第9話 氷に冷たく閉じ込めて、その内側で燃え盛るもの。

「わあ……!」


 港から、深い青に向かって突き出した一本の波止場。

 その先端に足を運んで、視界のいっぱいを青に染めてコモモは感嘆の声を漏らす。


「近くで見ると、より大きく感じられますね」

「すごいですよね~。ずうっと遠くまでこの景色が広がってるなんて、分かってても信じられないですもん」


 いつも目にしている筈の海を眺めてなお飛び跳ね、快活な様子を見せるホッキョクギツネ。目新しさは既になくとも、それなりの時を過ごしたことによる愛着がそこにはあるのだろう。


 レクトはコモモを港に連れてきた道中と同様、彼女と手を繋いだままホッキョクギツネに一つ尋ねる。


「で、おっちゃんは?」


 対し、ホッキョクギツネはその手に視線を落としてクスッと笑う。


「あっちですけど、いいんですか? 行ったら、あの人は蕎麦屋のおばちゃんより沢山からかってくると思いますけど」

「…………そうだな」


 その指摘に気付きを得て、レクトは手を離した。


「あっ…」


 瞬間、コモモの寂しそうな声。

 彼は聞こえなかったふりをして、店主を探し始める。


「お、いたいた」


 程なくして彼はよく知る後ろ姿を見つけ、手を振りながら声を掛ける。


「おーい、おっちゃん」

「……ん? おぉ、レクトじゃねぇか!」


 呼ばれて振り向いた魚屋の店主は、すぐさまレクトの姿を認めて破顔する。彼の肩に腕を回して力強く引き寄せ、尋ねる。


「よく来たな、魚か?」

「ああ、ついでにな」

「喜べ! 今日は大漁だぞ!」


 そこで、閾値を越えたのだろう。


 店主は突然レクトの肩を手放して、大股の足取りで向こうに置かれた生簀の方へと歩いていく。自由になった彼もそれに次いで、並々と張られた海水の内側に視線を向ける。


 まあ、生簀とは云うものの。

 その水に浮いている魚は、みな既に締められているようだ。


「あーしかし、フクロウちゃん達に持っていくなら凍らせた方がいいよな? ホッキョクギツネがいれば簡単にできるんだが…」

「呼びましたか?」


 名を呼ばれた直後に、ひょこっと白い影が差す。

 おっちゃんは目を丸くして、またすぐに明朗に笑う。


「なんだ、待ちきれなかったのか?」

「そういうのじゃないです、お蕎麦を食べたついでですよ!」

「だがなあ、いつもは楽しそうにやるじゃないか」


 腕を組み、鋭い指摘。

 照れるようなことには思えぬが、ホッキョクギツネは頬をほんのり赤らめる。


 そして、わざとらしく咳き込んでみせた。


「……おほん! どうやら、レクトさんにわたしの新しいお仕事を見せる時が来たようですね」


 堂々と胸を張るその仕草から、余程の自信が伺える。アニマルガールさながらの力仕事以外に何か手伝うようなものがまだ残っていたとは、レクトも意外な心持ちであった。


 ホッキョクギツネは調子に乗って、店主に向かって掛け声を出す。


「店主さん、お魚を!」

「おうよ、ちょいと待ってな!」


 応えて生簀に腕を突っ込み、その豪快な往に反して復の手付きは優しく、両腕を思いっきり広げたくらいの大きな魚をその太い腕で抱き上げる。


 他の船員が台を用意し、その上に寝そべる一尾の魚。

 さて、何が行われるのやら。

 真剣な面持ちの白狐を、皆が見つめる。


「せーの、ふぅ~~~っ!」


 さあ劇は一瞬。


 ホッキョクギツネは大きく息を吸い込み、肺一杯の呼気を吐く。


 それは極寒の風。


 零れた流れがレクトの指先を撫でて、思わず彼は腕を引っ込めてしまう。

 そうやって気を逸らしている間に、台に載せられた魚は真っ白に、カチコチの冷凍魚になってしまった。


「……凍っちまった、のか?」

「その通りです!」


 コンコン、と。

 丸めた指の第二関節で魚の表面を叩き、その凍りようを示してみせる。


「これなら日が経っても、なるべく鮮度を保ったまま料理に使えるだろ?」

「そうだろうな。別に俺は鮮度が落ちても気にしないが」

「そりゃお前さんの舌が鈍いだけだ。あのフクロウちゃん達はしっかり喜んでくれると思うぜ」


 真正面から自らの大雑把さを咎められ、レクトも少し渋い顔をする。


 きっと不服なのだろう。

 本人は自分の舌に瑕疵があるとは微塵も考えておらず、その味覚を至ってまともなものだと考えている。


 無論、おっちゃんには理解されないだろうが。


「なんだったら使わないで、自分たちで目利きに来ればいいのになぁ」

「エピリさんがもう少し勤勉になれば、その暇もできるだろうな」


 はっきり、皮肉を投げつけて。

 遠回しに、責任を擦り付ける。


 そんな風にレクトと店主が話をしている間に、一仕事終えたホッキョクギツネはコモモにちょっかいを掛けていた。彼女を生簀の傍まで連れてきて、金魚すくいの屋台を見て回るような温度感で釣り上げた魚を見せている。


「コモモさん、コレ美味しそうだなって思うお魚さんはいますか?」

「いえ、わたくしはあまり詳しくありませんので……」

「なんとなくでいいんですよ、いい料理の仕方は店主さんが教えてくれます」


 そう言われて、コモモの気持ちにも少し熱が入る。


 少し前にレクトの為に料理を勉強するとそう決心した彼女であるから、調理法まで教えてくれるとなればそれほど良い話は無い。


 目利きの仕方は知らずとも、その眼差しは真剣だ。


「……」


 まじまじと魚に見入るコモモを横から見守るホッキョクギツネ。

 彼女をここに連れてきた身でありながら、胸中は別のことに気を取られている。


 それはコモモとレクト。

 彼らの関係性、その行く先。

 二人のやり取りと態度を観察し、先程から抱いていた多少の確信。


 自らは第三者なれど、さりとて。

 そのままにしておくには少々もどかしくて。


 ホッキョクギツネは。


「ねぇ、コモモさん」


 何の思惑もなく。

 ただ、面白そうという理由で。

 揶揄ってみてしまった。


「レクトさんのこと、好きなんですよね?」

「……ッ!?」


 耳元で囁かれたダイナマイト。

 豆鉄砲でいっそ殴られたかのような衝撃。

 吹雪の寒さに包まれたかのように全身を強張らせ、硬直するコモモ。


 ホッキョクギツネは、面白くてクスクスと笑った。


「その反応も含めて、すごく分かりやすいですよ」

「わ、わかりませんわ」

「えっ、分からない?」


 息がしづらい。

 そんな風に胸に手を当てて。

 コモモは自らの混乱を前面に押し出して、彼女に尋ね返した。


「す、好き、というのは、どういう気持ちなんでしょう……?」


 その質問を耳にしたとき、彼女は何とも言えぬ笑みを心の中で噛み殺した。小さい子供の不器用さを見守るような、そんな温かみがじんわりと胸に広がった。


「ほら、レクトさんの方を見てみてください。そしたらきっと、何かしたくて堪らなくなるはずです。コモモさんにそう思わせるのが、心の中にあるって気持ちだと思いますよ」


 そっと首に手を添えて頭を動かし、コモモの視線を彼に向けさせる。


 初対面にしては過ぎたスキンシップだが、ホッキョクギツネの揶揄いに余裕を奪われ、剰えその直後にレクトを視界の中心に捉えてしまっては、彼女にそんなことを考えている余裕は全くなかった。


 言われた言葉を繰り返し、思考は堂々巡りへと陥る。


「わたくしが、したくて堪らないこと……」


 目は釘付けに。

 理性は氷漬けに。


 てくてくと。

 キツネのもとを離れ。

 灯りにつられるが如く、彼女な緩慢な足取りでレクトへと吸い寄せられる。


「コモモ、どうかしたか…?」

「……」

「…っ!」


 ぼふっ。


 無言のまま倒れ込むようにレクトの胸に顔を埋める。

 彼は驚くがまだ何もせず、今はコモモの為すがまま。


 そして肝心のコモモはというと、熱に魘され譫言を口にするように彼の名前を何度も繰り返し呼ぶのだった。


「レクトさん、レクトさん…」

「…コモモ」


 この突飛な行動に何か掛ける言葉があろうか。

 レクトはぽつりと、ある種の白旗としてコモモの名を呼んだ。

 全く無意味な呟きだと思っていただろう。


 だが立ち位置を翻せばその意味は鏡に映る景色のように一変し、コモモの心に突き刺さる。


「…ぁ」


 名前を呼ばれて彼女はすぐさま顔を上げた。

 レクトの目をまっすぐに見つめて、そうしたら何かを考えることさえできなくて。


「好き」


 浮かぶだけ。


「好きです」

「なっ…!?」


 喉を衝いて言葉になるだけ、そこに愛が零れてしまう。


 それは彼らの出会いを考えればあまりにも早く、そして半ば事故のような形で行われた告白だった。


 何も無かった。

 葛藤も。

 覚悟も。

 決断も。

 ただ只管に、衝動だけがあった。


 そして。

 二人の間にだけあり、見える、危うさなどつゆ知らず。

 祝福の声さえ聞こえてくる。


「おおっ、こりゃ目出度いな! 折角だから鯛でも……イテッ!?」

「店主さん、空気読んでくださいっ!」


 背中を叩いて、キツく諫める。


 さりとてホッキョクギツネもただ場の雰囲気を乱すまいとそう言っただけで、自らが作り出してしまったの存在も、コモモがそこを通ったが故の行く末にも一切の認識はなく。


 バツが悪そうに笑ったおっちゃんについて行き、二人は他の魚を処理するために他の船員の所へと向かう。



 ――――そして、渚の俎上で。



「……俺、は」



 呑み込まれてしまいそうだ。

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