第8話 突き抜けて、無味。
店先の暖簾を、ホッキョクギツネの白い手が持ち上げる。
「おばちゃん、やってる?」
「まあいらっしゃい、もちろんやってるよ」
パサッ、パサッと、厨房の奥で麺のお湯を切る音がする。その音の主であるおばさんはちらりと入り口の方を見て、小さな驚きに目を丸くした。
「おや、今日はお友達も一緒かい?」
しかしそれに留まらず。更に彼女の驚きを倍増させたのは、ホッキョクギツネの後ろからレクトが姿を見せたこと。こなれた調子で右手を挙げて、レクトはおばさんに挨拶の言葉を掛ける。
「おばさん、久しぶり」
「おお、レクトくん! なんだい、ちょっと髪が伸びたように見えるね」
「ま、一か月くらいは経ったからな」
「うんうん、元気そうでよかったよ。それに…」
おばさんは、レクトの隣に立っていたコモモへと目を向ける。
「……ふふ、可愛い子を連れてきたじゃないか」
「わ、わたくし…!?」
文脈から、レクトは彼女が言わんとしていることを察した。
それでついつい反射的に、否定するような言葉を口にしてしまう。
「いや、そういうんじゃなくて」
「隠さなくてもいいの、年頃の男の子なんだから!」
「う……」
グイっと一気に決めつけられて、話が強引に進んでしまう。そうすると、強く否定してしまってはコモモに対して悪いのではないかと、葛藤に襲われて何も言えなくなった。
そして恐らくは、自分の思考に向き合うことが怖くなったから。
彼が横目にコモモの様子を窺ってみると、彼女も顔をほんのりと赤らめていて。
「……」
見つめる彼の視線に気づき、彼女は恥ずかしさに目を逸らしてしまった。
「注文は何にするんだい?」
「きつねそば!」
「うんうん、ホッキョクギツネちゃんはいつものやつだね」
時間の止まった二人をよそに、外の世界は進んでいく。ホッキョクギツネはささっと注文を済ませて、カウンター席に腰掛けた。
「二人もお掛け、決まったら言ってね」
「あ、あぁ…」
凍り付いた思考が元に戻ってやっと、店内に立ち込める湯気の暖かさに気づく。上着を脱がなければ暑くて大変だったのは、きっとその熱が故に違いない。
だって、そこのホッキョクギツネも軽装にしているのだから。
そうに決まっている。
彼はそう考えた。
何故、そんな風に上着を脱ぐ理由を用意しなければならないのか―――という痛い部分を突く問いには全く目を向けることもなく。
考え込んでいる間に、彼らよりも先に来ていた他のお客さんの分が出来上がった。
その瞬間まで、三人の間に一切の会話はない。
何たる偶然であろうか、コモモもレクトと同様に物思いに耽っていたようだ。
おばさんの溌溂な声が店に響く。
「かけそば大盛り、お待ちどうさま!」
だが茫然とした頭を通せば、耳から入ってくる賑やかな周囲の声も曇りガラスの向こう側にあるかのようにぼやけてしまう。
二人はしばしそんな調子だった。
「あの、レクトさん」
「わっ!? ……ああ、どうした?」
黙っていることに居心地の悪さを感じたのであろう。コモモが思い出したように声を掛けると、レクトは背後から不意を突かれたような声を出し驚いた。すぐに姿勢を整え応えたが、本調子でないことは明らかだった。
しかしコモモにもそれを指摘するような余裕はなく、単刀直入に胸に抱えた疑問を投げかける。
「……その、ここにはよく来るのですか?」
お冷のグラスの縁をなぞりながら、指先の感覚とその質問を以て疎外感を埋めようとする。
未だ彼と知り合って日が浅いゆえ仕方のないことなのだが、知らない姿の彼が顔見知りとしてこの空間によく溶け込み、そして自分がまだ蚊帳の入り口にしかいないという実感が大きな寂しさを彼女にもたらすのである。
かといって自覚のない彼女に他の手段はなく、こんな迂遠な聞き方でしか近づくことができない。
「ちょくちょくな。自分の用事もあるし、集落絡みの頼まれごともある」
「そうなのですね……その、”自分の用事”というのは?」
コトンと音を鳴らし、レクトはグラスの位置を意味もなく整える。
「ここに来るまでの道のりで、山が見えただろ?」
「はい、そうでしたね」
「大雑把に言うが山があるとな、そこから綺麗な水が取れることがあるんだ」
所謂”湧き水”と呼ばれるもの。
特段に美味しいとか、健康に凄まじく良いとかそう言った話こそ聞かないが、無味でありながら透き通るようなその舌触りを好む者は少なくない。
彼もその一人なのだろう。
「……その水を、飲みに来てる」
「水がお好きなんですか?」
「まあ、な」
口走るは歯切れの悪い返答。積極的に肯定するほどでもないが、かといって違うと言い切るのも腑に落ちぬ、そんな心情。
ふと、ホッキョクギツネが横から会話に入り込んできた。
「わたし、いつも思ってましたよ。レクトさんって大飲みだなぁって」
「はは、なんだか酒豪みたいな二つ名だな」
そう茶化したものの、レクトは酒を飲んだことがない。
かつてこの地にあった社会では、二十歳に満たない人間は酒を飲めないという決まりがあったそうだが―――今となってはそのようなルールを定め、守らせるような実力を持った組織は存在しない。
それでも、綿々と守り続けてきた規則はやがて風習へと姿を変えて、半ば不文律となって人々の行動に影響を与えている。
さておき。
彼らのやり取りを聞いていた蕎麦屋のおばちゃんが、山の水についてもっと詳しく話をしてくれた。
「山の水はねぇ、港で獲れる魚と並んでうちの村の特産みたいなものなんだよ。とっても澄んでいて美味しいから、それで本当にお酒でも作ろうかって話が時たま上がるんだけど……ははは、設備や知識がどうにもならんらしいね」
酒造の伝統がある訳でもないから仕方ないと、おばちゃんは言う。
そして三杯目のお冷を飲み干したレクトに目をやって。
「まあしかし、そんな風にうちの水をがぶ飲みするのはレクトくんくらいなものだよ!」
明朗に笑う。
その笑い声は奥に遠ざかり、また戻ってくる。
「ほい、新しいピッチャーね。水が無くなった方は持ってくから」
「助かるよ」
四杯目を注ぐ。
ピッチャーをすぐ隣に置くのだから、更に飲むつもりなのだろう。
コモモは何も言わず目を丸くしていた。
「で、二人は何を食べるんだい? ほら、メニューは壁にあるから好きに選びな」
「わあ、沢山あるのですね…! レクトさん、どれがおすすめですか?」
「え?」
唐突に意見を求められ、レクトは当惑する。
食に対するこだわりを持たないが故、一層アドバイスには困ってしまう。
「……ホッキョクギツネに聞けば、その方がずっと詳しいさ。俺はこういうのの味なんてよく分からないからな」
「わたくしは、レクトさんのおすすめが聞きたいですわ」
にも拘わらず、コモモは”彼”の意見を求める。
少し考え込んで、彼はそれっぽい理由をでっち上げられそうなメニューを勧めることにした。
「天ぷらそばとかどうだ。サクサクしてていいと思うぞ」
「では、それにいたしましょう♪」
「天ぷらそばが二つだね、すぐに作るよ」
なんとかなったと、息を吐く。
そして飲む水は六杯目。
「そうだ、お蕎麦を食べ終わったら港に行っちゃいましょうよ! もしかしたら店主さん、何か困っているかもしれませんから」
ホッキョクギツネがそんな提案をした。
元々は店主が戻ってくるまでの時間を潰すついでにここまで来たのだが、蕎麦を待っている間に気が変わってしまったようだ。
「ま、それもアリだな」
レクトは頷き、七杯目のお冷を注ぐ。
そして暫し蕎麦を待ち、やってきた食事を三人で楽しみ、その場を後にする。
―――去り際。
「また来なよ!」
「ああ」
「その子とも仲良くね!」
「……ああ」
胸の奥がむず痒くなることをおばちゃんに言われ、逃げるようにレクトは店から飛び出して。
「レクトさん…?」
「行くぞ」
コモモに何か言う隙も与えず、彼女の腕を引いて歩いていくレクト。
「えっと、その…」
「……あっ!」
数秒後、彼は自分のしていることに気付き。
いっそ引っ込みのつかない手で、再び彼女の手首を握って。
数秒前と同じように、能面を気取って港へと向かう。
「……ふふっ」
そんな微笑ましい光景を後ろで眺めて、ホッキョクギツネは頬を緩めた。
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