第2話 煙を掴むが如く。
執務室の扉を開けると、天井を伝う微かな白煙が何よりも早く彼らを出迎えた。煙の流れを辿れば目にする部屋の奥、その煙の主は回転椅子を優雅に回して、来客の方へと顔を向ける。
そして赤銅色の煙管を口から離し、ふぅと煙を口から吐いた。
「やあやあ、お疲れ様だねレクト君」
彼女こそがこの執務室の主。
ベージュのスーツを着こなし、琥珀の長髪を湛えた麗人。
この森林の集落のまとめ役であるエピリは、レクトに向けてにこりと笑った。
「……エピリさん。煙管は外で吸ってくれって、いつも言ってるだろ?」
「おや、臭うかい? ちゃんと換気はしているつもりなんだがね」
くんくんと鼻を鳴らして、とぼけるように首を振る。
「まあいいじゃないか」
「良い訳あるか、他の客だって気にすることだぞ?」
「そんなことより、いつもの調査結果を聞かせておくれ」
「……分かったよ。アンタも本当に物好きだな」
ソファに腰を下ろして、レクトは態と聞かせるように独り言ちる。
「―――あんなの、これ以上調べたってどうにもならないだろうに」
エピリはその言葉に返事こそしなかったものの、ニコリと意味深な笑みをレクトに向けるのだった。
「失礼するのです」
「お、お邪魔します…!」
そこに遅れて、助手とコモモが部屋に入ってきた。
助手は慣れた調子でレクトとは逆側のソファの端に腰掛け、コモモは緊張した素振りできょろきょろと様子を窺いながら、飛び込むようにレクトの隣に座った。
助手がレクトに今の状況を問う。
「話はまだ始まっていないですよね?」
「……そういや、報告は二人も一緒に聞くんだったな。なら、さっさと終わらせて何か食べよう」
「良い考えなのです」
食事のことを聞いて、助手の頬が緩む。
「コモモちゃんもいるから、まずは前提を共有するところからだね」
「だな」
エピリに促されるまま、レクトが話し始めた。
「俺はそこのエピリさんの依頼を受けて、とある場所の調査を続けてるんだ。この集落から南に30kmくらいの所にある、まあものすごくデカい湖だな」
「あまりにも大きいから、地中海と呼んでも差し支えないかもね」
「は、はあ…」
二人の説明を耳にしても、やはり生まれたばかりのコモモにはそれを理解するための知識が備わっておらず、煮え切らない反応をしてしまう。
レクトはそれを見て、別の角度から言い換えることにした。
「確かコモモ……だったか? 分かりやすく言うと、俺が君を助けたあの場所の近くだ。丁度、帰り道で君に出逢ったのさ」
そうやってレクトが喋っている間に、エピリは背後にある筒立てから丸めた地図を抜き取る。執務室中央のテーブルにそれを広げると、この集落と件の湖の場所にそれぞれ緑と青の石を置いた。
これで、両者の位置関係が分かりやすく示された。
(緑がある場所はかなり少ないのですね…)
ぐぐっと身を乗り出してその地図を覗き込んだコモモは、それぞれの場所よりもむしろ周囲の地形に気を惹かれた。地図はおそらく草地や荒地など地形に合わせて色分けされており、そういった視点で見ると緑のある面積が本当に少ない。
この集落の周りを除いたら、他にまとまった緑地があるのは件の湖の辺りくらいなもの。数日前の記憶を思い起こせば、ここを離れて荒野で生きていくのは中々難しいことのように思える。
しかし、今は緑地よりも湖についての話を聞く方がいいだろう。コモモは青い石を指差して尋ねた。
「ここに何かがあるのですか?」
「俺は調べても無意味だと思ってる。けど彼女はそうじゃないみたいでな」
「当然だよ。あんな特殊な状態にあって、何も無い筈ないだろう?」
一部分をとても強調して、エピリが言う。
「……あんな特殊な状態?」
「ああ、それも言わなきゃダメか」
何も知らない誰かに話すのは久しぶりか、それとも初めてか。こめかみをトントンと叩いて、言葉を探しながら話を続ける。
「あそこには、誰も近付けないんだ」
「それってもしかして、わたくしを襲ったような怪物が沢山いるとか…!?」
「『
それを聞いて、コモモは目を丸くする。彼女にとっては、あの化け物に比肩するような問題がこの世界に存在するとは思えなかった。
続く答えは、また別の意味で彼女にとって重要なものとなるのだが。
「言うなれば、毒だ」
「…毒?」
その二文字の音に、コモモの心臓が跳ねた気がした。
「そろそろ十年は経っただろうか……あの湖の周辺に、強力な毒素を持ったセルリアンが現れてね。複数体、しかもどれも巨大な個体で、辺りに毒をばら撒くから迂闊には近付けなくなったんだ」
一頻り聞き終えて、彼女の胸は熱くなる。
(そんな、ものが……!)
強力な毒素。
その恐ろしい響きと死の気配。一切の慈悲なき危険の存在に、どうしてかコモモは恐怖ではなく喜びの感情を抱いた。まるで幼少期以来の憧れに再会した時のように、奥に溢れる懐かしさを抑えることができなかった。
瞳は輝き、口の端が緩む。
「セルリアン……? あぁ、アンタは衍獣のことをそう呼んでたっけ」
「……まあね。なにぶん、昔の文献を読み漁るのが好きなもので」
レクトとエピリが何かを話していたが、コモモの耳には届かなかった。
しばらく彼女はその毒に対する単なる想像を抱いたまま恍惚としていて、次に正気を取り戻したのは湖の調査結果について話題が向いた時だった。
「で、どうだった?」
「何を期待してるかは知らないが……面白いものは何も無かったよ」
「えぇ~、本当に?」
素っ気ないレクトの結論に不満げに、エピリが詳しい説明を求める。このようなやり取りは初めてではないのだろう。面倒くさそうに顔をしかめて、レクトは至極真っ当な筈の意見を今日もぶつける。
「こそこそ隠れて調査しなきゃならないんだぞ。やつらをなんとかするような方法が無きゃ、周囲の生態調査をしてお終いだ。まあそりゃ、最初よりはマシになったけどな」
それを聞いて、エピリはニヤリと笑った。
「……生態調査はしてくれたのかい?」
「中身は殆ど無いけどな。ほら、最近の状況はまとめておいたから気が向いた時に読んでくれ」
「ふふふっ、助かるよ。だけど君の実力なら、タイマンであれば勝てそうだけどね」
「買い被りだな、そりゃ」
そんなやり取りを交わしたら、乱雑に机に投げ出された資料をエピリは文句ひとつ言わずに読み始める。
これまでもそうだった。
近くで取れた木の実を持ち帰ったり、倒した小さな衍獣の特徴をメモに残したり、湖そのものを調べられない代わりにレクトは色々なものを成果として渡したが、それ自体に対してエピリが不満を示すことはなかった。
問題となっている毒に対しても彼女が対処法を提示することはなく、逆にレクトにそれを見つけ出すことを求めもしない。
彼女が依頼だと言い、報酬も出すから受けてはいる。
しかし、こんなことをする意味は彼にはさっぱり分からないのだ。
「なあ、まだ続ける気か?」
「もう分かってるだろう? 私の興味はあの湖の秘密を解き明かすまで決して尽きることがないんだよ」
「だとして、何で俺だけなんだ?」
更に不可解なこととして、エピリはレクトだけにこの依頼を出している。この集落にはエピリ以外にもヒトがいて、彼らも時たま外に出て、生活に必要な物資を集めている。
例えば、フォルとティレッタという名前の幼馴染の男女とか。
にもかかわらず、依頼先はレクトだけ。
当然、不思議でならない。
「……それも前に言った気がするけどねえ。なんとなく、だよ」
エピリはケラケラと笑ってはぐらかし、煙管に詰める刻みたばこを袋から取り出し始めた。レクトは諦めたように息を吐いて、ソファに改めて深く腰掛けた。
たばこを詰め終わると、思い出したようにエピリが言う。
「そうだ、話は変わるけど。前に採ってきてもらった薬草がそろそろ底を尽きそうなんだ。また採りに行ってきてもらえるかい」
「分かったよ。あんたからの依頼が全部、こういうまともなもんだと俺はすごく助かるんだけど」
「あははっ、それはできない相談だね~」
マッチで煙管に火を点けながら、尚のこと彼女はおどける。
「あ、あのっ!」
そこにコモモが意を決して声を上げた。
視線が自分に集まる中、手をぎゅっと握って声量を保つ。
「その薬草採り、わたくしも一緒に行かせてくれませんか? その……なんとなくですけれど、毒や薬には自信がある気がするのです」
コモモの言い分にレクトは戸惑う。
「ある気がする、って…」
「レクト、フレンズとはこんなもんですよ。例え生まれたばかりでも、自分の得意分野は本能や直感で分かるものなのです」
「……そういやそうか」
彼はその事実を失念していたようだ。姿形がヒトと多少異なるだけの少女たちがフレンズなどと呼ばれているのだから、さして違いを意識する必要もなかったのだ。
本人の言う通り、コモモは毒や薬に詳しいのかもしれない。
だから彼らの会話を聞いていたエピリはこんな提案をした。
「連れて行ってあげなよ。レクト君の実力なら、セルリアンから彼女一人を守るくらい朝飯前だろう?」
数日前の実績も加味してのことだろう。
その発言には助手も肯いた。
「良いですね。人手が増えれば採取の効率も、持ち帰れる薬草の量も増えるのです」
「だったら助手と、博士も呼んで一緒に来たらどうだ?」
「……そうしたいのは山々ですが、我々には集落での仕事があるので残念ながらお断りするのです」
助手がそう言うと、レクトの目が細まる。働きたくない彼女が出鱈目を言っているのではないかと疑っているようだ。
その疑念を晴らすべく、助手はエピリの方を見ながら言う。
「この集落のまとめ役がもう少し精力的に仕事をしてくれれば、我々の手が空く可能性もあるのですが」
自らに向けられた皮肉に、彼女は申し訳なさそうに頭を掻くだけだった。
「いやぁ~、二人にはいつも助けられてばっかりだねぇ」
「まあ、肝心のアイツがあんな調子なので」
「なるほどな、こりゃ無理だ」
こうして助手(と何も知らない博士)は、薬草採りに駆り出される未来をすんでのところで回避した。
「そしたら、二人だけで行くことになるな」
「ええ、よろしくお願いします」
近くの森まで、二人きりで。
「……うふふ」
それが妙にうれしくて、コモモは無意識のうちに身をよじらせた。
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