自身も驚いていた。

 確かにあると思っていた記憶が、いざ振り返ってみた瞬間に空虚な穴であることを思い知った。


 どうして、何もない?


(思い出せ、確かにある筈だ。俺が自分の力を隠すようになった理由が…)


 深呼吸をする。


 今度は目を閉じるのではなく部屋の中を歩き回り始めて、頭の中になくても物理的な何かがそこに残っていることを期待し、形あるものに触れることによって脳裏に閃きが下りてくることを願った。


 その甲斐があったかは分からないが。

 一歩の前進は果たせた。


「約束したんだ。誰かと」

「…誰か、とは?」

「………分からない」


 目を伏せて首を振る。


「でも、確かなんだ」


 まるで喉に引っ掛かった魚の小骨。

 そこにあることは分かっているのに、取り出す方法が解らない蟠り。


「不思議なこともあるものですね」

「ごめんな、大したこと言えなくて」

「気にしないでください、いつか思い出せたら詳しく聞かせてくださいね」

「ああ、そうするよ」


 そこで話は一区切り。

 また取り留めのない雑談に戻るかと思われた、その時であった。


「……くんくん」

「うわっ!?」


 突如、レクトの匂いを嗅ぎだすコモモ。

 彼は驚いて離れようとするが、強い力で抱き締められて叶わない。


「ど、どうしたんだよ」

「レクトさん。今着ているこの服、いつ洗いましたか?」

「え? 洗ってるぞ、ちゃんと水で濯いで、乾かしてる」

「……え?」


 コモモは言葉を失った。

 そして直後に飛び跳ねるように、グイっとレクトに食って掛かった。


「だ、ダメですわっ! 服はちゃんと洗剤を使って洗わないと、だんだん臭いがするようになってしまうんです!」


 その服装や口調から推察できるように、コモモは生まれながらにして高貴な血筋のお嬢様のような気質を持っている少女である。そんな彼女が、自分の好いた相手が自らの身なりに全く気を遣っていないという事実を目の当たりにして、何も思わない筈がない。


 彼女が胸中に抱える熱は更に大きく、彼を包み込まんと広がる。


「別にそんな、気にしなくたって」

「なりませんわ!」


 語気は一層強くなる。


 その勢いに気圧されたレクトは話を逸らそうとするも、そう上手くいくとは彼も信じていなかった。


「コモモはすごいな、服を洗濯しないといけないことまで知ってるなんて。どこで知ったんだ?」

「す、すごいだなんてそんな…! これはただ、博士さんに貰った家事についての本に書いてあっただけで……って、そうではなくて!」


 誉め言葉に一瞬流されそうになったが、しっかりと気を持ち直して。

 コモモはレクトの服を掴んだ。


「誤魔化しは効きませんわ! わたくしが洗いますから、ほら!」

「ほら、って言われてもな」

「服を脱いでください、と言っているのです!」


 そう言って更にぐいぐいと、彼の服を脱がそうとする。

 レクトは驚きに目を丸くしながらも、自らの尊厳のためにそれに抗った。


「脱ぐのか!? ここで!?」

「恥ずかしがらなくても、わたくししか見ませんわ!」

「それが恥ずかしいんだが…」

「ほらほら、お気になさらず!」


 服を巡る攻防はついにクライマックス。


 しかしコモモはアニマルガール。

 レクトが幾ら戦い慣れしていると言っても、その純粋な膂力りょりょくには敵わなかった。


「うわっ!?」


 とうとう、上半身の上着と肌着を根こそぎ無理やりに脱がされてしまう。


「あっ…」

「……どうした?」


 目的を果たして喜びを見せるかと思われたコモモであったが、予想に反して彼女の口から出てきたのは困惑の声であった。


「レクトさん。その……お体の傷は、いったい?」

「傷? 傷なんて…」


 最近怪我をした記憶はない。

 コモモは何を言っているんだろうと、自分の身体に目を向けて。


「……っ!?」


 絶句した。


「なんだ、この傷」


 皮膚の上に残る無数の古傷。

 それは重い怪我の後のようでもあり、或いは手術痕のようでもあり。


 正しく表現するならば、それら全てが揃っていると云うべきであろう。


 そして当然のように。

 彼はこの傷に全く見覚えが無かった。


「はは。なんだか、自分のことなのに分からないことだらけだ」

「どう考えてもおかしいですわ! レクトさん、本当に心当たりがないのですか?」

「……さっぱり、だな」


 記憶以上に不可解な現象だ。


 普通の生活を送っていれば自分の身体の様子など幾度となく目にしてきた筈なのに、今更このように驚くなどとは。


 コモモがいなければ、ずっと気付かないままだったのだろうか。


「まあ、とりあえず洗ってこいよ。俺は、別の服に着替えてくるからさ」

「レクトさん……」


 少し無理やり明るい感じを出してみて、レクトは奥の部屋に姿を消した。


 リビングに一人残されたコモモは彼から剥ぎ取った上着をぎゅっと抱えて、脳裏に焼き付いてしまったあの傷痕を思い起こして。


 それでも何も解らないのだから日常に、何も考えずに戻るしかなくて。


「あなたは、いったい」


 夢に戻る前に現に残す、小さな一言だった。

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