第7話 海を知り、水を知り、藍は未だ。

 目的地へと近づくほどに、か細くなっていく道の先。関門のように狭まった山間を抜けて尚歩みを進めれば、彼らは目にすることになる。


 明転。


 海辺に立ち並ぶ漁村の家々。

 埠頭に浮かぶ幾つもの漁船。

 そして。


 その視界を押し潰さんとす、見渡す限りの青色を。


「わあ、なんて大きい……!」


 唖然として、コモモはその場に立ち尽くした。そんな彼女の髪を爽やかな潮風が撫でる。癖になりそうな磯の匂いが鼻孔をくすぐって、限りなき水平線はまだその名も知らなくて。


 此処はまるで別世界。


 それにも関わらず、どこか懐かしく思う気持ちが芽生えていた。


「そっか、コモモは海が初めてなんだったな。広いだろ? 見渡す限りどこまでも、塩辛い水で埋め尽くされてるんだ」


 海の説明としてはどうにも本質ではないというか、もっと他に相応しい説明があるような気がするものだが、インパクトという面では申し分なく、彼が意図した通りの反応がコモモから返ってきた。


「塩辛いんですか…!?」

「ああ。それを色々やって乾かして、料理に使う塩を作ってるらしい」


 序でにそうも言う。


 コモモが料理を頑張ろうとしているから、そのように付け足したのだろう。


「なるほど、あのお塩がここで…」

「それだけじゃないぞ」

「…何か、他にも?」


 そして料理に絡めるならば、欠かしてはならない話題がそこにある。海にまつわる大きなトピックの一つでもあるし、この流れを見越して後回しにしていたのかもしれない。


「魚だ」


 波打ち際を指し、漁船の在り処を示す。


「向こうに沢山船があるだろ」

「…ごめんなさい。『ふね』とはどれのことでしょう?」


 最早、初々しいと形容してさえ差し支えない。

 ついそう思ってしまうほどの知らなさ加減であった。


「ほら、あの辺。水に浮かんでる、あの白い乗り物のことだ」


 コモモに説明を続けていくレクトの言葉選びも、知らず知らずのうちに幼い子供に言い聞かせるようなものに変化していく。


「海の中には魚がいっぱい泳いでて、漁師っていう人たちがあの船に乗ってその魚を捕まえに行くんだ」

「それが…わたくしたちのお食事に」

「まあ、泳いで採りに行く人やアニマルガールもいるらしいがな」


 そんなことを話している間に、もう目的地は目の前だ。


 緑に溢れた雑木林は、いつしか疎らな漆喰の白色へと塗り替わっていた。

 土が剥き出しのままだった道も、段々と舗装されていく。


「家が近くになってきたな」

「これからどちらに?」

「魚屋さん。よく世話になってるおっちゃんがいるんだ」


 一層強く、吹く潮風。

 歩きの旅は一旦これまで。


 レクトの先導のもと、二人は大きなマグロの看板が掲げられた、いかにもな魚屋の前までやってきた。


「おーい、いるかー?」


 何の警戒心もなく開け放たれたシャッター。家の顔面の大部分を占める真四角の口から飛び出した、魚の匂いが染みついた商品棚。


 その大口に向かってレクトがひとたび呼び掛けると、程なくして人影が建物の中から姿を見せる。軽やかな足取りと、気の抜けるような間延びした声を伴って、少女が現れた。


「いらっしゃいませ~……あ」

「お、君か」


 白い、ぴょこぴょこ動く耳。

 見るだけでもふもふだと分かる、大きな尻尾。

 丸くて綺麗な黄色い瞳。


 どう見たってアニマルガールだと、何も知らないコモモでも直ぐに分かった。


「お久しぶりです、レクトさん。用事ですか?」

「まあな」

「お元気そうで何よりです」

「そっちも、良さそうな感じで安心したよ」


 そこでレクトは店の中を覗き、奥の方にぱたりと仕舞い込まれている”営業中”の看板を見つけた。


 しかし確かに、商品棚に眠っている魚は一匹もいない。

 加えて普段ならば、この少女よりも先にの大声が聞こえてくる。


 この時間帯ならお店を開いていても全くおかしくない筈だが、今日は定休日だっただろうか。気になって少女に尋ねてみる。

 

「おっちゃんは?」

「店主さんは港まで釣果を確かめに行ってます。たぶん、そのうちお魚を沢山抱えて戻ってくるはずですよ」


 成程と、レクトは納得した。


「ところで、そこの方は?」

「あっ…」


 白い少女の興味が隣のコモモに向く。

 予期していなかったようで、彼女は少したじろいだ。


 仕方無し、代わりにレクトが場を繋ぐ。


「紹介するよ。コモドドラゴンのコモモだ」


 そして彼は体を翻し、コモモに対して白い少女を紹介する。


「この子はホッキョクギツネ。この漁村に住んでるアニマルガールの一人だ。普段は……専らここの手伝いだったか?」

「はい♪ それに最近は、わたしの特技を使ったお手伝いもできるようになったんですよ! 店主さんが戻ってきたら、レクトさんにも見せてあげますね」


 特技、と聞いて。


 彼女が過去に寒さを体感するべく冷凍庫で眠るという奇行を働いたことを思い出したレクトは、笑いをこらえて少し変な顔になった。


「ああ、楽しみだな。……そうだ、お昼も近いだろ? おっちゃんが戻ってくるまで長いなら、そこらで一緒に食べないか」

「それ、いいですね!」


 食事と聞いてホッキョクギツネの表情が三割増しで晴れやかになった。

 当然だろう、食べることが嫌いなアニマルガールはいない。


「今日はお蕎麦の気分です。向こうのお店に行きましょう」

「いいぜ。さ、コモモも」

「は、はい…!」


 ホッキョクギツネの出現からずっとレクトの後ろに隠れて、どうにも存在感を発揮できていなかったコモモ。彼女が蕎麦屋を目指して二人から離れた隙を突き、彼の手首の袖を引っ張る。


「………あの」

「ん、どうかしたか」


 おずおずと。

 しかし、根は重く。


「ホッキョクギツネさん、でしたっけ? なんだか距離が近くないですか」

「そうか? あんなもんだぞ」

「ホントですか…?」


 当然のように振る舞うレクトにコモモの胸中はじりじりと燻った。


 何故ならば。

 嗚呼。

 何故ならば。


 一旦、それは置いておくとして―――煮え切らない態度のコモモをからかうように、レクトは突然彼女に顔を近づける。


 そして。


「大した事ないさ、コモモも同じくらい近づきゃ―――」

「……っ!?」


 彼女は案の定というか、頬を真っ赤に染めて驚きのあまり飛び退いた。


「わ、わわわ、わたくしは……!」


 それを見て。

 彼はそれを見て。

 面白可笑しく笑うでもなく、どうにも神妙な顔をした。


 目の前に立っているとは思えない距離感。

 重なっていて、故に追いかければ遠ざかってしまう関係性の虚像。


 そんな錯覚の空気を壊すのは、第三者の目なのである。


「おーい、二人ともどうしたんですかー」

「い、今行きます! レクトさんも、ほらっ!」

「…そうだな」


 逃げるように走るコモモの背中を見つめる。

 抱えきれない分は声になって出てくる。


「どうしたもんかな」


 まさか、彼が何も知らずこんなことをした訳はない。

 ただ少しだけ確証が持てず、迂遠に確かめようとしただけ。


 その結果をどう受け止めるのか、大した決心もつかない間に。


 もう分かっている。


「―――いい、のか?」


 もう、分かっている。

 だがそれだけだ。

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